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第77話 哀怒

 暗闇の中で、私は宙に浮いているような感覚に襲われていた。激しい耳鳴り。瞳は閉じているのに、火花が弾けるような光の気配がちらつく。それはどこか遠く、現実とは切り離された世界のようだった。


 ――焔さん…ヤト…。


 すると、次の瞬間、耳鳴りが消え、体が急激に何かに引き寄せられた。


 ドンッ!


「あいたっ!」


 私は冷たい床に叩きつけられ、思い切り頭を打った。ヒリヒリする後頭部を押さえ、慌てて周囲を見渡す。


 ここは――?


 そこは病室のようだった。白いカーテンが乱れ、窓の外から月明かりが差し込んでいる。だが、人気はまるで感じられない。棚の中のファイルや空の瓶は、長らく触れられた形跡がなく埃を被っているようだ。

 私は背後の荒い息遣いに気付き、振り返る。そこにいたのは瓜生。右手の人狼化が限界に達したのか、肩を激しく上下させ、口からは赤黒い血が滴っていた。


 ここはどこ?どこかの病院?


 立ち上がったのと同時に、突然蛍光灯がパチッと点灯した。私は視線を入口に向け、アッと声を上げる。そこにいたのは、あの花丸だったのだ。


「な、凪ちゃん!!」

「花丸さん!?」


 …ってちょっと待って。花丸さんがいるということは…。


 実は、花丸は今夜焔の家に泊まることになっていて、神宮医療センターのロビーで待つよう言われていたのだ。


「花丸さん!ここ、もしかして神宮医療センターですか!?」


 勢いよく問いかける私。花丸は一瞬目を丸くするが、私の鬼気迫った表情を見て、慌てたように頷く。


「そうだよ!さっき凪ちゃんたちがいたのはA棟で、こっちはB棟。受付の人から今は老朽化で閉鎖されてるって聞いたけど…」

「どうしてここに?A棟のロビーで待ってるはずじゃ…」

「え?いやあ、それがさあ…」


 花丸は頭を掻きながら照れ笑いを浮かべる。


「みんなが来るまで暇だから散歩してたんだ。そしたらとんでもなく広くて迷っちゃって。大きな音がしたんでビックリしたよ」


 頷きつつも、私の脳裏に別の考えが浮かぶ。それは、さっき瓜生が使った「飛石」のこと。


 前にヤトが言っていた。瞬間移動できる飛石はエネルギーを溜まるまで半年かかると。あの飛石が塚田から渡されたものだとしたら…。塚田が飛石を使ったのは数日前。エネルギーを溜められる期間がほとんどなかったから、今回は長距離の瞬間移動ができなかった…?


 とにかく、今の居場所を焔さんとヤトに伝えなきゃ…!


 私は慌ててSPTの制服のポケットをまさぐる。今回も例の如く、万が一に備えて懐中時計型の発信機を渡されていたのだ。それを使えば今の位置を知らせることができる。だが…。


 ――ない。


 何度探しても、ポケットの中は空っぽだった。


 どこ?どこ…!?


 額に嫌な汗が滲む。ふと瓜生の様子を伺うと、彼女は体勢を整え、鋭く私を睨みつけていた。刺すような視線にゾッとして、一瞬動きが止まる。

 一方、事情を知らない花丸は不思議そうに私を見つめる。


「凪ちゃん?どうしたの?その人は?」


 状況を説明しようと、花丸の方を見て驚いた。彼の足元に懐中時計型の発信機が落ちていたのだ。


 あった!


 瓜生も発信機の存在に気付いたのか、表情が険しくなる。彼女は先ほど即席で組み立てた薙刀を手に取り、分解し始めた。刃の部分を取り外し、小ぶりな小刀として整えると、ゆっくり立ち上がり花丸の方へ歩き出す。


「花丸さん!その懐中時計取って!」

「え?」

「蓋を開けて、赤いスイッチを押してください!早く!」


 花丸はきょとん顔で懐中時計を手に取り、首を傾げながらポチリとスイッチを押す。


 やった…!


 そう思ったのも束の間、瓜生は舌打ちをし、さらに足を速めて花丸に迫る。


 花丸さん!逃げ――


 そう言おうと花丸を見るが、彼は瓜生を見るなりあからさまに頬を赤らめていた。


 は、花丸さん?まさか…?

