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第80話 拮抗

「…まったく。ようやく大人しくなったわね」


 私は必死にもがこうとするが、黒い靄はクモの巣のように全身に絡みついたままだ。


 まさか…。


 私は目を見開いて瓜生の右手を見る。その手は、狂気じみた黒い靄で覆われていた。私の突きの攻撃を受けていた最中、すでに人狼化していたなんて。


「は、花丸さん!動けますか!?動けたら、私の手を思いきり叩いて!そうすれば動けるかも…」


 だが、彼も私と同じく黒い靄に全身を覆われ、困惑した表情を浮かべている。私と同じく、体が動かせない様子だ。


「い、一体、どういうわけ?これ?」


 くそ…。


 私は悔しさを抑えきれず、瓜生を睨む。


「ごめんなさいね。あなたと引き換えに、私は大事なものをミレニアから返してもらわなければならないの」

「大事なもの?」

「え?…お金、とかですか?」


 同時に問う私と花丸。瓜生は私たちを見下ろしながら低く呟いた。


「最後だから教えてあげる。それは、私の命より大切なもの」


 彼女の声には、冷たさと哀しさが滲んでいた。それが何なのか考える間もなく、瓜生は一歩、私たちに近づく。

 このまま、動けなくなった私を攫う気なのだろう。だけど…。


「だからといって『はいそうですか』と言うほど素直じゃないです」


 私は力いっぱい強がる。すると、彼女の眉が微かに吊り上がった。


「なかなか生意気な面構えするじゃない。焔とヤトに守られているだけの、弱っちい小娘かと思ってたけど」


 瓜生は懐から縄を取り出した。私の手足を拘束した上で運び出すつもりなのだろう。


 どうする?どうする!?


 私はこの状況を打開する策を必死で考える。

 動かない体。それにこの黒い靄、まるで重力を持っているかのようだ。一体どうすれば…。そう思った矢先、花丸が力いっぱい声を上げた。


「凪ちゃん!こうなったら気持ちで勝つしかないよ!最近、すっごく腹が立ったこと、思い出してみて!」


 唐突な花丸の言葉に瓜生は鼻で笑う。だが、その嘲笑が私の心に火を点けた。

 瞬間、頭の中でスイッチが切り替わった。最近感じた怒り。真っ先に脳裏に浮かんだのは、以前私をせせら笑いながら馬鹿にした男。紅牙組の若頭、財前だ。


―SPT?冗談だろ。どう見ても中学生くらいの「ちんちくりん」じゃねえか。


 ケタケタと笑う財前の顔が脳裏にチラつく。今は名前で呼んでくれるものの、当初財前は私をバカにして「ちんちくりん」呼ばわりしていた。それ以外にも、色々彼からスケベな(失礼な)ことをされてきた私。今思い出しても腹が立つ。そう思った瞬間、胸の奥から怒りが湧き上がるのを感じた。実はこの私、一度された嫌なことは結構根に持つタイプなのだ。


―…私をちんちくりん呼ばわりしたこと、

  まだ忘れてませんよ。財前さんんんん…―


 半分恨みに近い感情を燃やしながら、私は唇を思いきり噛み、重い体をゆっくりと持ち上げる。体中がガクガクと震え、足元もおぼつかない。それでも、なんとか立ち上がり瓜生を見据えた。彼女は驚愕の表情を浮かべている。


「そんな…こんな馬鹿げた男のアドバイスなんかで…」


 瓜生が花丸を睨みつけ、吐き捨てるように言う。その声が、再び私の心を燃やした。脳裏に焔の毅然とした姿が浮かぶ。さっき彼は私たちの作戦を馬鹿にした彼女にこう言い放ったのだ。


――馬鹿げてなどいない。この場に馬鹿がいるとすれば、上木を撃ち殺そうとした人情の欠片もない君だ――


 焔の声を思い出すと勇気が湧いてくる。私は大きく息を吸い、モップを強く握りしめた。


「花丸さんは馬鹿なんかじゃない!この場に馬鹿がいるとするなら、色んな人を裏切って傷つけてきた人情の欠片もないあなたです!」


 私は瓜生に向かって走り出す。

 体が鉛のように重たい。

 きっとこれが、最後の一撃。


 次の瞬間、私の胸の奥から何かが弾け飛ぶ感覚があった。それは空気のような形のない力となり、瞬時にモップに纏う。そして、瞬く間に金色に輝いた。


 これは…あの時の、金色の光…!


 光は私の心に呼応するかのように、その場をまばゆい輝きで照らし出す。私が瓜生に向かってモップを振り下ろした次の瞬間、金色の光も瓜生に向かって一直線に伸びていった。


「ぐっ…!」


 瓜生は懐から素早く新たな小刀を取り出し、辛うじて私の攻撃を受け止める。次の瞬間、彼女の右手がさらに強い人狼の「陰の気」を発し始めた。黒い光が溢れ出し、金色の光と拮抗する。


 バチバチという鋭い音が響く。電流のような小さな稲妻が、まるで黒と金の戦いを象徴するかのように走り回る。天井の蛍光灯は砕け散り、破片が床に散らばった。


 だが、数秒の拮抗で私の体力と精神力はあっという間に奪われていく。なんとか手に力を込めるが、徐々に光は弱まり、ついには完全に消えてしまった。

 私は強烈な眩暈に襲われ、崩れるように床に倒れ込んだ。全身から力が抜け、もう顔を上げるどころか指一本も動かせない。


 その直後、瓜生も陰の気を消した。というより消さざるを得なかったのだろう。体力が尽きたのか、彼女も床に倒れている。少しでも体が動けば…。そう思ったものの、ぴくりとも動かない。先に立ち上がったのは瓜生だった。

 彼女はふらつく足取りで私に近づき、ゆっくりと手を伸ばす。


 くそ、ここまで粘ったのに。

 やっぱり、私はこの人に及ばない…。


 霞む視線の先に、花丸が見えた。


「凪ちゃん…!しっかり…」


 体が動かないままの花丸。それでもなんとか体を動かそうとしているのだろう。全身を震わせながら私に手を伸ばそうとしている。


「…花丸さん…」


 弱々しく呟く私の声は、かすれて自分にすら届かない。


 焔さん、ヤト…。

 もうダメ、今度こそ…。


 諦めかけたその時だった。


 ――パンッ!


 突如として乾いた音が響く。反射的に目を開けると、瓜生は手に持っていた小刀を床に落とし、右肩を押さえ、膝を床につけていた。彼女の肩からは血が溢れ、床にぽたぽたと滴り落ちる。


 今のは…銃声…?


 私は霞む目を入口に向ける。薄暗い廊下の影から、微かに銃口が覗いているのが見えた。


 誰?


 さらに目を凝らす私。その時、月明かりがふっと差し込み、入口を薄く照らし出す。光は足元からゆっくりと上へ伸び、肩、そして顔を浮かび上がらせた。


「あなたは…」


 私は息を呑んだ。そこにいたのはSPTきっての策略家。

 瓜生を罠に嵌めた天宮昂生だった。


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