「花丸。私たちは君を保護するために横浜に来た。君は、半年後には元の世界に戻ることができる。この凪と一緒に」
ストレートにそう伝える焔。瞬間、さっきまでの花丸の笑顔が一瞬にして消えた。
「君はどうしたい?戻るか?それとも、ここに残るか?」
花丸は少し俯いて、軽く目を泳がせる。明らかに動揺している。何か、ハッキリと決められない事情があるのだろうか。しばしの間を置いて、花丸は目を逸らし、悲しげな表情を浮かべてこう答えた。
「…僕は、ここに残る。元の世界には戻らない」
その言葉に、私は少し胸が痛んだ。どうしてなのかはわからないけど、花丸の辛そうな表情が引っかかったのだ。
「…わかった。君の意志を尊重する。長官にもそう伝えておこう」
焔は冷静に言い放ち、踵を返して無言で廊下を歩きだした。
「焔さん!?」
「お、おい、焔!」
ヤトが私の手を離れ、彼を追いかけて飛び去って行く。私は二人の背中をしばらく見ていたが、花丸に向き直る。花丸は辛そうな顔をしてうなだれていた。
「あの、花丸さん?いいんですか?本当に…」
花丸が顔を上げる。だが、さっきまでの笑顔はない。
「いいんだ。向こうの世界に戻ったって意味がない。戻ったって使えないとか、役立たずとか、消えろとか、お前のせいだとか、そんなことばかりだから」
私は一気に心配になった。この人はやっぱり、色々あって思いつめていたんだ。
「それに比べて、ここの人たちは温かい。仕事もくれるし、凄く良くしてくれるんだ」
仕事…。たしか、掃除や洗濯だったっけ…。そんなことを考えていると、花丸がじっと私のことを、いや、正確には私の右腕を見つめていた。
「…あの。何か?」
花丸は私の右腕から視線を外さず、毅然とした態度でこう尋ねてきた。
「その腕、怪我?」
私は無意識に右肘を見た。上木との決戦で負った怪我だ。今朝、焔に包帯を巻いてもらったのを思い出しながら答えた。
「あ、はい。昨日少し怪我しちゃって。もう大分痛みは引いたんですけど、念のため包帯を」
「そっか」
相槌を打ちながらも、花丸は何やら考え込んでいる様子だ。
「もし、また痛みがぶり返したら教えて。診てあげるから」
「は、はい」
さっきまでとは違う、冷静で落ち着いた花丸の態度に驚く。そうだ、この人はたしか研修医だったっけ。
「ありがとうございます。花丸さん、研修医なんですよね?将来の夢はお医者さんなんですか?」
何気なく聞く私。だが、その瞬間、花丸の表情が曇った。
「そうだったんだけど…。人を救うってミスが許されないことだから。僕には向いてないかなって」
「花丸さん…?」
唐突に、花丸はこう切り出した。
「僕がダムに行った理由、わかってるんだろ?」
突然の質問に、私は戸惑いながらも静かに頷く。
「死のうと思ってダムに行ったんだ。けど、結局怖くなって飛び降りられなかった。躊躇っているうちに足を滑らせて落ちちゃって。何をやっても中途半端。バカだよな」
「そんなことは…」
「けど、こうして別の世界に来れた。もう長時間労働をすることも、嫌なことを言われることも、重圧に苦しむこともない。いいんだ、これで。それにもう…」
「それに?」
「いや、何でもない。いいんだ」
話を聞きながら、私はあることを思っていた。本当に心からそう思っているなら、どうしてこんなに苦しそうな顔をするんだろう。花丸が紅牙組の人たちに感謝しているのはわかった。それでも、こんなに辛そうなのは、その選択が夢を諦めることに繋がるからなんじゃ―。
そう思った矢先、花丸は気を取り直したように笑顔でこう告げた。
「僕、そろそろ戻らないと。色々ありがとう!凪ちゃん」
「あ、いえ。こちらこそ。マジック凄かったです」
「次は別のマジック見せるから。楽しみにしてて!」
爽やかな笑顔を浮かべながら、花丸は軽やかに台所へと戻って行った。