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第82話 献身

「上木!!」

「上木さん!!!」


 衝撃と恐怖で身体が震え、声がかすれる。


 そんな…そんな…。


 その時、入口から怒号がとどろいた。丹後だ。彼の後ろには焔とヤト、江藤の姿も見える。だが、突如目の前に広がる血塗られた光景に、彼らは足を止め、息を呑む。瓜生は冷たい表情のまま右肩を押さえ、私を一瞥し、窓から外へ飛び出した。


「逃がすか!」


 丹後が反射的に瓜生を追いかける。焔は瓜生を一瞬見た後、床に倒れた上木へと目を向けた。そして、短くヤトにこう告げる。


「追え!ヤト!」

「うん!」


 焔の声に応えて、ヤトは瞬時に窓から外へ飛び立つ。

 天宮は慌てて拳銃を投げ捨て、倒れた上木へと駆け寄った。

 彼女の瞳は固く閉ざされたまま。肩から胸にかけて、おびただしいほどの血が溢れ、床に広がっていく。天宮は彼女の手を握る。その手は僅かに震えていた。


「上木!上木!!」


 私は息を呑みながら、血だまりの中の上木を見つめていた。胸が締め付けられるような恐怖が襲う。早くなんとかしないと。

 こんな時、頼りになるのは──。


「花丸さん!」


 咄嗟に彼の名を呼ぶ。外科の研修医でもある花丸は、瞬時に上木へ駆け寄ると、素早く服の袖を破り、肩に巻き付けて手でしっかりと押させた。しかし、布は瞬く間に赤い血で染まる。


「お、俺、A棟に行って医者を呼んでくる!」


 そう言って江藤は廊下へ駆け出していく。

 一方、私は上木に駆け寄った花丸を見上げた。彼の表情は硬く、これまで見たことがないほど険しい。


 その時だった。上木の顔がカクンと力なく横に倒れた。ハッと目を大きく見開く花丸。慌てて彼女の頸動脈けいどうみゃくに手を当てて脈を確認した途端、息を吐いて唇を噛む。


「くそ!!」


 花丸は迅速に体勢を整え、心臓マッサージを行う。


「しっかり!しっかりするんだ!!」


 花丸の声が響く。彼の必死さがこの状況の深刻さを露わにしていた。


 嘘だ、こんなの…上木さん…。


 すると、不意に天宮が立ち上がり、焔に駆け寄る。その表情はいつもの冷静さからほど遠く、焦りと迷いが入り混じっていた。


「焔、人狼の…君の血を与えれば…!」

「…落ち着け。私は『ルナブラッド』だ。与えれば拒絶反応が起きるし、治癒力があるルナブラッドでも、これほどの傷…私の力で治すのは…無理だ」


 焔の言葉に唇を噛みしめる天宮。その場に崩れ落ちそうなほどの絶望感が、彼を襲っているのがわかる。そう、前に見たおばあちゃんが書いた本には確かにこう書いてあった。


 ──人狼族の能力の神髄しんずいは圧倒的な免疫力と治癒力にある。


 それでも、焔の陰の血「ルナブラッド」は、人間に与えると拒絶反応が起きてしまう。どのみち上木は救えないのだ。


 次第に私の目の前が絶望感でぼやけていく。

 気付くと私の目から涙が溢れていた。


 もう、駄目なの?諦めるしか…?


