私は中庭のベンチに腰を下ろし、焔から貰った一輪の花をそっと手帳に挟んだ。指先で花びらをゆっくりなぞり、手帳を閉じる。見上げると、強い日差しが空を白く染めていた。会議でのやり取り、焔の言葉が脳裏をかすめる。小さく息を吐いたその時──。
ひやっ!
突然、首筋に冷たい感触が走り、思わず肩をすくめる。
驚いて振り返ると、そこにいたのは天宮だった。
「ビックリした?」
困惑する私をよそに、彼は悪戯っぽく微笑む。右手には冷えたコーラの缶。差し出されたそれを受け取ると、天宮は私の隣に腰を下ろした。
「大丈夫?」
「はい……あの、その恰好は?」
私は目を瞬かせた。制服姿とは打って変わり、エプロンを着け、頭には三角巾を巻いていたからだ。戸惑う私に天宮はくすっと笑った。
「これはね、僕の処分」
「処分?」
「これから二週間。全館の掃除だって」
さらりと告げながらも楽しそうな天宮。「処分」ってさっき長官が言っていた話…?でも、処分にしては随分…。
「…軽い、よね」
私の心を察したかのように、天宮が目を細めた。
「館内をピカピカにすれば僕たちの処分は見送るって、さっきこっそり言われたんだ。色々厳しいこと言われたけど、長官は本当に…懐が深い方だから」
私は目を丸くして天宮を見つめる。
「上木の分まで、頑張らないとね」
天宮は表情を緩ませた。自分の処分ではなく、上木の処分が見送られたことに心から安心しているのだろう。
「さっきの丹後の話、気にしないでね」
天宮が遠慮しがちに切り出す。突然の「丹後」の名に私の顔は少し強張った。
「丹後のおじいさん、十年前にミレニアにさらわれたんだ。藍子さんの助手だったから丹後はどうしてもそこを気にしていてね」
「そう…なんですか…。丹後さんのおじいさんは…今…?」
天宮は、静かに顔を伏せ、ゆっくりと首を振った。
「ミレニアの要望を頑なに拒み続けて、獄中で亡くなったって聞いたよ」
丹後さんのおじいさんが…。
「丹後は怒りの矛先を間違えてるんだ。本人も本当はわかってる。気持ちのやり場がないだけなんだ」
諭すように優しく告げる天宮。
私は小さく頷くが、それを受け止められる余裕がなかった。今思い返しても、丹後の言葉が鋭い針のように突き刺さる。
丹後の話が少し辛くなった私は、話題を変えようと口を開いた。
「あの…さっきの会議の話、本当なんでしょうか?私と焔さんが『対なる者』というのは」
「恐らくね。だからミレニアもソルブラッドの宿主を探している。凪さんが宿主だと気付くのは、きっと時間の問題だ。ミレニア側にもルナブラッドの宿主がいるから、凪さんをさらえば磁場エネルギーに繋がる時紡石を手に入れられる。そう考えると、かなり厄介だね」
「それって、
その瞬間、天宮の表情が変わった。
私から「御影」の名が出たことが予想外だったのだろう。
「…どこでそれを?」
「紅牙組の人から。人狼族のこと、調べている人がいて」
教えてくれたのは財前だ。
ミレニアは十年前に人狼族の村を襲撃した時、本家「御影一族」の末裔をさらった。生きたまま捕らえ、その血を今も利用し続けているのだと。
「焔さんは…御影さんを救うためにSPTに入隊したんでしょうか?」
すると、天宮の顔が一気に曇る。視線を落とし、躊躇うような間の後にこう呟いた。
「…どうなんだろうね」
意味深な反応に、私は不安に駆られた。
焔さんの目的は、御影さんを救うことじゃない…?
他に何か目的が…?
