服部の話を聞いた日の夜。私はSPTの制服に身を包み、横浜任務の報告書を片手に神宮医療センターのロビーを一人テクテクと歩いていた。ここは、天宮財閥が運営する医療施設。昨日、天宮に撃たれた上木が搬送された場所だ。
腕時計を見ると、時刻は午後七時半。面会時間は八時までだから、時間ギリギリだ。ふと前を見ると、受付の前に立つ人物が目に入った。あの髪色は…。
「…瓜生さん?」
次の瞬間、手入れが行き届いたブラウン色の髪が、振り向く動作に合わせて軽やかに揺れる。彼女の手には花束が握られていた。天宮の追跡の帰りだろうか、制服姿のままだ。だが、その表情には疲労の色が浮かんでいた。
「凪さん!」
「どうしたんですか?」
「上木のお見舞いに来たの。でも、病室を教えてくれないのよ。SPTって言ってるのに」
「おひとりですか?」
「もう少ししたら江藤も来るわ。上木のこと心配みたい」
「病室なら、私わかります!服部さんから教えてもらいました」
私は書類を持ったまま、歩き出す。瓜生は少し戸惑いながらも足早に私に続く。
「凪さんもお見舞い?」
「はい!服部さんが、そろそろ上木さんも目を覚ますだろうって言ってたので」
「ところで凪さん、その胸は…?」
瓜生の視線は、私の胸の不自然な膨らみに向けられていた。私は制服のファスナーを開けて微笑む。
「ヤトです。今、お休み中で…」
そう告げた次の瞬間、手に持っていた書類が数枚、ふわりと床に落ちる。
あっ…。
瓜生がすぐにしゃがみ込み、書類を拾い集める。
「これ、報告書?」
「はい。横浜任務の報告書です!新米なので、焔さんが『読んでしっかり勉強しろ』って」
「そう」
「報告書って任務ごとに皆さんに配るんですね。焔さんから聞きました。瓜生さんも読みました?横浜の報告書?」
「ええ。大変だったみたいね」
私はそうなんですよっと力強く頷く。
「そういえば、ヤト、横浜で大活躍だったんですよ!」
「あら!人間に
口元を緩ませる瓜生。私も笑顔で頷く。
「そうです!格好良かったんですよ!呪文みたいなのを唱えて!」
「凄いわね。あなたのこと、本当に大事なのね」
エレベーター前に着き、私はボタンを押す。到着までの時間、瓜生がふと真剣な表情を見せた。
「…凪さん。ごめんなさいね」
突然の謝罪に驚いて振り向く。瓜生は申し訳なさそうに視線を落とし、静かな声で続ける。
「前の会議で、あなたを刑務所で匿うべきなんて言って。悪気はなかったの。私の家族が刑務官だったから内情も知っていて。セキュリティは本当にしっかりしてるから」
「私こそ、あの時はビクビクしっぱなしで…。今思い出すと恥ずかしいです」
「あんな会議に呼ばれたら誰だって怖いわよ。だけど、あなたには必要なかった。十分、SPTとして頑張ってるもの。報告書で知ったけど、横浜でも大活躍だったじゃない」
私は急に恥ずかしくなって、空いている手を顔の前で振る。
「だけど、焔さんやヤトに迷惑かけちゃって…」
「そんなことないわ。実戦で、それも慣れない刀で戦うなんて大したものよ。うちの部隊に欲しいくらい」
「へへへ。そうですか?」
意外なほどの褒め言葉。私は思わず照れ隠しで頭を掻く。
「…そういえば焔は?」
「ヤトの晩御飯を買いにロビーの売店に行ってます。あとで病室に来るみたいです」
「そう」
次の瞬間、エレベーターの扉が開き、私たちは急ぎ足で乗り込む。
チンっという音とともに扉が開くと、消毒液の匂いがふわりと鼻をつく。瓜生と並んで歩きながら、私は上木の病室へと向かった。
――三〇八号室。
「ここ?」
瓜生の問いに私は頷き、そっと扉を開ける。
一人用の静かな病室。ベッドの上には布団を被った女性の姿があった。顔は見えないが、枕元から黒髪が覗いている。
「…やっぱり、まだ起きてないですね。上木さん」
その時、不意にポケットの中のスマホがピピピと鳴った。
「わっ…!」
電話は焔からだった。私は瓜生に会釈をし、小声で電話に出る。
