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第72話 正体

 服部の話を聞いた日の夜。私はSPTの制服に身を包み、横浜任務の報告書を片手に神宮医療センターのロビーを一人テクテクと歩いていた。ここは、天宮財閥が運営する医療施設。昨日、天宮に撃たれた上木が搬送された場所だ。


 腕時計を見ると、時刻は午後七時半。面会時間は八時までだから、時間ギリギリだ。ふと前を見ると、受付の前に立つ人物が目に入った。あの髪色は…。


「…瓜生さん?」


 次の瞬間、手入れが行き届いたブラウン色の髪が、振り向く動作に合わせて軽やかに揺れる。彼女の手には花束が握られていた。天宮の追跡の帰りだろうか、制服姿のままだ。だが、その表情には疲労の色が浮かんでいた。


「凪さん!」

「どうしたんですか?」

「上木のお見舞いに来たの。でも、病室を教えてくれないのよ。SPTって言ってるのに」

「おひとりですか?」

「もう少ししたら江藤も来るわ。上木のこと心配みたい」

「病室なら、私わかります!服部さんから教えてもらいました」


 私は書類を持ったまま、歩き出す。瓜生は少し戸惑いながらも足早に私に続く。


「凪さんもお見舞い?」

「はい!服部さんが、そろそろ上木さんも目を覚ますだろうって言ってたので」

「ところで凪さん、その胸は…?」


 瓜生の視線は、私の胸の不自然な膨らみに向けられていた。私は制服のファスナーを開けて微笑む。


「ヤトです。今、お休み中で…」


 そう告げた次の瞬間、手に持っていた書類が数枚、ふわりと床に落ちる。


 あっ…。


 瓜生がすぐにしゃがみ込み、書類を拾い集める。


「これ、報告書?」

「はい。横浜任務の報告書です!新米なので、焔さんが『読んでしっかり勉強しろ』って」

「そう」

「報告書って任務ごとに皆さんに配るんですね。焔さんから聞きました。瓜生さんも読みました?横浜の報告書?」

「ええ。大変だったみたいね」


 私はそうなんですよっと力強く頷く。


「そういえば、ヤト、横浜で大活躍だったんですよ!」

「あら!人間に変化へんげしたっていう話?」


 口元を緩ませる瓜生。私も笑顔で頷く。


「そうです!格好良かったんですよ!呪文みたいなのを唱えて!」

「凄いわね。あなたのこと、本当に大事なのね」


 エレベーター前に着き、私はボタンを押す。到着までの時間、瓜生がふと真剣な表情を見せた。


「…凪さん。ごめんなさいね」


 突然の謝罪に驚いて振り向く。瓜生は申し訳なさそうに視線を落とし、静かな声で続ける。


「前の会議で、あなたを刑務所で匿うべきなんて言って。悪気はなかったの。私の家族が刑務官だったから内情も知っていて。セキュリティは本当にしっかりしてるから」


「私こそ、あの時はビクビクしっぱなしで…。今思い出すと恥ずかしいです」

「あんな会議に呼ばれたら誰だって怖いわよ。だけど、あなたには必要なかった。十分、SPTとして頑張ってるもの。報告書で知ったけど、横浜でも大活躍だったじゃない」


 私は急に恥ずかしくなって、空いている手を顔の前で振る。


「だけど、焔さんやヤトに迷惑かけちゃって…」

「そんなことないわ。実戦で、それも慣れない刀で戦うなんて大したものよ。うちの部隊に欲しいくらい」

「へへへ。そうですか?」


 意外なほどの褒め言葉。私は思わず照れ隠しで頭を掻く。


「…そういえば焔は?」

「ヤトの晩御飯を買いにロビーの売店に行ってます。あとで病室に来るみたいです」

「そう」


 次の瞬間、エレベーターの扉が開き、私たちは急ぎ足で乗り込む。

 チンっという音とともに扉が開くと、消毒液の匂いがふわりと鼻をつく。瓜生と並んで歩きながら、私は上木の病室へと向かった。


 ――三〇八号室。


「ここ?」


 瓜生の問いに私は頷き、そっと扉を開ける。

 一人用の静かな病室。ベッドの上には布団を被った女性の姿があった。顔は見えないが、枕元から黒髪が覗いている。


「…やっぱり、まだ起きてないですね。上木さん」


 その時、不意にポケットの中のスマホがピピピと鳴った。