 その時、大きな声が響いた。


「諦めるな!!」


 室内に力強い声が響き渡った。私は体をビクつかせて前を見る。花丸だ。額に汗を滲ませながら、必死に心臓マッサージを続けている。


「もう少しだ!頑張れ!頑張れ…!!」


 命を吹き込むかのような気迫。


 そうだ、まだ終わりじゃない。諦めちゃ、だめだ。


 私は袖で涙をグッとぬぐい、震える声で花丸に告げた。


「花丸さん!代わります!」

「え?」

「先月、高校で心臓マッサージの講習を受けたばかりなんです。できます!」


 一同が驚いた表情で私を見る。花丸は少し考え込むが、私の真剣さを感じ取ったのか、小さく頷く。


「じゃあお願い!…誰か!使えそうな布、ハンカチでもなんでもいい!何かない!?」


 花丸は服の袖を破りながら周囲に呼びかける。


「これを!」


 即座にハンカチを差し出す天宮。花丸はそれを受け取り、上木の止血を試みる。


「上木さん!もうすぐちゃんと治療受けられます!だから、もうちょっと、もうちょっと、頑張って!!」


 震える手で必死に心臓マッサージを続けながら叫ぶ。どれくらいそうしていただろう。十秒が十分にも感じられる。気が付くと私の額からポタポタと汗が滴り落ちた。そんな私を、焔と天宮、そして花丸が真剣な眼差しで見つめている。


「凪さん、今度は僕が!」


 天宮が私に声をかける。私は小さく頷き、疲れ切った腕を下ろした。

私は天宮と心臓マッサージを代わり、上木の手に触れる。とても冷たい。


 この冷たさが少しでも和らぎますように。

 温かさを取り戻しますように。

 どうか、どうか…。


 私は祈るような気持ちで、彼女の手をぎゅっと握りしめた。

 すると、ふわっと私の頭に何かが触れる。顔を上げると、そこには焔がいた。だが、彼の表情はいつもの冷静さとは違っていた。何かを決意したような、それでいて迷いや苦痛を隠しきれないような、そんな表情をしている。


「凪、聞いてくれ。驚くだろうが、君なら上木を救えるかもしれない」


 突然の言葉に、私はただ彼を見つめる。花丸も天宮も、驚きを隠せない様子だ。


「詳しい説明は…省く」


 焔は言葉を選ぶように少し間を置き、こう言い放った。


「恐らく君は、人狼族の…それも陽の血、ソルブラッドの宿主だ」


 ソルブラッド…。


 その言葉を耳にした途端、私は全身が震えるのを感じた。


「ソルブラッ…ド…?ソルブラッドって、あの…?」


 呟くように問う私に、焔は頷いた。


「私が何を言っているか理解できないだろう。だが…」


 焔は再び言葉を詰まらせ、不安げに目を逸らす。


「…焔さん?」

「…ソルブラッドはルナブラッド以上の治癒力を持つ。それでも、これほどの傷を治すには相当な血がいるだろう。ソルブラッドは拒絶反応が起きないと前に財前が言っていたが、そんな話は聞いたことがないし、詳しいことは何も…自信がないんだ。それに、仮に助けられたとしても、人狼の血のごうを、これから先君にまで背負わせることになる」


 そう告げる彼の拳は微かに震えていた。人狼族としての迷いや苦悩が痛いほど伝わってくる。それでも、彼は顔を上げ、迷いを押し殺すかのようにこう続けた。


「だが、上木を助けるにはソルブラッドの可能性に賭けるしかない。SPTの研究員を呼んで、輸血可能ならしてくれるか?凪」


 私がソルブラッドの宿主──。

 その瞬間、私の中の点と点が繋がった。


 六歳の時。おばあちゃんは納屋で自らの首に包丁を突き刺そうとした。包丁はおばあちゃんの首を僅かに傷つけ、私は反射的にその刃を素手で掴んだ。そして、私の血が滴った時、おばあちゃんは驚愕していた。金色の光が突如として血を覆い、光り輝いていたからだ。

