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第39話 転居

 ◇ ◇ ◇


 翌日の四月三日――フィローネはレイチェルに連れられてヴァストフェレッヒェンに赴いていた。


「ここに来たことはありますか?」


 レイチェルが隣を歩くフィローネに尋ねる。


「駅まではありますが、街に出たことはありません」

「そうでしたか」


 フィローネは初めて訪れた町の街並みに圧倒され、忙しなく頭を動かして周囲を観察している。田舎から都会に出てきた者のような様相だ。


「これからはこの町で暮らすことになるので、すぐに見慣れますよ」


 レイチェルがフィローネの様子に苦笑しながら告げる。


 初めて訪れた町はどこでも新鮮で目新しく映るものだ。

 そして時間が経てばじきに見慣れてしまう。


 ヴァストフェレッヒェンは様々な文化が入り乱れている町だ。

 それは建築物にも表れており、多種多様な建築様式の建築物が街並みをいろどっている。

 多様な建築様式が入り乱れているにもかかわらず、上手く融合して幻想的な街並みを演出させているのは見事と言う他ない。


 駅のある中心地から徒歩で移動し、高級住宅街へと向かっていく。


「場違い感が凄いです……」

「慣れますよ」

「慣れたら駄目な気がします……」


 フィローネが居心地悪そうに縮こまる。

 高級住宅街の雰囲気に圧倒され、自分には不釣り合いに感じてしまい居た堪れなくなっていた。


 高級住宅街は道幅が広く、各邸宅も大きくて敷地も広い。

 道幅が広いのは馬車がすれ違っても通れる幅を確保する為に、予め区画整理されているからだ。環境が整っているので自前の馬車を所有している家庭も多い。


 この高級住宅街の環境に慣れてしまうのは人として駄目になる気がしたフィローネは、初心を忘れないようにしよう、と心に誓った。

 自分の力で手にした環境ならともかく、あくまでも棚から牡丹餅にすぎないということを脳裏に刻みつける。


 高級住宅街に建ち並ぶ立派な邸宅を視界に収めながら目的地へ歩いていくと、一際広大な敷地を囲う塀が見えてきた。そのまま塀に沿って歩いていくと門扉が見えてくる。

 そして門扉の眼前まで到着すると、レイチェルが立ち止まった。


「ここです」


 門扉に向かい合うレイチェルの姿に、フィローネは口を開けて愕然としている。

 それも仕方がないだろう。

 彼女がいま目にしているのは、ヴァストフェレッヒェンで最も広大な敷地を有する邸宅だ。敷地だけではなく、建物自体も大きい。


 レイチェルはフィローネの様子に触れずにインターホンを押す。

 そして呼び出し音が鳴る。


『――はい』


 その場で待機していると、インターホンの受信親機から呼び出しに対する返事があった。


「お待たせ致しました。レイチェルです」

『待っていたよ。今、開けるね』


 受信機から聞こえてくる女性の言葉通りに門扉が開かれていく。

 完全に門扉が開かれると同時に、レイチェルが歩き出した。


「行きますよ」

「は、はい」


 呆気に取られていたフィローネは慌ててレイチェルの背を追い掛ける。

 レイチェルにとっては見慣れた前庭だが、フィローネは周囲へ忙しなく視線を彷徨わせてしまうほど縁のない光景だった。


 前庭をいろどる植栽が別の世界へいざなわれている錯覚を引き起こす。

 視線を上げた先には、現代的な豪邸が存在感を放っていた。


 邸宅の前に辿り着くと、レイチェルは再びインターホンを鳴す。


「――いらっしゃい」


 すぐに邸宅の扉が開かれて、家人の女性の出迎えを受ける。


「さあ、入って」

「失礼致します」


 家人に促されて敷居を跨ぐフィローネ。

 レイチェルはその後を追って恐縮しながら玄関を潜った。


 レイチェルは自分の斜め後ろにいるフィローネを促すように背中を優しく押す。

 背中を押されたフィローネはレイチェルより少しだけ前に出ると、緊張して重くなっている口を開いた。


「は、初めまして、フィローネ・イングルスと申します。本日よりお世話になります。よろしくお願い致します」

「うん。よろしくね」


 深々と頭を下げるフィローネに答えるように家人の女性も名乗る。


