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第84話 安寧

 私はハッと目を覚ました。顔を上げると、窓から心地よい風が入り込み、カーテンを揺らしている。上体を起こすと、私は白い入院着に身を包んでいた。横には脈拍を測る電子機器が淡々と動いている。


 ここは、病室…?


「起きた?」


 驚いて声のする方に視線を向けると、そこにはSPT幹部の江藤がいた。制服姿の彼は安心したように微笑む。


「あれから三日眠ってたんだよ」


 三日…三日も!?


 私は一瞬顔を伏せた後、慌てて江藤に向き直る。


「あの…上木さんは!?」


 江藤はさらに表情を緩め、落ち着かせるように頷いた。


「大丈夫。助かったよ。意識はまだ戻らないけどね」


 私は目を閉じ、長く深い息を吐く。


 良かった、本当に…上木さん…。


「あの、焔さんは?ヤトは!?」


 すると、江藤が人差し指を口元に当てて「シーッ」と静かに息を漏らした。そのまま私に歩み寄り、隣の仕切りのカーテンをそっと引く。

 そこには、焔がヤトを抱き抱えたまま眠りについていた。


「さっきまで起きてたんだけど、流石に寝ちゃったね。焔もヤトも、三日三晩ほとんど寝ずに君を診てたから」

「え?」


 私は驚いて焔とヤトの姿を見つめる。スヤスヤと寝息を立てる姿を見ているうちに、胸の奥がじんわり温かくなる。

 その時、病室のドアが小さく開き、一人の男性が入ってきた。SPTの隊員だろうか。男性は江藤に何か耳打ちし、すぐに姿を消した。


「何か…?」

「ん?いや、あと五分で見張り交代だって」

「見張り?誰のですか?」


 江藤は一瞬口ごもり、小さく笑う。


「君の。蓮華さ…瓜生が君を狙っているから」


 江藤はかつての同僚の名を言い直した。彼女…瓜生蓮華はSPTを裏切っていた。親しげに呼ぶことを拒んだのだろう。


「江藤さん、瓜生さんはもしかして…」

「逃げられた。凄いよね。幹部全員を相手に。ただ、負傷しているからそれほど遠くへは逃げてないと思うけど」


「…あの、そういえばどうしてあの夜、応援に来てくれたんですか?」

「長官から指示があったんだ。焔を援護しろ、スパイは瓜生だってね。驚いちゃった」

「…そう、でしたか…」

「それで…」


 江藤は軽く咳払いをし、一転して真剣な表情を浮かべる。


「みんな君に色々と聞きたいことがあるみたい。明日にでも、また会議が開かれると思う」

「…はい」


 なんとなく察した。会議の議題はきっと瓜生のこと。それに私が持つ「ソルブラッド」のことだ。


「じゃあ、俺行くよ。代わりの見張りがすぐ来るから」


 江藤は振り向き、病室から出ようとする。だが、次の瞬間…。


 ──ぐるるるる…。


 情けない音が響き、私は思わず固まる。すると、江藤が驚いた表情で振り返った。目が合った瞬間、私は苦笑いを浮かべて軽く会釈をする。何とか誤魔化そうと口を開いたまさにその時…。


 ──ぐるるるる!


 今度はさらに大きな音が轟いた。私はお腹をサッと抱え、顔を逸らす。昔からこうなのだ。お腹が極限まで空くと、かなりデカイ音が鳴る。家族と親友のひなたしか知らない秘密を、まさかこのタイミングで江藤に知られることになろうとは。


「…ははっ」


 不意に漏れる江藤の笑い声。彼を見ると、微かに肩が震えていた。


「売店なら一階のロビーにあるよ。この病院内なら自由に移動して問題ないから」

「は、はあ。でも…」

「ん?」

「売店があっても…お金がありません」


 私はさらに情けない声を出した。そう、私は無一文。これまで衣食住はすべて焔が用意してくれていたのだ。


「…給料は?」

「入隊したのちょっと前ですから、貰ってません」

「焔から貰ってないの?その…お小遣い的な」


 私はゆっくり頷く。焔ならお金を持っているだろうけど、彼の荷物を漁るわけにもいかないし。

 すると、江藤はポケットから財布を取り出し、紙幣を一枚抜き取ると、入口近くの棚の上にそっと置いた。


「これ使って。おつりはいいから」

「え!?そ、そんな…ダメですよ!悪いです!」

「いいから」


 江藤の声は短く、どこか優しかった。予想外の展開に私は戸惑いながら江藤を見ると、彼は少し目を伏せていた。


「…江藤さん?」

「…君、たった一人で戦ったんだね。あの瓜生と」


 不意な江藤の言葉に私はどう答えていいかわからず、きょとんと彼を見上げた。


「それに天宮から聞いた。上木も君が救ったって。命懸けで」


 その言葉に、私は思わずパタパタと手を振る。


「いえ、花丸さんもいたし、上木さんの時は焔さんも…私は結局瓜生さんに負けちゃったし…」


 江藤は頭を掻き、申し訳なさそうに笑った。


「正直さ、焔が君をSPTに推薦したの、丹後へのただの当てつけかと思ってたんだ。だからこの子がSPT?って内心馬鹿にしてた。けど…」


 江藤は顔を上げ、真っすぐ私を見据える。表情はとても柔らかかった。


「…思ったより、ずっと度胸あるね。君」


 そう言い残し、江藤は静かに病室を出て行った。

 乾いた足音が廊下に響き、次第に遠ざかっていく。その音が完全に消えてから、私はトコトコと入口近くの棚の前へ行く。


 その瞬間、我が目を疑った。江藤が置いた紙幣は、渋沢栄一。そう、一万円札だったのだ。


「い、いちまんえん!?」


 思わず声が漏れる。確か、江藤は私と大して歳が変わらないはず。それなのに、何の躊躇いもなく一万円札を渡すとは…。


 …江藤さん、太っ腹!


 私は恐る恐る一万円札を掴む。視線をベッドで眠る焔とヤトに移した時、江藤の言葉がふと蘇った。


「度胸あるね」


 そんなことない。あの時、勇気を振り絞れたのは、焔がいたからだ。

 私は、白い包帯が巻かれた自分の手首を見て、この前の夜を思い返していた。不安でいっぱいだった私を、力強く抱きしめてくれた焔。そのぬくもりを思い出すと、胸の奥がじんと熱くなり、熱が顔から耳へと広がっていく。


 一気に照れくさくなった私は、カーテンを閉めようと手を伸ばす。すると、突然ヤトが「ううう」と小さなうめき声を上げた。ベッドの上を見ると焔の腕がヤトの首にかかり、軽く絞められるような格好になっている。ヤトはピクピクと動きながら、こんな寝言を漏らした。


「焔…やめてえ…ブロッコリーだけは…ううぅ」


 どうやら、夢で大嫌いなブロッコリーを必死で拒絶しているらしい。小さな羽をバタつかせて抵抗するヤトの羽が、今度は焔の顔を直撃。焔は寝ながら眉をひそめる。


 その様子に、思わずクスっと笑みがこぼれる。私は、二人を起こさないようヤトをひょいっと持ち上げ、焔の腕の中に優しく戻す。数秒後、二人は再びスヤスヤと心地良さそうな寝息を立て始めた。


 そうだ。焔さんとヤトのご飯も売店で買ってこようっと。


 私は仕切りのカーテンを静かに閉め、病室を後にした。



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