 金色をまとった血はおばあちゃんの首元へ滴り、首の傷を癒した。それを見たおばあちゃんは大粒の涙を流し、そっと私を抱きしめてこう呟いたのだ。



 ──ごめんね、凪。私は、あなたを巻き込んでしまった。



 記憶の片隅に埋もれていた光景。

 それが今鮮明に蘇り、鼓動が全身に響き渡る。


 私は上木を見た。表情は青白く、一刻を争う。みんな本当はわかってる。医者を呼ぶ時間も、輸血の準備をする時間も残されていないことを。

 私は拳を強く握りしめた。相変わらず体は小さく震える。


 それでも──。


「焔さん」


 私は焔の名を呼び、彼の手をそっと、ぎゅっと握った。


「大丈夫です。この血を使っても、拒絶反応は起きません。だから…」


 私は上木を見据え、覚悟を決めた。


「今、やります!」


 私は焔から手を離し、上木の小刀を拾い上げた。刃は折れているものの、尖った先端が微かに光る。震える指先で、冷たい刃を自分の手首に当てた。


 花丸と天宮が、固唾を飲んで見ているのが伝わる。私は精一杯冷静になろうと息を整えた。今、この手首を裂いてソルブラッドを出せば、あの金色の光がきっとこの人を救ってくれる。ずっと昔、おばあちゃんの傷を治してくれたように。


 だけど、本当にできるのだろうか。人の命を救うなんて大それたことが。それに、あの金色の光を自分の意志では出せたことがない。単に奇跡みたいな偶然が続いただけだ。今、金色の光が現れるなんて、そんな都合のいいことあるのだろうか?


 私は力なく横たわる上木を見る。その静かな顔は、時が止まってしまったかのように穏やかで恐ろしかった。やると決めたはずなのに、呼吸は乱れ、手は震え続ける。


 しっかりしろ。早くしないと。

 今ここで、やるしかないんだ。


 私は息を大きく吸い小刀を持つ手に力を込めた。すると──。


 次の瞬間、誰かが私の手首を強く掴んだ。焔だ。彼は真剣な眼差しでじっと私を見つめていた。


「…君ひとりに、背負わせたりはしない。君が自分の血を使うというのなら、その覚悟、私にも託してくれないか」


 焔の言葉に、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 この人は、私の気持ちを、覚悟を、汲み取ってくれている。

 それだけじゃない。私の覚悟を一緒に背負うと伝えてくれたのだ。


 この人なら──。


 私は彼を真っすぐ見つめ、はっきりと答えた。


「はい!」


 その声を合図に、焔は左手で私の肩を力強く抱き寄せ、小刀を素早く自らの右手に持ち替える。


「花丸!合図したらすぐに凪の止血だ!準備を頼む!」

「う、うん!」


 私は焔に抱きかかえられながらも、僅かに震えていた。そんな私に気付いてか、焔はさらに強く私の肩を抱き寄せる。彼は右手に持った小刀を、私の手首にそっと当てた。


「大丈夫だ、凪。私を…自分を信じろ」


 耳元で力強い声が響く。私は頷き、彼の胸元をぎゅっと掴んで目を閉じ、歯を食いしばった。


 次の瞬間、何か温かいものが手首に触れた。不思議と痛みはない。ゆっくりと目を開けると、血が私の手首から滴り落ちていた。何の変哲もない赤い血が上木の体に注がれる。私は焔の胸元を掴みながら目を閉じ、心の中で呟く。


 お願い。金色の光よ。

 どうか、どうか、この血に力を与えてください。


 すると、私の肩を抱く焔の手が微かに動いた。ゆっくりと目を開けると、滴っていた血は瞬く間に金色をまとい、煌びやかな光を放つ。


 焔も、天宮も花丸も、その光を、ただじっと見つめていた。光は暖かく、優しく、どこか懐かしい感触を伴って、私の手首から上木の体へと伝い、彼女の体を金色に覆っていく。


 あの時と同じだ。できた。


 そう思った瞬間、私は自分の瞳から一筋の涙が落ちるのを感じた。光はさらに眩さを増し、周辺を金一色に染める。視界が霞み、音が遠のき、上木や天宮、花丸の姿が少しずつぼんやりと消えていく。そんな沈みゆく意識の中で、たったひとつの声を、私は確かに聞いた。


 ──凪、凪。


 耳元で力強く私の名を呼ぶ、大好きな人の声を。



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