それからしばらく経ち、時刻はすでに日付を越えていた。花丸は、少しも休むことなく怪我人の治療に当たっていた。花丸が来てから約一時間後。紅牙組御用達だという六十代くらいの医者の男性が来たが、花丸の対応にとても感心していた。医者は看護師も数人呼び、ここで対処しきれない重傷者をこっそり病院へ搬送した。
ヤトも徐々に体温を取り戻し、怪我も花丸が丁寧に治療してくれた。
紅牙組を留守にしていた「お頭」、いわゆる組長は
大広間は怪我人の治療で大勢が動き回っていたが、治療が進むにつれ、次第に落ち着きを取り戻し、少しずつ眠りについていた。一方、私は紅牙組の男に手渡された毛布でヤトを包み、その体をさすり続けていた。
「凪、ヤトなら大丈夫だ。じきに目を覚ますと花丸も言っていただろう。寝た方がいい。ヤトは私が見ているから」
「はい。でも…」
さっき、水たまりの中で溺れるように横たわっていたヤトの姿が頭から離れない。気を抜いて目を閉じると、またすぐに体が冷えてしまいそうな気がして、不安だった。今は少しでもこうやって撫でて、温めていたい。
すると、突然焔が私の肩を引き寄せ、自らの肩にかけていた毛布を私にそっとかけた。私が驚いて小さな声を漏らすと、焔の低い声が耳元に響いた。
「いいから寝ろ」
そう言うと、焔は一層強く、私を抱き寄せる。私はヤトを抱きかかえながら彼の肩に顔をうずめる形で寄りかかっていた。肩から伝わる温かさが心地よい。とはいえ、こんな展開で緊張しないはずはなく、私は尋常じゃないほど鼓動が高鳴るのを感じながら、目をパチパチとさせた。
気を紛らわせようと視線を前に向けると、数メートル離れた場所で、花丸が財前の手に包帯を巻いているところだった。
「…財前さん…さっきは、強く言っちゃってすみません…必死で…」
目を細めながら花丸を見ると、さっきの真剣な表情とは打って変わり、のほほんとしたいつもの雰囲気を漂わせていた。
「気にすんな。必死だったんだろ。医者としてよ」
花丸は微笑むも、どこか寂しさを滲ませる。
「…実はさっき、初めて『医者』って言ったんです。本当はまだ研修医なのに、ちょっと調子に乗りました」
花丸は財前の顔色を伺うように、こう尋ねた。
「あの…僕は医者として、少しでも役に…その…立てたと思いますか?」
財前は数秒じっと彼を見つめ、深くため息をついた。そして次の瞬間、空いた右手で思いきり花丸の額にデコピンを食らわせる。
「あいて!」
「…お前、今俺が『当たり前だ』って言うの、期待してただろ?」
図星だったのか、花丸は一気に慌てふためく。
「そ、そんなつもりは…」
「甘ったれんじゃねえ。俺はな、そういう情けねえ魂胆で質問してくるヤツを見るとイラつくんだよ。人の評価を気にしてるようじゃ、おめえは一人前の医者になれねえぜ。目の病気で大変かもしんねえけどよ、そもそも自分の腕に自信がねえ医者なんて、信用されるわけねえだろ、このタコ」
財前の口の悪さにヒヤヒヤする私。
と、ここでひとつの懸念が生まれる。
さっき財前さん、花丸さんの「目の病気」のこと、口走ったような…。
恐る恐る目を開けると、花丸は一瞬落ち込んだ表情を見せた後、何かを確信したように微かに笑みを浮かべた。
「…やっぱり。僕のリュックの中を見たの、財前さんだったんですね」
突然の花丸の指摘に、私は思わずギクリとした。財前を見ると、彼の視線も完全に泳いでいる。
実は、財前は花丸と出会った日の夜、彼の素性が気になって仕方なかったらしく、勝手に花丸のリュックを漁っていた。そこで花丸の遺書やら、ストレスで目が見えにくくなる「心因性視覚障害」の診断書を見て心配になり、こっそり花丸を励まそうと色々試行錯誤していたのだ。(そして、その手伝いを私もすることに…)