「もしもし?え?…はい。すぐに向かいます」
スマホを切った途端、私は肩を落とす。
「どうかした?」
「焔さん、長官さんに呼び出されちゃって…。今からSPTに戻ることになりました」
「そう…。せっかく来たのにね」
「バタバタしてすみません。あの、もし上木さんが目を覚ましたら…」
「すぐ連絡するわ。まあ、面会時間はあとニ十分くらいだけど」
私は急ぎ足で病室を出る。振り返ると瓜生が小さく手を振っていた。私はペコリとお辞儀を返し、扉を閉める。そして、そのままエレベーターへ…。
――と見せかけて。
私は扉の前で息を殺し、そっと耳を澄ます。一センチほど開いた隙間から、一筋の光と微かな音が漏れている。
病室に残された瓜生は、ベッドを見つめていた。だが、先ほどまでの柔和な笑みは跡形もなく、冷徹な光が瞳に宿る。
すると、瓜生は無造作に花束を床へ落とし、ヒールの先で踏みつけた。瓜生は懐から白い手袋を取り出してはめ、窓を開ける。外側から拳で窓ガラスを音もなく砕くと、細かな欠片が病室の床に落ち、生ぬるい夜風が吹き込む。
瓜生は冷ややかな表情のまま、懐から黒い拳銃を取り出した。銃口の先はベッドで眠る上木。布団から少しだけ覗く黒髪が、ほんの僅かに揺れている。
瓜生は静かに息を整え、トリガーに指をかける。彼女が指に力を込めた次の瞬間――。
「何をしている?」
低く鋭い声に肩を震わせる瓜生。仕切りの向こうから姿を現したのは、焔だった。
「やはり君だったか。瓜生」
瓜生は拳銃を下ろし、ゆっくりと振り返る。その表情は皮肉めいた笑みを浮かべていた。
「何が、かしら?」
「スパイだよ。天宮ではない。君だ。そうだろう?」
「どこにそんな証拠が?」
「この状況が証拠だ。君は今、わざと病室を荒らした。天宮の犯行に見せかけて、散々利用した上木を始末するつもりだったんだろう」
「何か誤解してるみたいね。私の調べでは、確かにスパイは天宮ではなかった。スパイはね、この上木。だから私はここに来た。部下の不始末を処理しにね」
「気が早いな。尋問もせずに殺す気だったのか?」
「随分疑っているみたいねえ。なんだったら、証拠を見せましょうか?私が掴んだ、上木がスパイだという決定的な証拠を」
焔は瓜生の言葉を一蹴するかのように、冷たい眼差しを向ける。
「その手には乗らない。君がスパイだ。そうだな?凪」
突然、名前を呼ばれ、私は指先を震わせながらゆっくりと病室の扉を開けた。
瓜生は一瞬驚愕の表情を浮かべたが、すぐに冷徹な眼差しをこちらに向ける。その眼差しは鋭い刃のように私を射抜いた。
「言ってやれ。SPTとしての君の見解を」
焔の声に背中を押された私は、大きく息を吸い、負けじと瓜生を睨みつける。そして、人差し指をビシッと突きつけて、こう叫んだ。
「さっきの会話でハッキリわかりました!あなたがスパイだってこと!」
緊張してちょっと声が裏返る私。それを聞いて、瓜生は鼻で冷たく笑う。
この状況でこの余裕…。めっちゃ気強いな、この人。
でも、ここで怯むわけにはいかない!
「瓜生さんはさっき、ヤトが横浜で人間に変化したことを知っていました!なぜですか!?ミレニアの追手、塚田さんから聞いた、そうですよね!?」
力強く言い切る私。だが、瓜生は顔色ひとつ変えず、わざとらしくため息をついた。
「報告書で知った」
「嘘つかないでください!」
「嘘じゃないわ。ヤトが変化できることは、SPT周知の事実。新入りのあなたには驚きだったかもしれないけどね。…で?」
強気な返答に思わず黙る私。瓜生は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「まさか、そんな思い違いで、私をスパイだと決めつけるおつもり?」
ううう。怖い…。
「人に指をさすなら、もっと決定的な証拠を見せてもらわないとねえ。凪ちゃん?」
「凪さん」から「凪ちゃん」呼びへ…。これは、完全に舐められている証拠…!