「凪さん?」
私はハッと顔を上げ、不安を誤魔化すように手を振り、笑顔を作る。
「そういえば天宮さんって、すぐにスパイが瓜生さんだって気付いたんですよね?」
今度は天宮がきょとんと目を瞬かせる。
私たちがスパイ探しに奔走していた時、天宮は迷うことなくスパイの正体が瓜生だと見破った。その決断の早さに、焔ですら驚いていたほどだ。
天宮は少し考えた後、ふっと微笑んだ。
「わかるよ。上木のこと、気にかけていたからね」
天宮は手にした缶コーヒーのプルタブを静かに引き起こし、軽快な音を立てて開け、ゆっくり口に含んだ。
「ずっと元気がなかったんだ。そんな時、君に仕掛けられた発信機を見て只事じゃないと思った。状況的に仕掛けられたのは上木しかいない。でも、そんなことを彼女がするなんて思えなかった。何かとんでもないことに巻き込まれてるんじゃないかと思って確認して、驚いた。瓜生が彼女を利用していたなんて」
「…そうだったんですね」
「事情を知って、すぐ行動しないとと思った。上木はかなり瓜生の計画に介入していたし、何かあれば、瓜生はきっと彼女に罪を擦り付けると思ったから」
すると、天宮は缶コーヒーを強く握り締め、視線を前に向けたまま、鋭い光を瞳に宿す。
「…僕がいる以上、彼女を傷付けるような真似はさせない。絶対に」
──きゅん。
「…そう思ってたんだけど、結局、上木に重傷を負わせることになった。合わせる顔がないよ。本当に…」
天宮は肩を落とし、苦々しく缶コーヒーを口に運んだ。
彼の横顔を見つめながら、私はある確信を抱く。
「あの、天宮さんは…上木さんのことが……好き、なんですか?」
数秒の沈黙。天宮の動きがピタリと止まる。
…あれ?違ったかな?
すると次の瞬間、天宮がブーっと音を立てて、盛大にコーヒーを吹き出した。
この反応…!
やっぱり!!
「だから上木さんが元気ないってすぐ気付いたんですね!」
私はパンっと手を叩き、キャッキャッと盛り上がる。一方の天宮は、顔を真っ赤にしてガクッと俯いた。
実はこういう話が大好きな私。思わず笑顔が溢れる。とはいえ、まさかSPT初の恋バナ相手が天宮になろうとは。
「凪さん…このこと…上木には…」
「そんなことしませんよ!アタックしてみたらどうですか!?天宮さん、格好いいし、優しいし、デートに誘えばきっと…」
「いや…」
天宮はゆっくりと顔を上げる。かなり動揺しているのか、顔が赤いままだ。
「彼女さ、お面をつけてるでしょ?」
確かに彼女はいつもお面をつけている。以前ちらりと火傷の痕を見たことがあった。それを気にしていると思ったのだが…。
「あのお面、火傷を隠すためじゃないみたいなんだ」
「え?」
「彼女ね、昔、火事で両親を亡くして、それ以来児童養護施設で過ごしてるんだ。自立した今もたまに顔を出してるみたいなんだけど…施設ではお面を外してるんだよ」
「…そう…なんですか?でも、どうして天宮さんがそれを?」
天宮は照れくさそうに笑い、頭を掻く。
「いや…実は…うちの財閥…その児童養護施設の支援もしていて、僕も何度か行ったことがあるんだ。初めて行った時驚いた。凄く楽しそうに笑ってたから。上木も僕を見て驚いていたけど…。それから少しずつ、会うたびに話すようになって…」
「へええ」
その時のことを思い出したのか、天宮は小さく笑う。
「…今SPTでお面をしてるのは、彼女なりの理由があると思うんだ。もし僕が変な素振りを見せたら、それこそ彼女を困らせるし、心も開いてくれない。気持ちを伝えるとしたら、彼女がお面を外した時、かな」
天宮が息を吐きながら空を見上げた。
「…お面なんてする必要ないのに。あんなに可愛いのに……ね?」
天宮のド直球な言葉に、思わず赤面する私。彼の表情からは、上木への温かな想いがはっきりと感じられた。すると、天宮がふっと立ち上がる。
「これから上木に会うんだよね?」
「はい!良かったら天宮さんも一緒に──」
天宮は私の言葉を遮るように、小さく首を振る。
「合わせる顔がない。彼女が傷を負ったのは、僕のせいだから」
私は思わず息を呑む。
そんな…きっと上木さんは…。
「上木によろしくね」
天宮は小さく笑いながらゆっくりと歩き出す。
なんとなく、このまま行かせてはいけない気がした私は、気付くと彼を呼び止めていた。
「あの!」
天宮が足を止め、少し驚いた表情で振り返る。
上木の本当の気持ちはわからない。
でも…。
私は息を吸い、背筋を伸ばしてこう続けた。
「上木さん、嫌なことをさせられて、誰にも言えなくて…。そんな時に天宮さんだけが気付いてくれた。きっと嬉しかったと思います!」
天宮はしばらく私を見つめた後、穏やかに頷いた。
「ありがとう、凪さん」