「な、な、な、何、言ってんだ。バカ」
途端にしどろもどろになる財前。どうやら嘘をつくのはかなり苦手らしい。
「ここに来た日の夜、リュックの中を見たら、遺書を入れた封筒の折り目が変わってたんです。誰かに見られたのは、わかってました」
花丸が突然私の方へ穏やかな視線を向けた。私は慌ててギュッと目を閉じ、寝たフリを決め込む。
「白状すると、最初はヒヤヒヤしてたんです。誰が何の目的で見たんだろう。もしかして、僕を晒し上げるつもりなんじゃないかって。だけど、ここの人たちはずっと温かく接してくれた。そんな時、凪ちゃんがあからさまな嘘をつきながら目薬を渡してきて思ったんです。もしかして、僕の遺書や病気のことを知った誰かが、さり気なく僕を気遣って凪ちゃんに目薬を渡すよう頼んでくれたんじゃないかって」
「あ、あからさまな嘘だとぉ?」
花丸は穏やかに頷く。
「確か『秘伝の目薬』って言ってたかな」
「秘伝の…目薬…?なんだその『秘伝のタレ』みてえな旨そうなネーミングは…」
突然、耳元でプッと吹き出す声が微かに聞こえた。どうやら、話を聞いていた焔が吹き出したらしい。私は顔を赤らめ、さらにギューッと瞼を閉じる。そんな寝たフリに徹する私の前方で舌打ちが聞こえてきた。
「凪のヤロォ~…」
ちょ、ちょっと待ってください!バレたのは、財前さんがさっき口を滑らせたからじゃないですか!!…と、心の中で責任を押し付ける私。
とはいえ、今更起きるわけにはいかず、冷や汗をかきながら瞼を閉じる。
「色々、気を遣わせてすみません。心配しないでください。もう、変なこと考えてないですから」
笑みを含んだような軽快な様子で花丸が言う。
「ただ、変な意味じゃないんですけど…。もしかしたら僕は、もう死んでるんじゃないかなって思ったんです。いつも頼りないって言われてたのに、目のせいで患者さんも満足に診れなかったのに…。必死だったからかな。さっきは目がハッキリ見えたんです。だから尚更、こんなにできるなんて信じられなくて」
花丸の笑顔に寂しさが滲んでいることを察したのか、財前は少し黙った後、毅然とした表情を花丸に向ける。
「俺の親友でマジシャンがいるんだけどよォ…」
親友のマジシャン—。
私にはわかる。今、財前が話しているマジシャンは、花丸の対なる人物。すなわち、元々「こっちの世界」にいたもう一人の花丸耕太のことだ。財前によると、もう一人の花丸はひと月ほど前に、交通事故で亡くなったらしい。
「そいつは別に売れてたわけじゃねえけど、マジックが好きで仕方ねえヤツでな。客から全然ウケなかった時は、高校の学校祭を思い出していたらしい」
「学校祭?」
「そいつのマジックが一番ウケたのが、高校の学校祭だったんだ。辛い時は、その時を思い出して自分を奮い立たせていたんだと」
花丸は財前の言葉をじっと聞き入っている。まるで財前の心の中の想いを感じ取っているかのように。
「『自分が信じられない』くらい、さっきの自分がすげえと思ったんならよ、自信がなくなった時は、今日の自分を思い出せ。格好良かったぜ、耕太」
財前は満面の笑みを浮かべてそう言った。すると、彼は言うだけ言ってスッキリしたのか、大きなあくびをする。
「包帯も巻いてくれてサンキューな。まったく、今日は散々な一日だったぜ。お前ももう寝ろよ、じゃあな」
財前は硬い床に思いきり寝そべる。数秒後には豪快ないびきを掻き始めた。
まさか…。もう寝たのか…?どれだけ寝つきがいいんだ、この人は…。
財前のいびきが大広間に轟く中、私は鼻をすするような微かな音を聞いた。目を閉じながらもすぐにわかった。花丸が一人静かに、涙を流していることに。