神宮医療センターでスパイと対峙する、およそ五時間前。
私と焔、ヤトは長官室にいた。昼下がりの陽射しがカーテン越しに差し込む室内は、どこか重苦しい。普段は冷静な長官も、今回は見てわかるほど動揺していた。
「まさか天宮がスパイとは…信じられん」
長官はそう言葉をこぼしながらうなだれる。だが、焔は冷静かつ淡々と長官に問いかける。
「長官に、お尋ねしたいことが。昨日の朝、天宮を呼び出したと服部から聞きました。どのような用件で?」
「…呼び出した?いや、彼の方から来たんだよ。大した用件ではなかったが…」
私とヤトが顔を見合わせる。あれれ?
「なんだか、話が食い違ってませんか?」
そう私が呟くと、焔は僅かに目を細める。
「何かわかったんですか?」
「いや、まだ――」
「焔」
ピンと張りつめた声。私たちは一瞬息を呑んだ。長官の顔に浮かんでいた動揺は消え、一転厳しい形相になっている。
「さては、何か掴んだな」
焔は驚きつつも、冷静な面持ちでこう切り返す。
「いえ、そのようなことは」
「誤魔化すな。また隠し事か?」
長官の額に見えない怒りマークが浮かんでいるような気がしてならない。どうやら、焔が言い淀んだのを見て、違和感を覚えたようだ。
「そのようなことは。単に確証がないのです。確証を得たらすぐに報告を…」
「言いなさい」
「しかし…」
「今すぐだ」
ピシャリとそう言い放つ長官。
い、威圧感が凄い。
さすがの焔も言い返せず、諦めたのか小さく咳払いをする。
「…わかりました。ただ、確証はありません。その点ご了承いただければ」
「いいだろう」
「率直に申し上げます。私の考えでは、スパイは天宮ではありません」
「ほ、本当ですか?」
思わず声を上げる私。焔は私を見て、ゆっくりと頷く。
「では一体、誰だというのだ!?」
「SPTに潜むスパイの正体は…」
長官、それに私とヤトは焔をじっと見つめる。一瞬の間の後、静寂を切り裂いて彼が口にしたのは、意外な人物の名だった。
「…瓜生蓮華です」
「えええええ!?」
名前を聞いた途端、私の心臓は大きく跳ね上がった。ヤトも羽をバサッと広げ、私の腕の中で暴れる。
「なんでだよ!スパイって凪に発信機を仕掛けた幹部じゃん!あの日、凪のブレスレットに触ったのは上木と天宮で、幹部は天宮!怪しいのは天宮じゃんか!」
「一見そうだが、天宮がスパイであることはあり得ない」
「なぜだね?」
「実は天宮は…極度の高所恐怖症なのです」
「高所恐怖症!?天宮さんがですか?」
思わず目を丸くする私。長官も眉をひそめる。
「初耳だ。本当かね?」
「本当です。三年前、私自身が目の当たりにしました。詳細は省きますが、幹部では私しか知らないでしょう」
「あの天宮が高所恐怖症…。それならば、三階の通信室に窓から侵入したり、飛び降りて逃走するなどできないはず。つまり、スパイがした行動は彼には不可能だったということに…。であれば、昨日の事件は一体…?」
「順を追って説明します。まずは、凪」
突然名前を呼ばれて、私は焔に向き直る。彼の視線は私の左手首のブレスレットに注がれていた。
「天宮がスパイではないなら、君のブレスレットに発信機を仕掛けられたのは、一人しかいない」
「それって…」
「上木!?」
「どういうことだ?凪さんに発信機とは…?」
焔は私のブレスレットに発信機が付けられていたこと、横浜でミレニアの手先が私を襲撃したことを手短に報告した後、こう告げた。
「今回の発信機だけじゃない。凪が初めて襲撃された時、通信室に侵入して彼女の位置情報を盗んだのも上木だったのだろう」
「でも焔さん!上木さんは極秘情報にアクセスできるパスワードを知らないんじゃ…。それを知るのは幹部だけ…って、あ!!」
その瞬間、私の頭の中で点と点が繋がった。ま、まさか…。
「上官の瓜生に聞いた。いや、命令されたんだろう。つまり、瓜生は上木を使って凪の情報を盗み、ミレニアに流していた」
「確かに上木くんは瓜生の部下だが…情報を盗むなど重罪だぞ。命令とはいえ、すんなり従うものか?」
