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第92話 想花

 SPT本部の廊下は隊員たちで溢れていた。ちょうど昼食時。あちこちから楽しげな笑い声が響き、雑談に花を咲かせている。和やかな空気が満ちる中、私はひとり俯きながら走っていた。


 走っても、走っても、心の中で丹後の言葉がこだまする。


 人狼族の人たち、そして丹後のおじいさん──。

 おばあちゃんの研究が、彼らの命を奪うきっかけだったなんて。

 信じられない、信じたくない。けれど、現実が否応なく私を追い詰める。


 どれくらい走っただろう。

 気付くと私は中庭にいた。美しい花々が風に揺られる中、私は隠れるように中庭の奥へ進み、両腕で肩をそっと抱きしめる。


 ──知らないということは、それだけで罪だ。


 丹後と初めて会った時、この場所で彼に言われた言葉。それが今、頭の中で冷たく響く。


 焔さんは、今までどんな気持ちで私といたんだろう。

 どんな気持ちで私を守って…。

 私は彼の傷を考えようともせず、呑気に彼に想いを寄せたりして…。


「…ごめんなさい」


 私は無意識にそう呟いた。ずっしりと、重たい鉛のようなものが心にのしかかる。すると「ガサッ」という音が背後から微かに聞こえた。小さな足音がゆっくりと、こちらに近づいてくる。


 誰か来る。お願い、今は一人に──。


「…凪」


 私は肩をビクつかせた。焔だ。


「…すまない」


 その言葉が届くのと同時に、さらに大粒の涙が溢れた。


 違うんです。謝らないといけないのは私の方。


 そう思っているのに、言葉にならない。振り向くこともできない。

 それでもどうにか気持ちを伝えたくて、私は小さく首を振る。それが精一杯だった。


「いずれ話そうと思っていた。でも君は優しいから、きっと気にする」


 焔の声が近づく。ゆっくり歩み寄って来ているのがわかる。


「ほ…本当…なんですか?…さっき、の、丹後さんの…話…」


 私は泣きながらなんとか声を絞り出す。聞くのが怖い。だけど、聞かなくちゃいけない。


「教えて…くだ、さい。お願い…します」


 背を向けたまま、必死に問いかける。


「…そう…思う者もいる」


 その瞬間、心臓がずしりと沈んだ。やっぱり。でもこれで腑に落ちた。昔、おばあちゃんがどうして納屋で自らの命を絶とうとしていたのか。責任を感じていたんだ。自分のせいで、人が殺されてさらわれた。その罪を償わなければならない。おばあちゃんはきっとそう思ったんだ。


「焔…さん、は、おばあちゃんを…恨んで…るんですか?」


 絞り出した声は微かに震えていた。焔は一拍の間を置いて、静かに答えた。


「恨んでない」


 私はふっと息を吐いた。そんなわけない。家族も仲間も殺されて、そのきっかけとなった人を恨まないなんて。きっと、私の前だから言えないんだ。  


 そう思った瞬間、どうにもやるせない、怒りに似た気持ちが込み上げてきた。この際、全部言って欲しい。抱え込まずに私にぶつけて欲しい。そんな気持ちに。


「嘘……。ほ…本当のこと、教えてください。ちゃんと…知りたいんです」


 私は泣きながら精一杯伝えた。


「本当に恨んでない。…凪」


 焔はさらに私に歩み寄り、穏やかに告げた。


「初めの頃に話したが…幸村藍子の行動の解釈は、人によって違う。丹後の解釈と私の解釈は違うんだ。彼女が時紡石で私のことを見たのか…本当のことはわからないが、ひとつ言える確かなことは…」


 焔の両手がそっと私の肩に触れる。


「…君のおばあさんは、私の命の恩人でもあるのだよ」


 命の…恩人…?


