暗闇の中で、私は宙に浮いているような感覚に襲われていた。激しい耳鳴り。瞳は閉じているのに、火花が弾けるような光の気配がちらつく。それはどこか遠く、現実とは切り離された世界のようだった。
――焔さん…ヤト…。
すると、次の瞬間、耳鳴りが消え、体が急激に何かに引き寄せられた。
ドンッ!
「あいたっ!」
私は冷たい床に叩きつけられ、思い切り頭を打った。ヒリヒリする後頭部を押さえ、慌てて周囲を見渡す。
ここは――?
そこは病室のようだった。白いカーテンが乱れ、窓の外から月明かりが差し込んでいる。だが、人気はまるで感じられない。棚の中のファイルや空の瓶は、長らく触れられた形跡がなく埃を被っているようだ。
私は背後の荒い息遣いに気付き、振り返る。そこにいたのは瓜生。右手の人狼化が限界に達したのか、肩を激しく上下させ、口からは赤黒い血が滴っていた。
ここはどこ?どこかの病院?
立ち上がったのと同時に、突然蛍光灯がパチッと点灯した。私は視線を入口に向け、アッと声を上げる。そこにいたのは、あの花丸だったのだ。
「な、凪ちゃん!!」
「花丸さん!?」
…ってちょっと待って。花丸さんがいるということは…。
実は、花丸は今夜焔の家に泊まることになっていて、神宮医療センターのロビーで待つよう言われていたのだ。
「花丸さん!ここ、もしかして神宮医療センターですか!?」
勢いよく問いかける私。花丸は一瞬目を丸くするが、私の鬼気迫った表情を見て、慌てたように頷く。
「そうだよ!さっき凪ちゃんたちがいたのはA棟で、こっちはB棟。受付の人から今は老朽化で閉鎖されてるって聞いたけど…」
「どうしてここに?A棟のロビーで待ってるはずじゃ…」
「え?いやあ、それがさあ…」
花丸は頭を掻きながら照れ笑いを浮かべる。
「みんなが来るまで暇だから散歩してたんだ。そしたらとんでもなく広くて迷っちゃって。大きな音がしたんでビックリしたよ」
頷きつつも、私の脳裏に別の考えが浮かぶ。それは、さっき瓜生が使った「飛石」のこと。
前にヤトが言っていた。瞬間移動できる飛石はエネルギーを溜まるまで半年かかると。あの飛石が塚田から渡されたものだとしたら…。塚田が飛石を使ったのは数日前。エネルギーを溜められる期間がほとんどなかったから、今回は長距離の瞬間移動ができなかった…?
とにかく、今の居場所を焔さんとヤトに伝えなきゃ…!
私は慌ててSPTの制服のポケットをまさぐる。今回も例の如く、万が一に備えて懐中時計型の発信機を渡されていたのだ。それを使えば今の位置を知らせることができる。だが…。
――ない。
何度探しても、ポケットの中は空っぽだった。
どこ?どこ…!?
額に嫌な汗が滲む。ふと瓜生の様子を伺うと、彼女は体勢を整え、鋭く私を睨みつけていた。刺すような視線にゾッとして、一瞬動きが止まる。
一方、事情を知らない花丸は不思議そうに私を見つめる。
「凪ちゃん?どうしたの?その人は?」
状況を説明しようと、花丸の方を見て驚いた。彼の足元に懐中時計型の発信機が落ちていたのだ。
あった!
瓜生も発信機の存在に気付いたのか、表情が険しくなる。彼女は先ほど即席で組み立てた薙刀を手に取り、分解し始めた。刃の部分を取り外し、小ぶりな小刀として整えると、ゆっくり立ち上がり花丸の方へ歩き出す。
「花丸さん!その懐中時計取って!」
「え?」
「蓋を開けて、赤いスイッチを押してください!早く!」
花丸はきょとん顔で懐中時計を手に取り、首を傾げながらポチリとスイッチを押す。
やった…!
そう思ったのも束の間、瓜生は舌打ちをし、さらに足を速めて花丸に迫る。
花丸さん!逃げ――
そう言おうと花丸を見るが、彼は瓜生を見るなりあからさまに頬を赤らめていた。
は、花丸さん?まさか…?
