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前編

「ぎゃああああ!」

 夫の叫び声で私は目を覚ました。

 その後に扉が閉まる音。

 誰か――誰かが入ってきたの?

「どうしたのリヒャルト、貴方」

「ああビルギット、今、誰かが俺のベッドに忍び込んできて、……下着を脱がそうとした……」

「は?」

 私は耳を疑った。

 灯りをつけると、確かに扉がぎい、ぎい、と音を立てて動いていた。

「……やだ、確か鍵かけたわよね」

「君がそう言っていたから、ちゃんと。君の言った通りだ。実家と言っても油断はできないんだね」

「……ええ」

 私はため息をついた。

 この日、私達は結婚の報告をするために実家のストラウン家へと戻っていた。

 もうこの家を離れてから十年近くになる。

***

 ストラウン家は実業家としてこの地方では名士として知られていた。

 私は二十五年前、そこの長女として生まれた。

 ただ、最初の子だというのに両親から可愛がられた記憶は無い。

 というのも、私の両頬には生まれつき大きな、しかもくっきりとした濃いあざがあったからだ。

 大きくなればある程度化粧で隠すこともできたが、子供の頃となるとそうもいかない。

 その上、土地柄というのか。

 顔にあざをつけて生まれた子は家に火を寄せ付けやすいという迷信があった。

 ――まあ、迷信の方は後付けだろう。

 ともかく最初に生まれた女の子だというのに、もう実にわかりやすい「醜さ」がそこにあった、ということなのだ。

 ただそれでも資産家であり名士であるので、私を捨ててしまう様なことはなかった。

 いや、生まれなかったことにすることも考えはしたらしい。

 死産ということにして本当に山に捨ててくるか。

 ちょっとだけ金をやって、流しの芸人に渡してしまうか。

 それともその場で首をひねってしまうか。

 特に父は見た瞬間、様々なことが頭をよぎったらしい。

 だがそこで、一緒に立ち会っていた父の姉、私の伯母にあたる人がこう言って抱き上げてくれたそうだ。

「まあ何って健康そうな子なの! ありがたいことだわ!」

 伯母は父の性格を知っていた。

 父はこの家を継いで業績を上げて行くための能力には優れていたが、ともかく「汚い」と自分で思ってしまうものに対しては恐ろしく冷酷だったと。

 ただでさえ出産したての赤子というのは、綺麗とは言いがたい。

 それ故に伯母はこの弟がふと魔が差して何かしでかしたらいけない、と見張るために来ていたのだと。

 そう、このことは私も物心つく様になり、後で伯母から聞いたのだ。 

 物心つくまでは。



 私にとって、両親は居ないも同じだった。

 乳母と、早くに流行病で夫を亡くした伯母、そして家庭教師が私にとっては親の様なものだった。

 では本当の両親は、と言えば。

 私が生まれて三年後、妹のアマーリエが生まれた。

 実は一年後、二年後も母は身籠もってはいたらしい。

 だがどの年も流産死産と悲しい結果に終わったのだという。

 その後に生まれたのがやはり女の子。

 しかも医者や産婆が言うには、普通の生まれたばかりの赤子にしてはとても可愛らしいときたからには、もう両親が可愛がらない訳がない。

 私は両親と食事すら共にしたことはなかったが、彼女は少し大きくなると、すぐに両親と同じテーブルで食事をする様になった。

 私の食事は綺麗にまとまったものではあったけど、いつも自室で一人で食べるものだった。

 そして何より、妹には早くから「友達」が与えられた。

 近隣に住む事業の重役の子供や孫達。

 そういう子供が遊び相手として、うちに通う様になった。

 遊ぶ声が楽しそうだったので、ある日部屋から庭に出てみると、子供達は「げっ」という声を上げて逃げていった。

「お嬢様!」

 乳母が慌てて私を部屋に引き戻した。

「……いつも注意しておりますでしょう、中庭以外で遊ぼうとは……」

「でもアマーリエは皆と遊んでいるじゃない。どうして私はいけないの? それに、何であの男の子、私を見てあんな声立てたの?」

「そろそろ言った方が良いのでは……」

 乳母に家庭教師は言った。そろそろ? 何のことだろう?