「弱みを握られていたか…事情はわかりませんが、上木が単独で動けなかった以上、瓜生は黒です。命令され、パスワードを知らされていたからこそ上木は情報を盗めた。だが、犯罪まがいの行為には耐えられなかったのだろう。だから瓜生に気付かれないよう、告発した。長官にだけわかるように」
長官は大きく目を見開き、ハッとした。
「あの日の告発の手紙か!」
焔は力強く頷いた。
―SPT内部にミレニアの内通者あり。内通者は通信室から幸村凪の位置情報を得て、仲間に襲わせた。SPTは安全ではない。早急に幸村凪を別の場所に匿われたし―
一通目の告発文…。
あれを書いて長官室の扉の下に入れたのは、上木さんだったのか!
「スパイが瓜生なら、あの告発文を書けたのは上木しかいない。上木は瓜生の行動に不信感を抱き、告発を決意した。だが、本人に勘付かれれば命が危ない。だから『瓜生』の名前までは出せず、まずは早急に凪を安全な場所に匿うよう伝えたのかと」
「それでは、なぜ天宮は彼女を撃った?彼女が共犯だと気付いたからか?」
「いえ。そもそも、前提が間違っているのです」
「前提?」
「昨日、天宮は通信室に侵入していないし、上木を撃ってもいない。服部が拾ったという、二通目の告発文も偽造。すべて作り話です」
「作り話だと!?しかしなぜ…?」
「天宮に頼まれたのでしょう。『自分は姿を消すから、幹部の前でそう証言して欲しい』と。そう考えると色々と腑に落ちる。服部は天宮こそスパイと断言していたが、彼は先祖代々天宮財閥に仕えてきた身。本人も言っていました。『火の中、水の中、何があっても全力で支える』と。もし天宮がスパイだとしても、服部なら決して奴を裏切らない。SPTとしての職務より、天宮家への忠義を果たすはずです」
私はハッとした。さっき服部の話を聞いた時の違和感。彼は天宮に忠誠を誓っているはずなのに、スパイとして貶めようとしていた。その行動が引っかかったのだ。
「つまり、天宮はSPTに潜むスパイに前々から気付いていた。その上で服部と口裏を合わせ、こんな手の込んだことをした」
「スパイに気付いていた?私と君たちしか知らないはずだ」
「自分で突き止めたのでしょう。スパイを告発する手紙が長官に送られた日の朝、覚えていますか?長官が私をここへ呼び出した日です」
長官は記憶を辿るように目を細め、小さく頷く。
「あの日、天宮は偶然、私が長官室に入るのを見ていた。何かあったのかと不審がっていました」
「見かけただけだろう?それだけで、スパイの存在を疑うものか?」
「問題はその後です。天宮は例の幹部会議での私の発言を聞いて、SPT内部でただならぬことが起きていることを察した様子でした。後に凪は、直接天宮からこう聞かれています。『なぜ君がSPTに推薦されたのか』と」
「そう聞かれたのかい?凪さん」
長官が私の方を向き、真剣な眼差しで尋ねる。
「はい。上木さんとの決闘の後、天宮さんが会いに来て、確かにそう聞かれました」
すると、長官は「そういうことか」と呟いてうなだれた。まるで、それならスパイの情報が天宮にバレても仕方がない、という風に。私とヤトは顔を見合わせて戸惑う。
「ちょ、ちょっと待ってください!確かに聞かれはしましたけど、私、スパイのことなんて一切話していません!」
「そーだそーだ!」
だが、焔は冷静にこう言い切った。
「いや、言っていようがいまいが、天宮には関係ない」
「なんで?どうして?」
「忘れたか?ヤト。なぜなら天宮は、SPT随一の尋問のプロだ」
「はっ……!」
ヤトが驚愕の声を漏らす。私は意味が分からず、思わず声が漏れる。
「じ、尋問…?」
「言葉にしなくても、仕草や表情、体の反応なんかで相手の本心をある程度見抜ける」
そんな馬鹿な…。
天宮さんとちゃんと話したのはあの時が初めてだし、それに…。
「でも!話したの、たった一分くらいでしたよ!?」
「一分もあれば十分だ。あの時、天宮は君の左手首を掴んだんだったな」
呆気に取られながら、私は思い返していた。あの時、天宮は私に「おめでとう」と言い、握手を求めてきた。そして、その後なぜか左手首を掴んで、こう尋ねたのだ。
――どうして焔は、君をSPTに推薦したのかな?