「わっ…!」


 電話は焔からだった。私は瓜生に会釈をし、小声で電話に出る。


「もしもし?え?…はい。すぐに向かいます」


 スマホを切った途端、私は肩を落とす。


「どうかした?」

「焔さん、長官さんに呼び出されちゃって…。今からSPTに戻ることになりました」

「そう…。せっかく来たのにね」

「バタバタしてすみません。あの、もし上木さんが目を覚ましたら…」

「すぐ連絡するわ。まあ、面会時間はあとニ十分くらいだけど」


 私は急ぎ足で病室を出る。振り返ると瓜生が小さく手を振っていた。私はペコリとお辞儀を返し、扉を閉める。そして、そのままエレベーターへ…。


 ――と見せかけて。


 私は扉の前で息を殺し、そっと耳を澄ます。一センチほど開いた隙間から、一筋の光と微かな音が漏れている。


 病室に残された瓜生は、ベッドを見つめていた。だが、先ほどまでの柔和な笑みは跡形もなく、冷徹な光が瞳に宿る。

 すると、瓜生は無造作に花束を床へ落とし、ヒールの先で踏みつけた。瓜生は懐から白い手袋を取り出してはめ、窓を開ける。外側から拳で窓ガラスを音もなく砕くと、細かな欠片が病室の床に落ち、生ぬるい夜風が吹き込む。


 瓜生は冷ややかな表情のまま、懐から黒い拳銃を取り出した。銃口の先はベッドで眠る上木。布団から少しだけ覗く黒髪が、ほんの僅かに揺れている。

 瓜生は静かに息を整え、トリガーに指をかける。彼女が指に力を込めた次の瞬間――。


「何をしている?」


 低く鋭い声に肩を震わせる瓜生。仕切りの向こうから姿を現したのは、焔だった。


「やはり君だったか。瓜生」


 瓜生は拳銃を下ろし、ゆっくりと振り返る。その表情は皮肉めいた笑みを浮かべていた。


「何が、かしら?」

「スパイだよ。天宮ではない。君だ。そうだろう?」

「どこにそんな証拠が?」


「この状況が証拠だ。君は今、わざと病室を荒らした。天宮の犯行に見せかけて、散々利用した上木を始末するつもりだったんだろう」

「何か誤解してるみたいね。私の調べでは、確かにスパイは天宮ではなかった。スパイはね、この上木。だから私はここに来た。部下の不始末を処理しにね」


「気が早いな。尋問もせずに殺す気だったのか?」

「随分疑っているみたいねえ。なんだったら、証拠を見せましょうか?私が掴んだ、上木がスパイだという決定的な証拠を」


 焔は瓜生の言葉を一蹴するかのように、冷たい眼差しを向ける。


「その手には乗らない。君がスパイだ。そうだな?凪」


 突然、名前を呼ばれ、私は指先を震わせながらゆっくりと病室の扉を開けた。

 瓜生は一瞬驚愕の表情を浮かべたが、すぐに冷徹な眼差しをこちらに向ける。その眼差しは鋭い刃のように私を射抜いた。


「言ってやれ。SPTとしての君の見解を」


 焔の声に背中を押された私は、大きく息を吸い、負けじと瓜生を睨みつける。そして、人差し指をビシッと突きつけて、こう叫んだ。


「さっきの会話でハッキリわかりました!あなたがスパイだってこと!」


 緊張してちょっと声が裏返る私。それを聞いて、瓜生は鼻で冷たく笑う。


 この状況でこの余裕…。めっちゃ気強いな、この人。

 でも、ここで怯むわけにはいかない!


「瓜生さんはさっき、ヤトが横浜で人間に変化したことを知っていました!なぜですか!?ミレニアの追手、塚田さんから聞いた、そうですよね!?」


 力強く言い切る私。だが、瓜生は顔色ひとつ変えず、わざとらしくため息をついた。


「報告書で知った」

「嘘つかないでください!」

「嘘じゃないわ。ヤトが変化できることは、SPT周知の事実。新入りのあなたには驚きだったかもしれないけどね。…で?」


 強気な返答に思わず黙る私。瓜生は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「まさか、そんな思い違いで、私をスパイだと決めつけるおつもり?」


 ううう。怖い…。


「人に指をさすなら、もっと決定的な証拠を見せてもらわないとねえ。凪ちゃん?」


 「凪さん」から「凪ちゃん」呼びへ…。これは、完全に舐められている証拠…!

