「上木!!」
「上木さん!!!」
衝撃と恐怖で身体が震え、声がかすれる。
そんな…そんな…。
その時、入口から怒号が
「逃がすか!」
丹後が反射的に瓜生を追いかける。焔は瓜生を一瞬見た後、床に倒れた上木へと目を向けた。そして、短くヤトにこう告げる。
「追え!ヤト!」
「うん!」
焔の声に応えて、ヤトは瞬時に窓から外へ飛び立つ。
天宮は慌てて拳銃を投げ捨て、倒れた上木へと駆け寄った。
彼女の瞳は固く閉ざされたまま。肩から胸にかけて、おびただしいほどの血が溢れ、床に広がっていく。天宮は彼女の手を握る。その手は僅かに震えていた。
「上木!上木!!」
私は息を呑みながら、血だまりの中の上木を見つめていた。胸が締め付けられるような恐怖が襲う。早くなんとかしないと。
こんな時、頼りになるのは──。
「花丸さん!」
咄嗟に彼の名を呼ぶ。外科の研修医でもある花丸は、瞬時に上木へ駆け寄ると、素早く服の袖を破り、肩に巻き付けて手でしっかりと押させた。しかし、布は瞬く間に赤い血で染まる。
「お、俺、A棟に行って医者を呼んでくる!」
そう言って江藤は廊下へ駆け出していく。
一方、私は上木に駆け寄った花丸を見上げた。彼の表情は硬く、これまで見たことがないほど険しい。
その時だった。上木の顔がカクンと力なく横に倒れた。ハッと目を大きく見開く花丸。慌てて彼女の
「くそ!!」
花丸は迅速に体勢を整え、心臓マッサージを行う。
「しっかり!しっかりするんだ!!」
花丸の声が響く。彼の必死さがこの状況の深刻さを露わにしていた。
嘘だ、こんなの…上木さん…。
すると、不意に天宮が立ち上がり、焔に駆け寄る。その表情はいつもの冷静さからほど遠く、焦りと迷いが入り混じっていた。
「焔、人狼の…君の血を与えれば…!」
「…落ち着け。私は『ルナブラッド』だ。与えれば拒絶反応が起きるし、治癒力があるルナブラッドでも、これほどの傷…私の力で治すのは…無理だ」
焔の言葉に唇を噛みしめる天宮。その場に崩れ落ちそうなほどの絶望感が、彼を襲っているのがわかる。そう、前に見たおばあちゃんが書いた本には確かにこう書いてあった。
──人狼族の能力の
それでも、焔の陰の血「ルナブラッド」は、人間に与えると拒絶反応が起きてしまう。どのみち上木は救えないのだ。
次第に私の目の前が絶望感でぼやけていく。
気付くと私の目から涙が溢れていた。
もう、駄目なの?諦めるしか…?
その時、大きな声が響いた。
「諦めるな!!」
室内に力強い声が響き渡った。私は体をビクつかせて前を見る。花丸だ。額に汗を滲ませながら、必死に心臓マッサージを続けている。
「もう少しだ!頑張れ!頑張れ…!!」
命を吹き込むかのような気迫。
そうだ、まだ終わりじゃない。諦めちゃ、だめだ。
私は袖で涙をグッとぬぐい、震える声で花丸に告げた。
「花丸さん!代わります!」
「え?」
「先月、高校で心臓マッサージの講習を受けたばかりなんです。できます!」
一同が驚いた表情で私を見る。花丸は少し考え込むが、私の真剣さを感じ取ったのか、小さく頷く。
「じゃあお願い!…誰か!使えそうな布、ハンカチでもなんでもいい!何かない!?」
花丸は服の袖を破りながら周囲に呼びかける。
「これを!」
即座にハンカチを差し出す天宮。花丸はそれを受け取り、上木の止血を試みる。
「上木さん!もうすぐちゃんと治療受けられます!だから、もうちょっと、もうちょっと、頑張って!!」
震える手で必死に心臓マッサージを続けながら叫ぶ。どれくらいそうしていただろう。十秒が十分にも感じられる。気が付くと私の額からポタポタと汗が滴り落ちた。そんな私を、焔と天宮、そして花丸が真剣な眼差しで見つめている。
「凪さん、今度は僕が!」
天宮が私に声をかける。私は小さく頷き、疲れ切った腕を下ろした。
私は天宮と心臓マッサージを代わり、上木の手に触れる。とても冷たい。
この冷たさが少しでも和らぎますように。
温かさを取り戻しますように。
どうか、どうか…。
私は祈るような気持ちで、彼女の手をぎゅっと握りしめた。
すると、ふわっと私の頭に何かが触れる。顔を上げると、そこには焔がいた。だが、彼の表情はいつもの冷静さとは違っていた。何かを決意したような、それでいて迷いや苦痛を隠しきれないような、そんな表情をしている。
「凪、聞いてくれ。驚くだろうが、君なら上木を救えるかもしれない」
突然の言葉に、私はただ彼を見つめる。花丸も天宮も、驚きを隠せない様子だ。
「詳しい説明は…省く」
焔は言葉を選ぶように少し間を置き、こう言い放った。
「恐らく君は、人狼族の…それも陽の血、ソルブラッドの宿主だ」
ソルブラッド…。
その言葉を耳にした途端、私は全身が震えるのを感じた。
「ソルブラッ…ド…?ソルブラッドって、あの…?」
呟くように問う私に、焔は頷いた。
「私が何を言っているか理解できないだろう。だが…」
