車に戻ると、うたた寝していたカラスのヤトがむくっと起き上がる。
「もお~待ちくたびれたよ」
そう言って、嬉しそうに私の膝に飛び乗った。そんなヤトを、私は両手で優しく抱き寄せた。突然のことで、ヤトは体を少しビクつかせた。
「ごめんね。怪我したの、私をせいだったんだね」
ヤトは少し黙った後、頬を私の顔にそっと寄せる。
「…気にしないでよ、凪。もう大分良くなったんだしさ!」
私は顔を上げてヤトを見て、微笑んだ。
「焔さん、ヤト。今日は助けてくれて、本当にありがとうございました」
そう言って私は頭を下げる。焔とヤトは互いを見合ってこう言った。
「気にすることはない」
「そうそう、俺たちが勝手にやってることだから」
「それより、これから先のことを考えないとな」
「先って?」
「ミレニアの追手はこれからも来るだろう。君が安全に、この世界で過ごすための良い方法を考えないと。まずは明日、改めてSPTの長官に報告をしに行く」
「長官?」
「そうだ。長官なら、君の事情を理解してくれるだろう」
明日か、明日…。って、え?
「そういえば、今日私はどこに泊まれば…?」
「私の家だ」
え?えええ???と、心でそう叫んだ瞬間、焔はすでに勢いよくアクセルを踏み、
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「着いたぞ」
私は
「あの…?」
「降りるぞ」
焔は外へ出て、勢いよく車のドアを閉めた。私は戸惑いながらも、膝元にいたヤトをそっと抱きしめ、竹刀袋を持って外へ出る。酔っぱらった大人たちの楽しそうな声が周囲に響き渡っていた。本当に、この近くに家が…?
「凪、ヤトを渡してくれないか?」
ヤトを見ると目を閉じている。どうやら疲れて眠ってしまったようだ。私はヤトを起こさないように、そっと焔に手渡す。焔はジャケットを羽織り、その中にヤトを隠した。
「行くぞ」
そう言って歩き出す焔。私は小走りで焔の後ろを歩く。もう夜の九時近いが、通りは活気に満ちたままだ。
そういえば今日は金曜日だ。金曜日ってお酒を飲みに行く人が多いんだっけ。通りすがりの酔っ払いを見て、私はお父さんのことを思い出した。
警察官の父は、陽気な性格で友達が多い。終電を逃して酔っぱらいながらタクシーで帰ってきては、よくお母さんと喧嘩してたっけ。そんなやりとりが今はとてつもなく恋しい。
お父さん、お母さん、真子、ひなた…。
私が帰って来なくて、きっと心配しているだろうな。特にお母さんは心配性だから、夜も眠れないかもしれない。早く会いたい。早く…。
その時、ある建物の前で焔の足が止まった。見上げると、そこには二階建ての黒い建物が。「クラブノクターン」という看板がかけられている。
「あの…。ここは?」
「
驚く私を尻目に焔は扉を開ける。
中に入ると、大勢の大人たち。今まで経験したことがないような音楽の波。暗い空間を、怪しいライトがギラギラと照らしていた。馴染みのない光景を前に思わず足を止める。
すると、焔が私の腕を掴み、こっちだ、という素振りをする。焔が向かった先はトイレ横の用具室だった。周囲を気にしながら、素早く中に入る。真っ暗だ。
焔はすぐにスマホのライトで周囲を照らす。床にはバケツやモップが
「と、扉?」
「驚いたか?秘密基地みたいだろう」
焔は、ジャケットのポケットから鍵を出し、扉を開ける。すると地下へと階段が続いているのが見えた。
「私が先に下りるから、君は扉を閉めて入ってくれ」
そう言って、焔は階段を下りる。続けて私も階段へと足をかけ、扉を閉める。
「急になっているから気をつけろ」
「はい」
焔のスマホの明かりを頼りに階段を下りていく。三十秒後、扉が見えてきた。焔が扉を開け、中へと促す。
