午後十一時。私は寝間着姿で寝室のベッドに座りながら一冊の本を開いていた。この本の著者は水無月―、いや、幸村藍子。私のおばあちゃん。今読んでいるのは、「人狼族の血」に関するページ。夕方、SPTで焔がミレニアの信者には人狼族の血が与えられていると言っていたのが気になったのだ。人狼族の血について、本にはこう記されていた。
『人狼族の血液に関する考察』
――「人狼族」が瞬発力、治癒力ともに優れているのは、「血」が大きく起因していると考えられる。これは人狼族のみならず、他種族に与えた場合でも同様の効果が得られる。だが、現段階では、人狼族の血を他種族に与えた場合、免疫系による拒絶反応や精神異常など深刻な影響を引き起こす可能性が高い。
人狼族の血に関して、特筆すべき点がある。それは、人狼族には二種類の異なる血液型が存在するということだ。一般的な人狼族の血液を「陰」と呼称するならば、極めて珍しいもう一つの血液型は「陽」とも表現できよう。両者の分子構造には顕著な違いが見られ、その差異が身体機能に与える影響は無視できない。
とはいえ、「陽」の血液型を持つ人狼族は非常に希少であり、その生態に関する詳細なデータは依然として不足している。現在、我々の研究チームはこの特殊な「陽」の血液型が持つ性質、そして潜在的な力の可能性を探っている――
「陰と陽、か…」
どうやら、人狼族には二つの血液型が存在するらしい。色々気になることは他にもあるけど、もうクタクタで頭に入りそうもない。私はあくびをしながらゆっくりと本を閉じ、バタッとベッドに倒れ込む。起き上がって、本棚に仕舞わなきゃ…。そう思いながらも、私の意識はどんどん遠のいていった。
----------
この日も、私は夢を見ていた。薬品の瓶や医療機器などが入った棚が並ぶ、研究所のような場所。うっすらと漂う消毒液の匂いが鼻腔を刺すように広がる。目の前には白衣をまとい、背を向けて座るひとりの女性の姿。目の前の顕微鏡のレンズをじっと見入っている。私はその女性の横顔が気になり、顔が見える位置へとゆっくり回り込んだ。
すると、女性は突然ガバッと顔を上げ、目を大きく見開いて笑顔で叫んだ。
「みんな!やっぱり思った通り!陽の血は拒絶反応がない!それどころか、症状が驚くほど改善してる!」
嬉しそうにそう告げる女性は、感極まった様子で涙ぐんでいた。すると、白衣をまとった数名の研究者が女性の周りに駆け寄り、歓喜の声を上げている。私は理解した。この人たちは今、人狼族の血の研究をしている。そしてこの中心にいる女性こそ、私のおばあちゃん、幸村藍子だと。
----------
「―ぎ!なぎ!」
呼ばれる声にハッと目を開けると、顔から数センチのところに、ヤトの顔があった。ヤトは布団の上からぴょんぴょん跳ねながら、楽しそうに私に声をかけ続けていた。
「ヤ、ヤト?」
「やあっと起きた。もおぉ。ずっと声かけてたんだから!」
「ごめんごめん。いつも起こしてもらっちゃって…。おはよう」
「オハヨー!焔あ~!凪起きたよ!」
そう言って、バサバサと寝室から飛び去るヤト。今のは、おばあちゃんの夢か…。この世界に来てから、どうもおばあちゃんの夢ばかり見ている気がする。それにしても、さっきのは夢というよりも、妙にリアルというか、まるで現実の出来事を見ていたような…。
「起きたか、凪」
ボーっとしていたところに突然声が聞こえて私はビクッとした。寝室の入口には焔が立っていた。SPTの制服を着て、身なりも整っている。一方の私は寝間着姿で髪の毛もボサボサ。は、恥ずかしい…。とりあえず髪を手ぐしで整えながら、頭を下げる。
「おはようございます!ごめんなさい!寝坊しました!!」
…。声がしない。さすがに怒っているのかと恐る恐る顔を上げると、焔は微笑んでいた。
「上木との決闘からのSPT研修だったからな。それより、肘はどうだ?」
肘…?自分の右肘を見ると、包帯が巻かれている。そうだ、昨日上木との決闘で、右肘を怪我したんだっけ。
「見せてみろ」
そう言いながら、焔が私に歩み寄ってきた。手には救急箱らしきものを携えている。ベッドに腰掛けるや否や、私の肘をギュッと握り、包帯を解いていく。
「えぇ!?あ、あの…」
突然の展開に思わず慌てる私。だが、焔は気にせずまじまじと肘の状態を見る。
「ふむ。まあ、昨日よりは良くなっているな。一応包帯を巻き直しておく。今日はなるべく肘を動かすなよ」
「…はい」