焔は再び言葉を詰まらせ、不安げに目を逸らす。
「…焔さん?」
「…ソルブラッドはルナブラッド以上の治癒力を持つ。それでも、これほどの傷を治すには相当な血がいるだろう。ソルブラッドは拒絶反応が起きないと前に財前が言っていたが、そんな話は聞いたことがないし、詳しいことは何も…自信がないんだ。それに、仮に助けられたとしても、人狼の血の
そう告げる彼の拳は微かに震えていた。人狼族としての迷いや苦悩が痛いほど伝わってくる。それでも、彼は顔を上げ、迷いを押し殺すかのようにこう続けた。
「だが、上木を助けるにはソルブラッドの可能性に賭けるしかない。SPTの研究員を呼んで、輸血可能ならしてくれるか?凪」
私がソルブラッドの宿主──。
その瞬間、私の中の点と点が繋がった。
六歳の時。おばあちゃんは納屋で自らの首に包丁を突き刺そうとした。包丁はおばあちゃんの首を僅かに傷つけ、私は反射的にその刃を素手で掴んだ。そして、私の血が滴った時、おばあちゃんは驚愕していた。金色の光が突如として血を覆い、光り輝いていたからだ。
金色を
──ごめんね、凪。私は、あなたを巻き込んでしまった。
記憶の片隅に埋もれていた光景。
それが今鮮明に蘇り、鼓動が全身に響き渡る。
私は上木を見た。表情は青白く、一刻を争う。みんな本当はわかってる。医者を呼ぶ時間も、輸血の準備をする時間も残されていないことを。
私は拳を強く握りしめた。相変わらず体は小さく震える。
それでも──。
「焔さん」
私は焔の名を呼び、彼の手をそっと、ぎゅっと握った。
「大丈夫です。この血を使っても、拒絶反応は起きません。だから…」
私は上木を見据え、覚悟を決めた。
「今、やります!」
私は焔から手を離し、上木の小刀を拾い上げた。刃は折れているものの、尖った先端が微かに光る。震える指先で、冷たい刃を自分の手首に当てた。
花丸と天宮が、固唾を飲んで見ているのが伝わる。私は精一杯冷静になろうと息を整えた。今、この手首を裂いてソルブラッドを出せば、あの金色の光がきっとこの人を救ってくれる。ずっと昔、おばあちゃんの傷を治してくれたように。
だけど、本当にできるのだろうか。人の命を救うなんて大それたことが。それに、あの金色の光を自分の意志では出せたことがない。単に奇跡みたいな偶然が続いただけだ。今、金色の光が現れるなんて、そんな都合のいいことあるのだろうか?
私は力なく横たわる上木を見る。その静かな顔は、時が止まってしまったかのように穏やかで恐ろしかった。やると決めたはずなのに、呼吸は乱れ、手は震え続ける。
しっかりしろ。早くしないと。
今ここで、やるしかないんだ。
私は息を大きく吸い小刀を持つ手に力を込めた。すると──。
次の瞬間、誰かが私の手首を強く掴んだ。焔だ。彼は真剣な眼差しでじっと私を見つめていた。
「…君ひとりに、背負わせたりはしない。君が自分の血を使うというのなら、その覚悟、私にも託してくれないか」
焔の言葉に、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
この人は、私の気持ちを、覚悟を、汲み取ってくれている。
それだけじゃない。私の覚悟を一緒に背負うと伝えてくれたのだ。
この人なら──。
私は彼を真っすぐ見つめ、はっきりと答えた。
「はい!」
その声を合図に、焔は左手で私の肩を力強く抱き寄せ、小刀を素早く自らの右手に持ち替える。
「花丸!合図したらすぐに凪の止血だ!準備を頼む!」
「う、うん!」
私は焔に抱きかかえられながらも、僅かに震えていた。そんな私に気付いてか、焔はさらに強く私の肩を抱き寄せる。彼は右手に持った小刀を、私の手首にそっと当てた。
「大丈夫だ、凪。私を…自分を信じろ」
耳元で力強い声が響く。私は頷き、彼の胸元をぎゅっと掴んで目を閉じ、歯を食いしばった。
次の瞬間、何か温かいものが手首に触れた。不思議と痛みはない。ゆっくりと目を開けると、血が私の手首から滴り落ちていた。何の変哲もない赤い血が上木の体に注がれる。私は焔の胸元を掴みながら目を閉じ、心の中で呟く。
お願い。金色の光よ。
どうか、どうか、この血に力を与えてください。
すると、私の肩を抱く焔の手が微かに動いた。ゆっくりと目を開けると、滴っていた血は瞬く間に金色を
焔も、天宮も花丸も、その光を、ただじっと見つめていた。光は暖かく、優しく、どこか懐かしい感触を伴って、私の手首から上木の体へと伝い、彼女の体を金色に覆っていく。
あの時と同じだ。できた。
そう思った瞬間、私は自分の瞳から一筋の涙が落ちるのを感じた。光はさらに眩さを増し、周辺を金一色に染める。視界が霞み、音が遠のき、上木や天宮、花丸の姿が少しずつぼんやりと消えていく。そんな沈みゆく意識の中で、たったひとつの声を、私は確かに聞いた。
──凪、凪。
耳元で力強く私の名を呼ぶ、大好きな人の声を。