「どうぞ」
私は軽く会釈をして入る。照明がパッと点けられ、部屋中を照らす。アンティーク調の家具に壁に飾られた絵画…。それにかなり広い。地下に、こんな素敵な部屋があったなんて。
「どうした?」
焔が不思議そうに私を見る。私はハッとして焔を見る。
「いや、思った以上に広くて立派なおうちで、その…。ビックリしちゃって」
はははっと、焔は軽く笑う。
「一応、SPTの幹部だからな。こういう形で住まわせてもらっている」
焔はそう言いながら、ジャケットの中に隠したヤトをそっと抱きかかえ、ソファの上にある大きめの木製のカゴの中へ入れる。ヤトはあの大音量の中でも起きなかったようだ。
「今日はバタバタしたからな。ヤトも疲れたんだろう」
焔はクローゼットを開けて、ジャケットを脱いだ。ちらっと見えるクローゼットの中には、シワもないスーツがピシッと数枚かけられている。
「君の部屋はこっちだ」
そう促され、私は遠慮がちに歩く。部屋に入ると、大きな本棚と広々としたベッド。ホテルの一室のような空間に思わず私は息を呑んだ。
「テレビもない部屋だが…。良かったら使ってくれ」
私は思わず本棚を眺めた。高さは三メートルくらいあるだろうか。びっしりと本が収められている。
「…図書館みたい」
ふと後ろを振り返ると、焔の姿がなかった。あれ?もう行っちゃったのかな?私はゆっくりとベッドに近づき、竹刀袋を置いた。部屋の本棚に近づき、並べられた大量の本を見る。古代文学、美術史、歴史…。ジャンル問わずさまざまな本が並ぶ。ふと、私はある本の背表紙を見て、足を止めた。
「
人狼族って…?まったく聞いたことがない名称に興味を惹かれた。私は、本を取ろうと手を伸ばす。
「凪?」
突然、部屋の入口から声が聞こえて、私は体をビクつかせた。入口を見ると、焔がバスタオルを持って立っていた。
「す、すみません!勝手に色々触ってました!」
「それはいいんだが…。何か気になる本でもあったか?」
「あ、いや、こんなに本があるなんてビックリして、ただ見ていただけです」
「そうか」
私は手をモジモジさせる。
「これ、良かったら使ってくれ。バスタオルと歯ブラシだ。それと、さっき本部で貰って来た着替えだ。サイズが合うかどうかはわからんが」
私は目を見開き、焔から受け取る。
「すみません、わざわざ。ありがとうございます」
「台所や浴室も、好きに使ってくれて構わない」
「でも、この部屋、本当は焔さんの部屋なんじゃ…?」
「私はソファで寝る。それに、まだ仕事が残っていてな。居間の隣の仕事部屋にいるから、何かあったら声をかけてくれ」
「あ、はい」
「じゃあ、また明日」
「は、はい!ありがとうございました!」
そう勢いよく頭を下げると、焔は軽く笑って扉を閉めた。私はフーっと息を吐いて力なくベッドへ向かい、大の字に寝そべった。
今日は本当に色々なことがあった。色々なことが…。
焔は、おばあちゃんが私に磁場エネルギーの場所を伝えたと言っていたけど、本当に心当たりがまったくない。
「あからさまな暗号のような意味合いで残しているとは限らない。普段の何気ない言葉の中に、ヒントが隠されているかもしれない。繰り返し言っていた言葉はなかったか。じっくり考えて欲しい」
焔の言葉を、私は思い出していた。普段の何気ない言葉。繰り返し言っていた言葉。何かあったっけ?何か…。
考えながら、ふと頭に家族のことが浮かんだ。今朝、家族で囲った食卓が、とんでもなく昔のように思える。私の頭は「凪」と優しく呼ぶ家族のことでいっぱいになっていた。
見つめる天井の明かりが、次第にぼやけていく。気がつくと、目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。