なんてわかりやすい人なんだろう。
この人は今、瓜生さんにときめいてる…。
少し呆れた後、私は頭をブンブンと振って気を取り直し、改めて花丸を見る。
「花丸さん!逃げて!その人は――」
だが、私の声をよそに花丸はぎこちない笑顔を瓜生に向ける。
「こ、こんばんは。僕、焔君の友達の花丸耕太っていいます。その…」
「邪魔よ」
瓜生はそう吐き捨て、容赦なく花丸の頬に正拳を食らわせる。
「ぶふおおぉ!」
盛大な悲鳴を上げ、花丸はその場に崩れ落ちた。
花丸さん…ちょっと格好悪い…。
瓜生は花丸が落とした懐中時計を見下ろし、思いきり蹴り飛ばす。そしてすかさず小刀を取り出し、切っ先を花丸に向けた。
私はギョッとして手近にあった大きなファイルを掴み、思い切り瓜生に投げつける。
ファイルは瓜生の体に当たり、バンッという音を立てた。状況が飲み込めないのか、花丸は困惑した表情で私と瓜生を交互に見る。
「花丸さん!こっち!」
「い、一体何が起きてるの?」
花丸は頬を押さえ、小走りで私に駆け寄る。
「この人がSPTに潜んでいたスパイなんです!」
「えええ!?こ、こんな綺麗な人が…?」
戸惑う花丸を横目に、私はそばのロッカーを開けた。中には数本のモップ。私はそのうちの一本を手に取り、すかさず構える。竹刀が手元にない今、これで戦うしかない。
「え!?ここで戦うの!?」
「今戦わないとやられちゃいます!それに、ようやく掴んだチャンスなんです!」
「チャンス…?」
私は軽く頷き、瓜生の動きを見逃さないように神経を集中させる。
「ミレニアの情報を掴むチャンスです!」
瓜生を見据えながら、私はみんなのことを考えていた。
命懸けで告発をした上木さん。
スパイの正体を見抜いて、策を練った天宮さん。
その策を託された焔さん。
自ら囮となって瓜生さんを油断させたヤト…。
「みんなで掴んだチャンスを…私が台無しにするわけにいかないもん!」
…っと、勢い余ってつい子どもじみた口調になる私。
一瞬赤面するが、そんなことを気にしている場合ではない。
なにはともあれ、攻めあるのみ!
「ていや!」
私は力を振り絞り、瓜生に向かって一直線に駆け出す。そして、勢いよく手にしたモップを振り下した。
ガンッ!
硬い音を立てて、瓜生は小刀で私のモップを受け止める。よろめきながらも眼光は鋭いままだ。だが、彼女の右手から人狼の「陰の気」は感じない。さっきの戦闘で、かなり精神力を消耗したのだろう。
あの力が出せない今なら、勝てる!
私は汗ばむ手を握り直しながら、彼女との間合いをじりじりと詰めていく。
「もう無駄です!居場所は焔さんにバレてるし、飛石で瞬間移動もできない!」
「どうかしら?あいつらが来るまであと十分はかかる。その前に終わらせるわ。一緒に来てもらうわよ。凪ちゃん」
私は唇を噛みしめ、再び瓜生に向かって攻撃を仕掛けた。だが、慣れない武器で動きが僅かに鈍る。
瓜生は私の攻撃を軽やかにかわすと、すかさず反撃に蹴りを放ってきた。私は辛うじてかわすが、その拍子に机の上にある薬瓶やファイル、筆記用具が次々と床に散らばる。落ちた筆記用具に一瞬目を向けた次の瞬間、瓜生の蹴りが私の腰に直撃した。私は声を上げ、倒れ込む。息を整えながら顔を上げると、目の前に小刀の切っ先が向けられていた。
「てこずらせないで。あなたを傷つけたくないの。商品価値がなくなるでしょう」
「商品価値?」
私は目を見開く。何を言っているのか理解が追い付かない。
「どうしてSPTを裏切ったんですか?上木さんまで利用して、ミレニアの味方をするなんて!」
すると、瓜生の眉が微かに動いた。彼女は短く息を呑み、一瞬目を伏せる。その反応に驚いた。今、この人は動揺している。小刀の切っ先は私に向いたままだが、先ほどよりも僅かに下がっていた。何かが彼女の心に触れたのだろうか。
モップの柄を握る手に力がこもる。彼女が見せた隙。このチャンスを逃すわけにはいかない。
私は勢いよくモップを瓜生に投げつけた。瓜生が一瞬体を引いた隙を狙って、私は一気に彼女の懐へ向かって踏み込む。父直伝の背負い投げを繰り出そうと、彼女の右手に手を伸ばす。
だが、瓜生の反応は俊敏だった。彼女は床に落ちたモップを足で素早くすくい上げ、そのまま握り取る。次の瞬間、鋭い音とともにモップを振り下ろしてきたのだ。
神業のような速さに思わず声が漏れる。私は咄嗟に体を低く折り、後方へと転がる。硬い床が背中にぶつかる感触とともに、瓜生の一撃が空を切る音が聞こえた。
「諦めなさい」
冷静な瓜生の声が耳に残る。唯一の武器だったモップは今や彼女の手の中だ。
絶体絶命…!それにこの人…強い!
私は息を整えながら必死に考える。
あと数分で、焔さんとヤトが来てくれる。
それまでこの人を足止めするんだ!
「負けません!ミレニアなんかに!」
すると、瓜生はあからさまに顔を歪ませた。彼女は懐から小刀を取り出し、凄まじい勢いで私に投げ放つ。
あまりの速さに私は目を見開いたままその場に立ち尽くした。「ビュン」という風の音が耳元で聞こえたのと同時に、後方で金属音が響く。瓜生が放った小刀が私の頬をかすめ、壁に突き刺さったのだ。
「…一緒にしないで」
私は血が滲む頬を押さえ、瓜生を見つめた。彼女の目には哀しみと怒りが渦巻いている。さっき見せた動揺、そして今の反応…。
私はうっすらと察した。この人はただのスパイじゃない。どういうわけか分からないけど、根底にあるのはミレニアへの強い憎しみだ。