昔の夢を見ていた。空が茜色に染まる中、私は納屋の扉の前にいた。扉の隙間を覗くと、着物を着たおばあちゃんが一人、静かに座っている。
おばあちゃん―。
声をかけようとして言葉を失った。その体は小刻みに震えていたのだ。次の瞬間、扉がキィッと音を立て、おばあちゃんが振り返る。
目に入ったのは、瞳を真っ赤に腫らしたおばあちゃん。私はその両手を見てぎょっとした。包丁を握っていたからだ。
おばあちゃんは私を見つめ、首を振りながら涙声で微かに声を漏らす。
――私はとんでもないことを。
すると、おばあちゃんは包丁の刃先を首元へ向け、大きく息を吸う。気づくと、私は無我夢中で駆け寄り、包丁の刃を両手で掴んでいた。経験したことのない鋭い痛み。
刃先はわずかにおばあちゃんの首元に刺さり、赤い血が一筋、滴り落ちていた。心の中で叫びながら、私は刃を握りしめる。必死だった。この刃を、これ以上首に突き立てるわけにはいかない。
そんな私の様子を見て我に返ったのか、おばあちゃんは包丁を握る手を緩め、驚いた目で私を見据えた。その時の光景が、いや、あの時見た色が目に焼き付いている。納屋に差し込む夕日の「茜色」、そして、おばあちゃんと私をそっと包んだ「金色の光」を。
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肩をビクつかせながら、私は目を開けた。胸の奥が震え、心臓の鼓動が止まらない。
思い出した。あれは私が六歳の時のこと。どうして今まで忘れていたのだろう。あまりにも衝撃的だったせいか、心に蓋をしてしまったのだろうか。あの時のおばあちゃんの表情、思い返すだけで胸が苦しくなる。
私は呼吸を整えて大広間を見渡す。昨日の豪雨から一転、心地よい陽の光が大広間に差し込む。光は宙を舞うホコリに当たって乱反射し、煌びやかな金色となっていた。
夢で見た「金色の光」
昨日も、同じ光を見た。私の意志に呼応するかのように刀や竹刀に力を与えてくれたのかと思いきや、弧を描くように現れて、私の体を守ってもくれた。あの光は、一体何だったのだろう。
それに、昨日はもうひとつ不思議なことがあった。焔の手に触れた時、おばあちゃんと彼に似た青年の光景が突然目の前に現れたのだ。
私はおもむろに斜め上を見ると、焔が目を閉じ、少し私に寄りかかる形で眠っていた。
彼の顔をじっと見つめ、私は昨日見た青年の面影を思い出していた。年齢は焔より少し上くらい。銀髪で、肩くらいまでの長かったような気がする。鼻筋はスッと伸びていて、目は…。
彼の目元に視線を向けて思考が止まった。風が大広間へと吹き抜け、焔の前髪が微かに揺れ、心臓の音が少しずつ大きくなる。
焔さん…。
まつ毛、長いなァ…。
無意識に焔の顔にゆっくりと手を伸ばすと、懐がモゾモゾと動く。
「…凪?」
声を聞いてすぐさま懐を見ると、ヤトが眠そうにつぶらな瞳を向けていた。
「ヤト!!」
私は力いっぱいヤトを抱きしめる。ヤトは苦しそうな声を上げ、私は慌てて手を緩める。ごめんごめん、苦しかったよね。
「ど、どうして?もしかして助けに戻ってきたの?」
私は思いが込み上げて言葉にできず、ただただ頷く。良かった…本当に。
「ヤト、怪我しちゃったんだよ。無理しちゃだめだよ」
「あ、うん…ごめん…凪も無事だったんだね。良かったあ~」
私は半泣きで微笑みながらヤトに頬ずりする。するとヤトは隣にいる焔を見て声を張り上げた。
「あれ?焔じゃん!ここまだ紅牙組?二人とも合流できたんだ!」
ヤトの声に反応したのか、焔は目を閉じながら軽く首を動かす。私は人差し指を口の前に当て、彼を起こさないように静かに離れ、毛布をそっと焔の肩にかける。抜き足差し足で大広間から中庭に出ると、思った通り快晴だった。心地よい風が吹き抜け、鳥が小さく鳴いている。
「変なの!」
「何が?」
「焔ね、いつもはちょっと物音がしただけで絶対起きるんだ。随分グッスリだなって」
「そっかあ。きっと疲れてたんだよ」
「そういえば、敵は?それに、花丸は?みんな無事!?」
気を失っていた時のことが気になるのだろう。私はヤトに事の顛末を話した。SPT幹部の丹後と江藤が来たことをヤトも驚いていたが、とりあえず不審な行動はしていないと知り、安心していた。それよりも、塚田が私たちの居場所を知っていたことに違和感を覚えていた。
「塚田って人にね『私たちがここにいること誰から聞いたんですか?』って聞いたら、反応してた。だから、SPTのスパイが、私たちが紅牙組にいることを塚田さんに話したのかなって思ったんだけど…」