だけど、今一番焦っているのは、この人のはず。
それに、ここまでは私の狙った通り…多分。
「まだあります!」
私の追撃に、瓜生は再び冷笑を浮かべる。
「あなたはこうも言いました!『慣れない刀で戦うなんて大したもの』って!」
「それが?」
「どうして知ってたんですか?私が横浜で刀を使ったこと!」
瓜生は目を細め、再び呆れたようにため息をつく。
「…あなた、人の話聞いてた?報告書、読んだって言ったでしょ?SPTの報告書はね、戦闘で使用した武器を正確に記載しなければならない。昨日、ヤトの報告書を読んで知った。それが何なのよ?」
「え…?」
驚きに満ちた表情で私が焔を見ると、彼は穏やかな笑みを返した。
これって、これって…。
「カマかけ作戦」、成功…?
瓜生の表情が強張る。私と焔が視線を交わすのを見て、嫌な予感がよぎったのだろう。だが、どれほど致命的なことを口走ったのかまでは、理解していない様子だ。
「報告書?君が言う報告書とはこれのことかな?」
焔はゆっくりと、顔の前で厚みのある報告書を掲げる。
「言っておくが、ここには凪の刀についての記載は一切ない。なぜなら、そこにいる幸村凪が、報告を怠っていたからだ」
一瞬、空気が凍りつく病室。瓜生は大きく目を見開き、思わず呟く。
「…報告を、怠った…?」
「彼女が使ったのは私の刀だ。だが、塚田との戦闘で刃こぼれして、私に怒られると思い、報告できずにいたのだよ。私がそれを知ったのは、つい数時間前のことだ」
焔の言葉を受け、瓜生の眉がピクリと動く。その目には、焦りが確かに感じられた。
「横浜で、私は二時間ほど凪から目を離してしまってね。彼女が刀を使ったのはその時らしい。ついでに言うと、色々あってヤトもその時気を失っていた。ほんの数時間前まで、横浜で凪が刀を使ったことを知る者はただひとり。ミレニアの追手、塚田だけだったのだよ」
瓜生の口元が僅かに動いた。何かを言おうとしているようだが、言葉にはならない。
「まったく、この凪には困ったものだ。彼女が報告を怠ったおかげで、私は監督責任を問われ、来月の給料が減らされる。だが、彼女の説教は後回しにするとして。まずは君だ、瓜生。この『カマかけ作戦』が成功するかは五分五分だったが、君が報告書を本当は読んでいなかったお陰で助かった。予期せず起きた『発砲事件』のせいで、昨日は報告書を読むどころではなかったのかな?さて…」
焔は静かに一歩前に踏み出す。
「君は先ほど、凪が刀を使ったことを『知っていた』と言った。今更『勘違いだった』などという言い訳は通らんぞ」
瓜生の顔が一気に歪む。その表情はもはや冷静ではなく、焦りと苛立ちを感じさせた。
「私も知らない。ヤトも知らない。報告書にも書かれていない。それなら一体、君はどこでその情報を知った?さあ、答えろ!!」
次の瞬間、瓜生の瞳に冷たい光が宿る。彼女は素早く拳銃を構え、銃口を焔へと向けた。
「――焔さ…」
私が目を見開いたのと同時に、乾いた銃声が響く。一瞬の静寂。焔は僅かに体をひねり、銃弾を紙一重で交わしていた。頬に赤い筋が一滴、静かに滴り落ちる。
瓜生は銃口を焔に向けたまま、微かな笑みを浮かべる。だが、額から頬に伝う汗が、彼女の揺れる心境を露わにしていた。
「…それで?私がスパイだと睨んで、わざわざ待ち伏せていたというわけ?どうして私がここへ来るとわかった?」
向けられた銃口の先で、焔は友人への信頼を込めるかのように、力強く微笑んだ。
「君はまんまとしてやられたんだよ。あの天宮昂生にな」