「お嬢様、これをご覧下さい」

 そう言って、乳母は私に始めて手鏡を握らせた。

 そこには女の子の顔が映っていた。――大きな、濃いあざが両頬に広がった……

「え? 何か凄い顔」

 私がそう言ったら、二人は辛そうな顔をした。

「ビルギット様、それは鏡といいます。ほら」

 そう言って家庭教師は私の後に回った。

 私の後に先生がいる。

 先生が手を動かせば、鏡の中の先生に見える人も手を動かす。

 と言うことは。

「……え、これが私の顔…… なの?」

 そう、私は家庭教師がついて勉強する様な歳まで、鏡を見たことが無かったのだ。

 朝の支度は乳母が手伝ってくれる。髪も梳かして編んでくれる。

 鏡を見る必要はなかったのだ。

「それで、男の子があんな声を上げたの?」

 二人とも沈痛な顔でうなづいた。

 そして悟った。

 何故ずっと私は乳母や先生とだけで、門側の庭に出してはもらえず、中庭にしか出られなかったのか。

 お客の声がすると何故か廊下の途中から扉の鍵が閉められた。

 楽しそうな声、騒がしい音、例えば新年のお祝い、そういう時にも、私はただ自室でそれ相応の食事と、伯母からのプレゼントをもらうくらいだった。

 ――それが、十四の歳まで続いた。



「充分な勉強もできましたことですし、できればビルギット様は外の学校でもっと学んでもよろしゅうございますけど」

 先生はそう、やや悲しげに言った。

「先生、私学校に行きたいわ」

「ですが」

「お嬢様、今まで人に慣れて来なかったのですよ、すぐに学校というのは……」

「それでも、ずっと一生この家に閉じ込められているのは嫌よ」

「……一応、旦那様に報告してみます」

 先生はそう言ってくれた。

 答えはまずは否、だった。

 そこで私は伯母に手紙を書いた。

 もっとちゃんと学びたいから学校に行きたい、だけど人慣れしていないから、伯母様のところに住まわせてもらえないか、と。

 虫のいい話ではある。

 だがこの時点で私は伯母の顔を知っていても、両親の顔すら知らなかったのだ。

 頼むのなら、伯母しかいなかった。

 伯母は何とか自分の弟に対して話をつけてくれた。

「ただし、うちの娘ということは絶対に表に出さないでくれ。姉さんが引き取った身寄りの無い娘ということにしてくれ」

「……お前はまだそんなことを……」

 父のその態度に、伯母の握った拳はぶるぶると震えていたそうである。

 そしてその足で伯母は私を引き取っていった。

 その時、初めて私は妹の姿を見た。

 波打つ髪、白い肌、笑い声、生き生きと表の庭を走り回る彼女。

 馬車に乗り込む際に、彼女は伯母に気付いたらしく、こちらへとやってきた。

 そこで私と初めて間近に顔を合わせた。

「……もしかして、これが、ビルギット姉様?」

 ぽかんと口を開けて、アマーリエは私を指さした。

「人をこれ呼ばわりしてはいけません!」

 伯母は即座にアマーリエに注意しつつ、私を馬車に乗せた。

「だってお父様もお母様も言ってたわ。いつ火を出すかもしれない、ほっぺたが汚い子だって」

「汚いのではありません! そういう肌なだけです!」

「じゃあ、生まれつき汚いんだ」

 けらけら、と妹は笑った。

 私は頭がくらくらとした。

 その後はしばらく記憶が無い。

 はじめての馬車に酔って気を失ってしまったのか、それともあまりにも酷い罵声でも飛んだのか。

 ともかく私は両親の顔も知らぬまま、家を離れることとなった。

 そして私は伯母の家で一年間、人慣れするための日々を送った。

 顔に関して伯母はこう言った。

「隠したいと思うならば、その方法を教えます。でも、どちらでもいいと思うならば、そのままで通しなさい。それは貴女の自由です」

 基本的な方向性をこの一年で決めろ、ということだった。

 だから私は色々試してみた。

 化粧を厚塗りした場合、どのくらいで隠せるのか。

「お化けだわ」

 却下した。

 看護婦みたいに、目の下を布で覆う。

「何処の国から来たとか疑われないかしら」

 しかもそれはそれで目立つ。

「伯母様、私そのまま出しておくことにします」

「そう。それはそれで厳しいわよ」

 その「厳しさ」は街に買い出しに行く時点から始まった。

 だが、慣れていけば「人は珍しいものには目をやってしまうものだ」と諦めることにした。

 そして寄宿学校へ行きだした。

 無論当初は奇異な目でひたすら見られたが、ひたすら勉学に打ち込んだ結果、「顔はともかく頭はいい」という評価を皆から得た。

 無論そこだけは人の何倍も努力した。結果、女子を受け容れだした大学への進学試験に受かることができた。

 おめでとうと言ってくれる友人が既に私には結構な数存在していた。

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