「私はアーデルトラウト・ヴェステンヴィルキスって言うんだけど、長いからアーデルでいいよ」

「アーデルトラウト……?」


 聞き覚えのある名前を耳にしたフィローネは首を傾げながら呟く。


「『麗人』様と同じ……?」

「それは私のことだね」


 フィローネの呟きをしっかりと聞いていたアーデルが首肯する。


「……」


 肯定したアーデルの言葉の意味をフィローネは理解できずに黙りこくる。

 暫しの間、思考が追い付かず沈黙が場を支配したが、やがて理解が追い付いたフィローネは驚愕してしまう。


「えぇええええええええええ!!」


 驚きで目を見開くフィローネの姿に、アーデルは苦笑してレイチェルに視線を向ける。


「伝えていなかったのかい?」

「はい。余計に緊張させてしまうのではないかと思いまして」

「それは確かにそうだね……」


 レイチェルの返答に納得して肩を竦めるアーデル。


「……あれ? でも『麗人』様のお名前はアーデルトラウト・ギルクリスト様だったような……?」


 自分が記憶している名前との相違点に気がついたフィローネは再び首を傾げる。


「ああ、それは私の旧姓なんだ」

「あ、なるほど」

「魔法師としては旧姓のまま登録しているんだよ」


 アーデルトラウト・ギルクリストと、アーデルトラウト・ヴェステンヴィルキスの違いは姓だ。

 ギルクリストはアーデルの旧姓なので、現在の姓はヴェステンヴィルキスになっている。


「市民には旧姓が浸透しているからね。途中で別の姓に変えると混乱させてしまう恐れがあるから、魔法師としは旧姓のままにしているんだ」

「アーデル様の場合は世の女性が発狂して暴動を起こしかねませんから」

「それはさすがに大袈裟だよ……」

「いえ、間違いないと思いますよ」

「……」


 レイチェルが揶揄からかい交じりに補足すると、アーデルは頭を掻くような仕草をして力なく否定する。

 しかし、レイチェルの力強い念押しに反論できず黙り込んでしまった。


 アーデルは褐色の肌をしており、銀色の髪をショートからミディアムの中間くらいの長さのスタイルにしている。特に長めの襟足と、吸い寄せられるような碧眼が特徴だ。


 女性としては高めの身長で、凹凸のはっきりとした身体つきをしている。

 胸元を開いている白のワイシャツに、黒のジャケットとスラックスを合わせていてとても凛々しい外見をしている。


 『麗人』という異名からもわかる通り、中世的な外見と、貴公子然とした紳士的な立ち居振る舞いから女性から絶大な人気を集めている。

 中世的だが、人妻特有の色気やお淑やかさもあり、更にファンの女性の心を掴んでいた。


「確かに想像できます……。『麗人』様は女性から絶大な人気がありますから」

「君までそれを言うかい……」


 フィローネもレイチェルの弁に同調するので、アーデルは溜息を吐いて肩を竦めるしかなかった。


 姓が変わるのは、結婚か養子に限られる。

 アーデルの年齢的に養子よりも結婚したと思われる確率の方が高いだろう。なので、女性から絶大な人気を誇るアーデルの場合は、ファンの女性たちが暴動を起こしかねなかった。


「も、申し訳ありません」


 自分の発言がアーデルの機嫌を損ねてしまったかと思ったフィローネは慌てて謝罪する。


「いや、気にしないで。これからは一緒に暮らすことになるんだから、もっと肩の力を抜かないと疲れちゃうよ」


 アーデルはフィローネの頭を上げさせて、緊張を解させる為に言葉を尽くす。


「それに、これくらいの冗談を言い合えるくらいの距離感の方が私は嬉しいからね」


 これから生活を共にするのなら、冗談を言い合える仲の方が気を遣わずに済んで暮しやすい。

 それがアーデルの本音であり、フィローネには自分の家だと思って生活してほしかった。


「ありがとうございます」

「これからよろしくね」

「こちらこそよろしくお願い致します」


 フィローネは再び深く頭を下げたが、今度は頭を上げさせるような無粋なことはしなかった。

 親しき仲にも礼儀あり、という言葉があるように今は礼を尽くす場面だからだ。――もっとも、彼女の場合は大袈裟に頭を下げすぎなので、相手によっては服従したと捉えられてしまいかねないが。


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