 なんてわかりやすい人なんだろう。

 この人は今、瓜生さんにときめいてる…。


 少し呆れた後、私は頭をブンブンと振って気を取り直し、改めて花丸を見る。


「花丸さん!逃げて!その人は――」


 だが、私の声をよそに花丸はぎこちない笑顔を瓜生に向ける。


「こ、こんばんは。僕、焔君の友達の花丸耕太っていいます。その…」

「邪魔よ」


 瓜生はそう吐き捨て、容赦なく花丸の頬に正拳を食らわせる。


「ぶふおおぉ!」


 盛大な悲鳴を上げ、花丸はその場に崩れ落ちた。


 花丸さん…ちょっと格好悪い…。


 瓜生は花丸が落とした懐中時計を見下ろし、思いきり蹴り飛ばす。そしてすかさず小刀を取り出し、切っ先を花丸に向けた。

 私はギョッとして手近にあった大きなファイルを掴み、思い切り瓜生に投げつける。


 ファイルは瓜生の体に当たり、バンッという音を立てた。状況が飲み込めないのか、花丸は困惑した表情で私と瓜生を交互に見る。


「花丸さん!こっち!」

「い、一体何が起きてるの?」


 花丸は頬を押さえ、小走りで私に駆け寄る。


「この人がSPTに潜んでいたスパイなんです!」

「えええ!?こ、こんな綺麗な人が…?」


 戸惑う花丸を横目に、私はそばのロッカーを開けた。中には数本のモップ。私はそのうちの一本を手に取り、すかさず構える。竹刀が手元にない今、これで戦うしかない。


「え!?ここで戦うの!?」

「今戦わないとやられちゃいます!それに、ようやく掴んだチャンスなんです!」

「チャンス…?」


 私は軽く頷き、瓜生の動きを見逃さないように神経を集中させる。


「ミレニアの情報を掴むチャンスです!」


 瓜生を見据えながら、私はみんなのことを考えていた。


 命懸けで告発をした上木さん。

 スパイの正体を見抜いて、策を練った天宮さん。

 その策を託された焔さん。

 自ら囮となって瓜生さんを油断させたヤト…。


「みんなで掴んだチャンスを…私が台無しにするわけにいかないもん!」


 …っと、勢い余ってつい子どもじみた口調になる私。

 一瞬赤面するが、そんなことを気にしている場合ではない。


 なにはともあれ、攻めあるのみ!


「ていや!」


 私は力を振り絞り、瓜生に向かって一直線に駆け出す。そして、勢いよく手にしたモップを振り下した。


 ガンッ!


 硬い音を立てて、瓜生は小刀で私のモップを受け止める。よろめきながらも眼光は鋭いままだ。だが、彼女の右手から人狼の「陰の気」は感じない。さっきの戦闘で、かなり精神力を消耗したのだろう。


 あの力が出せない今なら、勝てる!


 私は汗ばむ手を握り直しながら、彼女との間合いをじりじりと詰めていく。


「もう無駄です!居場所は焔さんにバレてるし、飛石で瞬間移動もできない!」

「どうかしら?あいつらが来るまであと十分はかかる。その前に終わらせるわ。一緒に来てもらうわよ。凪ちゃん」


 私は唇を噛みしめ、再び瓜生に向かって攻撃を仕掛けた。だが、慣れない武器で動きが僅かに鈍る。


 瓜生は私の攻撃を軽やかにかわすと、すかさず反撃に蹴りを放ってきた。私は辛うじてかわすが、その拍子に机の上にある薬瓶やファイル、筆記用具が次々と床に散らばる。落ちた筆記用具に一瞬目を向けた次の瞬間、瓜生の蹴りが私の腰に直撃した。私は声を上げ、倒れ込む。息を整えながら顔を上げると、目の前に小刀の切っ先が向けられていた。


「てこずらせないで。あなたを傷つけたくないの。商品価値がなくなるでしょう」

「商品価値?」


 私は目を見開く。何を言っているのか理解が追い付かない。


「どうしてSPTを裏切ったんですか?上木さんまで利用して、ミレニアの味方をするなんて!」


 すると、瓜生の眉が微かに動いた。彼女は短く息を呑み、一瞬目を伏せる。その反応に驚いた。今、この人は動揺している。小刀の切っ先は私に向いたままだが、先ほどよりも僅かに下がっていた。何かが彼女の心に触れたのだろうか。

 モップの柄を握る手に力がこもる。彼女が見せた隙。このチャンスを逃すわけにはいかない。


 私は勢いよくモップを瓜生に投げつけた。瓜生が一瞬体を引いた隙を狙って、私は一気に彼女の懐へ向かって踏み込む。父直伝の背負い投げを繰り出そうと、彼女の右手に手を伸ばす。


 だが、瓜生の反応は俊敏だった。彼女は床に落ちたモップを足で素早くすくい上げ、そのまま握り取る。次の瞬間、鋭い音とともにモップを振り下ろしてきたのだ。


 神業のような速さに思わず声が漏れる。私は咄嗟に体を低く折り、後方へと転がる。硬い床が背中にぶつかる感触とともに、瓜生の一撃が空を切る音が聞こえた。


「諦めなさい」


 冷静な瓜生の声が耳に残る。唯一の武器だったモップは今や彼女の手の中だ。


 絶体絶命…!それにこの人…強い!


 私は息を整えながら必死に考える。


 あと数分で、焔さんとヤトが来てくれる。

 それまでこの人を足止めするんだ!


「負けません!ミレニアなんかに!」


 すると、瓜生はあからさまに顔を歪ませた。彼女は懐から小刀を取り出し、凄まじい勢いで私に投げ放つ。

 あまりの速さに私は目を見開いたままその場に立ち尽くした。「ビュン」という風の音が耳元で聞こえたのと同時に、後方で金属音が響く。瓜生が放った小刀が私の頬をかすめ、壁に突き刺さったのだ。


「…一緒にしないで」


 私は血が滲む頬を押さえ、瓜生を見つめた。彼女の目には哀しみと怒りが渦巻いている。さっき見せた動揺、そして今の反応…。


 私はうっすらと察した。この人はただのスパイじゃない。どういうわけか分からないけど、根底にあるのはミレニアへの強い憎しみだ。


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