「君のおばあさんは人狼族の血の研究を通じて、あらゆる病気や怪我の治療に役立てようと尽力した人物だ。そうして命を救われた者もたくさんいる。私もその一人だ。彼女の行動を悪い方に汲み取り、利用した人間こそ、責任があると思っている」


 いつも通りの冷静な言葉。けれど、その言葉の奥には、確かな信念のようなものが感じられた。


「それよりも…」


 私の肩に触れる彼の手に、力がこもる。


「元凶は人狼族だ。人狼族さえいなければ、こんなことにはならなかった。多くの人の人生が犠牲になることも…なかったんだ。だから私が、負の歴史を終わらせなければならない」


 私はハッとした。彼の言葉が突如として計り知れない哀しみを帯びたように思えたからだ。


 負の歴史を終わらせる?

 それは、一体どういう──。


 すると、唐突に焔が私の体の前へと手を伸ばした。

 抱きしめられるのかと心臓が跳ねた次の瞬間、彼は私の目の前でゆっくりと右手を握り締める。そして…。


 パチン──!


 指を鳴らす音が空間に響いた瞬間、私は目を見開いた。彼の手の中に一輪の花があったのだ。


「え…?」


 思わぬ展開に、私は思わず息を呑む。

 これは、マジック…?


 驚いて目を丸くする私の背後で、焔がクスッと小さく笑うのが伝わる。


「君が病室で寝ている間、花丸が教えてくれた。驚かせようと思って覚えたマジックが、早速役に立った」


 焔はそっと私の手を取り、花を持たせる。鮮やかで透き通るような赤い花びらが、私を見つめていた。


「…一時間後、門の前に服部が車を回してくれる」


 焔が発した名前に驚く私。服部は天宮の部下。シンメトリーな口ひげが特徴的な、品の良いおじさまだ。


「どうして…服部さんが?」


 すると、彼は少し声を弾ませてこう告げた。


「上木が目を覚ました」


 その言葉を聞いた瞬間、私はハッと顔を上げて振り向いた。


「か、上木さんが!?」


 思わず前のめりになる私。焔との距離が思いのほか近くて、一瞬戸惑う。

私はすぐに「あっ」と小さく声を漏らした。大泣きしたせいで、間違いなく目が真っ赤になっているはず。一気に恥ずかしくなり、慌てて顔を伏せる。だが、焔は安心したようにくすりと笑った。


「…ようやく、こっちを向いたな」


 焔はポンッと軽く私の肩に触れ、穏やかに続けた。


「上木もきっと、君に会いたがってる。気持ちを落ち着かせてから病院へ向かえ。一時間以上かかってもいい。服部には伝えておくから」


 そう言って、焔は懐から懐中時計──いや、懐中時計型の発信機を取り出した。これは、瓜生と対峙した時、念のために渡されていたものだ。


「上木との話が終わったら、これを押して知らせてくれ。迎えに行く」


 私はゆっくりと顔を上げ、戸惑いながら懐中時計を見る。


「いいんですか?この懐中時計、何回も預かっているのに戦闘中に落としちゃってるし、呼ぶならスマホで…」

「いや…」


 そう言いかけたところで、焔がふっと視線を落とす。


「…こっちの方が、好きなんだ」


 思わずビクッとなる。「好き」という言葉に、無意識に反応してしまったのだ。私は小さく頷き、懐中時計にそっと手を伸ばした。


「じゃあ…お借りします」


 すると、焔はふわっと手を伸ばし、私の頭をそっと撫でた。


「またあとで」


 そう告げると、焔はゆっくりと振り返り、そのまま去って行った。一人になりたい私の気持ちを汲んでくれたのだろう。ふと横を見ると陽の光を受け、草木や花々が軽やかに揺れていた。煌めくような色を見つめながら、さっきの焔の言葉を思い返していた。


 ──私が、負の歴史を終わらせなければならない。


 この言葉の裏に、私は何か不吉な予感が潜んでいるような気がしてならなかった。


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