 だけど、今一番焦っているのは、この人のはず。

 それに、ここまでは私の狙った通り…多分。


「まだあります!」


 私の追撃に、瓜生は再び冷笑を浮かべる。


「あなたはこうも言いました!『慣れない刀で戦うなんて大したもの』って!」

「それが?」

「どうして知ってたんですか?私が横浜で刀を使ったこと!」


 瓜生は目を細め、再び呆れたようにため息をつく。


「…あなた、人の話聞いてた?報告書、読んだって言ったでしょ?SPTの報告書はね、戦闘で使用した武器を正確に記載しなければならない。昨日、ヤトの報告書を読んで知った。それが何なのよ?」

「え…?」


 驚きに満ちた表情で私が焔を見ると、彼は穏やかな笑みを返した。


 これって、これって…。

 「カマかけ作戦」、成功…?


 瓜生の表情が強張る。私と焔が視線を交わすのを見て、嫌な予感がよぎったのだろう。だが、どれほど致命的なことを口走ったのかまでは、理解していない様子だ。


「報告書?君が言う報告書とはこれのことかな?」


 焔はゆっくりと、顔の前で厚みのある報告書を掲げる。


「言っておくが、ここには凪の刀についての記載は一切ない。なぜなら、そこにいる幸村凪が、報告を怠っていたからだ」


 一瞬、空気が凍りつく病室。瓜生は大きく目を見開き、思わず呟く。


「…報告を、怠った…?」

「彼女が使ったのは私の刀だ。だが、塚田との戦闘で刃こぼれして、私に怒られると思い、報告できずにいたのだよ。私がそれを知ったのは、つい数時間前のことだ」


 焔の言葉を受け、瓜生の眉がピクリと動く。その目には、焦りが確かに感じられた。


「横浜で、私は二時間ほど凪から目を離してしまってね。彼女が刀を使ったのはその時らしい。ついでに言うと、色々あってヤトもその時気を失っていた。ほんの数時間前まで、横浜で凪が刀を使ったことを知る者はただひとり。ミレニアの追手、塚田だけだったのだよ」


 瓜生の口元が僅かに動いた。何かを言おうとしているようだが、言葉にはならない。


「まったく、この凪には困ったものだ。彼女が報告を怠ったおかげで、私は監督責任を問われ、来月の給料が減らされる。だが、彼女の説教は後回しにするとして。まずは君だ、瓜生。この『カマかけ作戦』が成功するかは五分五分だったが、君が報告書を本当は読んでいなかったお陰で助かった。予期せず起きた『発砲事件』のせいで、昨日は報告書を読むどころではなかったのかな?さて…」


 焔は静かに一歩前に踏み出す。


「君は先ほど、凪が刀を使ったことを『知っていた』と言った。今更『勘違いだった』などという言い訳は通らんぞ」


 瓜生の顔が一気に歪む。その表情はもはや冷静ではなく、焦りと苛立ちを感じさせた。


「私も知らない。ヤトも知らない。報告書にも書かれていない。それなら一体、君はどこでその情報を知った?さあ、答えろ!!」


 次の瞬間、瓜生の瞳に冷たい光が宿る。彼女は素早く拳銃を構え、銃口を焔へと向けた。


「――焔さ…」


 私が目を見開いたのと同時に、乾いた銃声が響く。一瞬の静寂。焔は僅かに体をひねり、銃弾を紙一重で交わしていた。頬に赤い筋が一滴、静かに滴り落ちる。


 瓜生は銃口を焔に向けたまま、微かな笑みを浮かべる。だが、額から頬に伝う汗が、彼女の揺れる心境を露わにしていた。


「…それで?私がスパイだと睨んで、わざわざ待ち伏せていたというわけ?どうして私がここへ来るとわかった?」


 向けられた銃口の先で、焔は友人への信頼を込めるかのように、力強く微笑んだ。


「君はまんまとしてやられたんだよ。あの天宮昂生にな」


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