「今回の任務の情報、どこかから漏れていたのかもしれないね。だけどさ、直接裏庭に現れたのは変だよ!ここは敷地もすごく広いのに、どうして凪があの時、ピンポイントで裏庭にいるってわかったんだろ?」
確かにそうだ。飛石で瞬間移動して裏庭に現れたということは、私たちがあそこにいるという情報を塚田は知っていたことになる。だけど一体、どうやって…。
すると、突然カラスの鳴き声が周囲に響く。見上げると、たくさんのカラスたちが、私たちの頭上を旋回していた。
「あっ!昨日、手を貸してくれたカラスたち!心配で来てくれたんだ!俺、ちょっとお礼言ってくる!」
そう言って、ヤトは私の手を離れ、颯爽と羽を広げる。
「や、ヤト!飛ぶのは…!」
不安をよそに、ヤトは空へと舞い上がっていく。私は空を見て、強い日差しに目を細めながらヤトを見つめる。あんなに酷い怪我だったのに…。すると、耳の後ろで微かな足音が響く。振り向くと焔と花丸がこちらに向かってくるところだった。
「あ!おはようございます!」
「おはよう、凪ちゃん」
「おはよう。すっかり晴れたな…あれはヤトか?」
焔が手で日差しを遮りながら空を見る。ヤトの怪我が心配なのだろう。すると、焔に気付いたのか、ヤトが軌道を変えて急降下する。
「焔ぁぁ~焔ぁぁぁ~~」
叫びながら、ヤトはボフッと焔の懐へと飛び込む。そんなヤトを優しく抱きしめる焔。すぐさま、羽を摘んで怪我の様子を伺う。
「怪我は?」
「大丈夫、大丈夫!それより俺さ、変身したんだよ!人間に!満を持して!」
「そうだったのか」
「そう!凪もビックリしてたんだ!ね?凪?」
「うん。すっごく格好良かったんですよ!こう…呪文みたいなものを唱えてですね、私と花丸さんをガ―っと持ち上げて飛んで!」
ジェスチャー交じりに話す私。ヤトはとっても嬉しそう。すると焔がヤトの頭をそっと撫でた。
「頑張ったな、ヤト」
「花丸も、ありがとう!治療してくれて」
「ううん、全然……あれ?」
花丸は目をパチパチとさせてヤトを見つめ、不思議そうに首をかしげた。
「…もう飛べたの?」
「う、うん…そうだけど?」
花丸は顎に手を当て、じっと考え込む。そして焔も、改めてヤトを抱えて羽を掴み、怪我の様子を確かめる。
「ちょ、ちょっと、どうしたんだよう」
私も横目でヤトの傷を確認するが、奇妙だ。昨日は確かに酷い傷だったのに、今はかなり傷が薄くなっている…というか、ほとんど消えているように見えたのだ。これは一体…?
すると焔はヤトから手を離し、今後は自分の右手を見つめながら拳を作ったり、広げたりしてみせる。
「どうしたんですか?」
「…人狼化すると体力を消耗するから、翌日はいつも体が重いんだが…。今日は不思議なほど軽い」
焔は、唐突に私の方を向く。彼の視線は私の頬や肩、腰に向けられていた。昨日塚田に斬られた所だ。やがて、焔は怪訝な表情を浮かべながら私の頬にそっと手を伸ばす。
「ほ、焔さん?」
思わぬ展開にドキッとする私だが、触れられた頬に、要は怪我をした所に全く痛みがないことに気づいた。昨日は痛みがあったけど、傷が塞がったのだろうか。そう思って焔を見ると、動揺しているのか、少し目が泳いでいる。
「焔さん?」
「…凪、昨日の金色の光だが…」
焔が口を開きかけたその時、花丸が意を決したようにこう切り出す。
「…ちょっと聞いてもらっていいかな」
私たちが一斉に花丸を見る。彼は心が晴れたような清々しい表情を浮かべていた。
「今更だけど…僕も元の世界に戻っていいかな?もう一度、研修医としてやり直そうと思って」
花丸の言葉に思わず目を合わせる私とヤト。花丸は少し不安げに続ける。
「…ダメかな?」
「前にも言ったが、君の意思を尊重する」
焔が穏やかにそう答えると、花丸は安堵の表情を浮かべていた。良かった。ここ数日は色んなことがあったけど、花丸も納得できる答えが見つかったみたいだ。
とはいえ、私がしたことと言えば、花丸に嘘をついて目薬を渡したくらい。昨日の財前と花丸のやり取りを思い返して、少し恥ずかしくなりながら頭をかいた。すると、花丸は私の方を向き直り、こう告げた。
「ありがとう、凪ちゃん」
「え?」
「昨日『今戻らなかったら一生後悔する』って言われなかったら、きっと、戻ろうって思えなかったから。だから、本当にありがとう」
そう言ってペコリと頭を下げる花丸。私は一気に顔が熱くなり、思わず手を顔の前でパタパタとさせながら、しどろもどろになる。こんな私でも少しは力になれたのか。嬉しさ半分で、平手打ちをしたこと、置いて行ったことを謝る私。慌てふためく私を見て、焔とヤトは楽しそうに笑っていた。