「あれは奴の尋問の
「じゃ、じゃあ、私はあの時、尋問されていた…ってことですか!?」
「そういうことだ。まんまとやられたな、凪」
少し楽しげに話す焔。一方、私は唖然として大口を開けたまま固まる。
んなアホな…。
「手首を握ったのは、脈拍を確認するため。緊張や動揺を脈で感じ取り、細かな表情の変化から本心を見抜こうとしていたんだ。そして確信した。君が重大な何かを隠していることを。そして、それをさらに探ろうとした時、天宮は思いもよらないものに気付いた」
「もしかして…」
私はハッとして、自分の左手首を見る。
「君のブレスレットに仕掛けられた発信機だ。ブレスレットは、ヤトが上木との決闘の直前、君に渡したもの。天宮も見ていただろう。となると当然、仕掛けられた人物は限られる。天宮ならすぐに察したはずだ。仕掛けたのは上木だと」
私は長官に視線を向けた。焔から次々と飛び出す言葉が衝撃的なのか、驚いた表情のままだ。
「天宮の性格上、あの後上木に接触したはずだ。そして、凪の位置情報を追跡している人物、すなわち瓜生がスパイだと確信した。元々上木は長官宛にこっそり告発文を書いていたくらいだ。瓜生を止めなければと思っていただろう。そこで二人は協力し、服部の手も借りて、今回の『発砲事件』を演出した」
「ちょっと待ちなさい。なぜ天宮はそんな手の込んだことをした?自分がスパイだと疑われては元も子もないだろう」
「瓜生がスパイだと立証するには、証拠が不十分です。実行犯が上木である以上、彼女の犯行の証拠はあるが、瓜生にはない。危険が迫れば上木にすべての罪を擦り付けるかもしれないし、危害を加える可能性もある。だから天宮はこんな手の込んだ芝居をした。上木を守り、瓜生が確実にボロを出すように」
「ボロを出す?」
「天宮は瓜生の行動を誘っているのです。服部の話では、天宮は通信室に侵入し、パソコンや窓を確認していた。そして、その場に手紙まで落とした。内容は幹部にスパイがいることを告発するものだ。まあ、これはさっき言った通り天宮が考えた作り話で、あの二通目の告発文は偽造なわけだが…」
一瞬の静寂の後、焔は力強くこう続けた。
「とはいえ、瓜生はそう思わないだろう。服部の話を聞き、天宮がスパイの存在に気付いて犯行の証拠を探りにきたと思ったはずだ。そして、告発文の存在を知った瓜生はこうも思っただろう。これを書けた人間は上木しかいない。彼女が目を覚ませば、すぐに聴取が行われる。そしてきっと、スパイである自分のことを今度こそ告発すると。この状況で、瓜生が取る行動はたったひとつしかない」
私は青ざめ、焔を見る。気付くと、心臓がドクドクと音を立てていた。
まさか、瓜生さんがしようとしていることは…。
「真実を知る、上木の口封じだ」