焔は救急箱から新しい包帯を取り出し、手際よく肘に巻いていく。ちらりと焔を見ると、カーテン越しに温かな光が差し込み、彼の顔を照らしていた。焔の家は地下にあるはずだが、どうやら部屋には人工の太陽光が差し込むような仕掛けが施されているらしい。
光を放つかのような美しい銀髪。凛とした表情。その姿に、私は釘付けになっていた。五秒くらいそうしていただろうか。不意に焔が私を見た。鋭い眼差しに私は反射的に目を逸らす。しばしの沈黙。私はドキドキが止まらなくなっていた。すると、唐突に焔が尋ねてきた。
「凪、この本は…?」
「え?」
言われて視線の先を見る。さっきまでのドキドキは消え、代わりに青ざめてヒィィと心での中で叫んだ。そこにあったのは、昨晩読んだおばあちゃんの本。本棚に戻す前に力尽きてベッドに置いたままだったのだ。思わず本に手を伸ばすが、私よりも先に焔が本を取り、ページをパラパラとめくる。
「いや、その、これは…」
私はうなだれてしまった。隠していたわけじゃないし、悪いことしているわけじゃないけど…。焔に聞きにくくて調べていた分、なんとなく後ろめたい気持ちになってしまう。
「すみません!著者のところに水無月藍子って書いてあったから、その…」
「そんなに慌てなくてもいい」
焔は本を閉じ、冷静に、そして穏やかに言った。
「もう、わかっているのだろう?私が人狼族だということを」
私はゆっくりと頷く。
「気になって調べていたのか。すまなかったな。なかなか打ち明けられなくて」
「いえ、私の方こそなんか聞けなくて。ごめんなさい。コソコソ調べたりして」
優しい言葉にホッとしつつも、言葉が続かなくて、私はつい顔を伏せる。
「何か、聞きたいことは?」
「え?」
「昨晩、ヤトが言った通り、私は結構自分のペースで話してしまうところがある。その…。聞きたいことがあれば、答える」
「え?えーっと…」
不意の言葉に驚く私。天井を見ながらじっと考える。聞きたいこと。聞きたいこと…。
「じゃあ、えっと…。焔さんの血液型は?ちなみに私はO型なんですけど」
へへへっと笑いながら尋ねる私。突拍子もないと思ったのだろうか。焔は少し驚きながら笑っていた。
「いや、その…。この本に書いてあったんです。人狼族には二種類の血があるって。焔さんはどっちなのかなって思って」
「ああ、そういうことか」
コホンと咳払いをする焔。
「私は…。というか、今いる人狼族は『陰の血』だ」
「陰…。AとかBとかじゃないんですね」
「そう。でも、それくらいなんだ。普通の人間との違いは」
ふと焔を見ると、少し寂し気な表情を浮かべている。
「たったそれだけのことで、『人狼化』できてしまう。この力のせいで、先祖たちは争いに巻き込まれたり、利用されてきた。そしてそれは、今も続いている」
厄介な力…。確か「人狼化」すると、瞬発力とかが高くなるんだっけ。考え込む私に、焔はまた穏やかに尋ねる。
「他には?」
「…えっと。個人的にずっと気になっていたことがあるんです」
「ほう」
「名前、なんですけど…」
「名前?」
「焔さんって名前ですよね?じゃあ苗字は何ていうんですか?」
焔の眉がピクリと動いた。実はずっと気になっていた。焔の苗字は誰も呼ばない。みんなが「焔」と呼ぶことに。
「苗字か…。まあ好きに呼んでくれて構わない。高橋でも山本でも、呼びたいものがあれば」
「え?」
想像しない回答に、ついポカンとする。これは…もしかして、はぐらかされている?
「なんだったら、ジョーンズとかウィルキンソンとかでもいいぞ」
「は、はぐらかさないでください!」
思わず突っ込む私に、焔はクスッと笑う。
「じゃあひとつだけ。私の本当の名前は『焔』ではない」
本当の名前じゃ…ない?彼の目を見ると、言い知れぬ影が宿っているように見えた。
「これは、まあ…。あだ名のようなものだ。訳あって、SPTでは十年前からこの名前で通させてもらっている」
「訳?何があったんですか?」
「それは、そうだな。話すと少し長くなる」
焔は少し気まずそうな表情をした。本当は言いたくないんだ。そう察して、私は口をつぐみ、軽く顔を伏せる。すると、焔は不意に私の頭を撫でてこう告げた。
「いつか話すよ、ちゃんと」
「ほ、本当ですか?」
穏やかに頷く焔。嬉しい。なんというか、少しだけ距離が縮まったような気がしてキュンキュンする…。って、私は一体何を考えているんだ。
「凪」
「はい!?」
私が目を見開いたのと同時に、彼が私の肘から手を離していた。
「終わったぞ」
「あ、ありがとうございます」
肘を見ると、いつの間にか綺麗に包帯が巻かれている。その時、ヤトが賑やかに寝室へと舞い戻ってきた。