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前編

「ああ、確かに浮気というならしているさ」

 問い詰めると、夫はふっと薄ら笑いを浮かべ、私にこう言い放った。

「無粋だな…… いいかルビー、お前と結婚したのは、浮気をするスリルを味わいたいからだ」

「は?」

「そもそも昔の貴族のことを考えてみろ。皆結婚した上で別の恋人を作ることなんか当然のことだったんだぞ。単に俺はそれを見習っているだけだ」

 私は唖然とした。

 いや、それ、そういう退廃的な生活とかに怒った市民が革命という名で意趣返しをされる原因だでしょう?

 無論今の世の中で、しかも私達が貴族とか大実業家で家同士の結婚をしたというならば、それはそれで我慢できる。

 だけど私達は一応恋愛結婚のはずなんだけど。

 私と夫のハロルドが結婚したのは、三年前、私が二十四の時だ。

 既に嫁き遅れとも言われていたが、中流階級では無条件に良い嫁ぎ先など無い。

 むしろ私は長女だったので、実家の弟妹達のために仕事を見つけて稼がなくてはならない身だった。

 一生独身でも仕方がないだろう、と思ってもいた。

 そこで何とか養成所で学だけは身につけて、家庭教師になった。

 ただ、必ずしも安定所で紹介されるところが良い勤め先とは限らない。

 女家庭教師を子女の教育に雇う様な家も色々ある。

 良いところでは使用人であれ、「教師」として教えてくれる相手を尊重し、子供にもそう教育している。

 だが本当にただ使用人と見て、どう扱ってもいい、というところもある。

 と言うか、おそらくそっちが大半だろう。

 どれだけ家格の高い家でも後者はあるし、低くても前者の場合もある。

 もうこれは本当に運だった。

 そして私の運は悪かった。

 就職先自体は良かった。

 給料も良く、担当した下の子供達も懐いてくれた。

 だがしかし、上の子、というのが居た。

 二十歳くらいの青年でも一応「子」なのだ。

 その長男が迫ってきた。

 というより、襲われた。

 屋敷内の空いた部屋に連れ込まれ、背後からスカートをまくられ、下着の開かれた股間に手を伸ばしてきた。

 最初の職場だったこともあり、私はそんなことが本当にあるなんて、とかわすこともできず、ただひたすらに抵抗した。

 必死で逃げた。

 するとあろうことか、その日のうちに家政婦と執事、それに夫人に呼ばれ、私は解雇された。

 理由は「我が家の長男をたぶらかしたから」。

 おそらく長男が母親に言いつけたのだろう。

 私に誘われたとか何とか言って。

 いや、そうでなくてもいい。

 ともかく雇い主の息子に力尽くで逆らった。

 それだけで解雇の条件としては充分らしい。

 無論理不尽さは感じたが、雇われた以上、そういうこともあるのだと。



 ただまた職安に居た同じ家庭教師志望の噂話に加わった時「そんなの当たり前だわ」とも言われた。

「本当にいいとこだったらそれで妾か愛人の座が手に入れば御の字じゃない?」

というひとも。

 時々あるのだという。

「まああんたは地味にしてても美人の方だから、結構そっちで危険かもねえ」

 身ぎれいにしてしなさい、というのは母の教えだったが、ここでそれが仇になるとは思わなかった。

 女家庭教師は、顔の造作が崩れている方が得なのだ、と私はその時気付かされた。

 だがもって生まれたものはどうしようもない。

 私はできるだけ地味に地味に、それこそ前時代をひきずっている様な女の格好をし続けた。

 だがそれでも、何カ所かで同じことになって解雇される。

 教えている当の子供達はいつもそれなりに懐いてくれているというのに。

 どうしたものか、と公園で鳩に豆を撒いていた時だった。

「いつもこの公園に居ますね」

 そう言ってベンチの隣に座ってくる男が居た。

「……暇ですから」

「見たところ、家庭教師をなさっている?」

「つい昨日までは」

「なるほど、首になったと! まあ仕方が無いですね、貴女の様な美人では」

 私はむっとした。

「初めて会った方に、そんなこと言われる筋合いは無いと思うのですが!?」

「ああ失礼。俺はよく貴女をこの公園で見掛けるので、つい昔からの知り合いの様に思ってしまったのですよ」

 それがハロルドとの出会いだった。

 私は解雇され、職安に行く時にはここで昼食をとっていた。

 公園はいい。

 緑にあふれ、季節の花に満たされ。

 家からサンドイッチと紅茶を持ってくるが、気が向いたら屋台のフィッシュアンドチップスも加えてもいい。

 うんざりする様なあの職安のざわめきから開放される。

 しかしそれをまた、いちいち見ていたのか、と思うとやや微妙な気分になる。

「そうですか、じゃあ今度から別のところで食事をすることにします」

 するとはっし、と手を取られ。

「まあ、せっかくだから俺の愚痴もちょっと聞いてくれませんか?」

「愚痴ですか? 聞く義理は無いと思いますが?」

「いやいや、貴女の仕事口になるかもしれませんよ?」

 そう言われたら、そう簡単に立つ訳にはいかない。

「俺はこういう者です」

 彼はとある弁護士事務所勤務と書かれた名刺を差し出した。

「自分の担当しているお宅では、家庭教師が急に恋人と駆け落ちしてしまって大変だ、ということです。何だったら如何ですか?」

 自分が紹介する、と彼は言った。

 初対面の人の話をそのまま受け取るのは何だったが、それでも職につながれば、という気持ちはあった。

 理由が理由な解雇が続いたせいで、職安の方もなかなか仕事を回してくれないのだ。

 なので藁にもすがる思いはあったのだろう。

 私は彼に紹介された家へと行った。



 結果として、そこでは二年、勤め上げることができた。

 通いだったのと、老祖父母と子供という組み合わせが良かったのかもしれない。

 短かったが、とにもかくにも今までと違い、依頼された期間を勤め上げることができたのだ。

 そしてその間にハロルドとの付き合いが進展していった。

 紹介してくれた場所が良かったということもあり、私は彼への信頼が急速に増した。

 それがやがて恋みたいなものに変わってしまったのも仕方がなかったかもしれない。

 そして契約が終わり、また次の仕事を探さなくてはな、と思った時に、彼に求婚されたのだ。

 弁護士と家庭教師。

 中流と中流、という組み合わせも良かったのだろう。

 結婚話はとんとん拍子に進んだ。

 その頃には弟妹もあらかた仕事に就き、ある程度独立していた。

 今まですまない、私は自分自身の幸せを掴んでくれ、と両親からも言われた。

 結婚話はスムーズに進んだ。

 彼の実家はうちよりは裕福だったが、今まで結婚のけの字も出さなかった息子が、ということで喜んでくれた。

 両親とも上手くやれそうだった。

 これを機に私は家庭に入り、今まで人に使われる身から、通いだがメイドを使う身になった。

 ただ、なかなか子供ができなかった。

 幾つかの理由は考えられた。

 彼が案外仕事で忙しいこと。

 夜遅くまで帰ってこない日が多いこと。

 休日も何かと男同士の付き合いがどうの、とかでかり出されることが多いこと。

 それと私の生理的な体調との関係で、なかなか夫婦としての行為ができないのだ。

 一年目はまあいい。

 二年過ぎると、さすがに義両親や義妹が心配する様になってきた。

 この義妹――パトリシアという――というのは私より二つ歳上だった。

 やはり家庭教師をして後、やはり弁護士と結婚したのだという。

 だからだろうか、話が合う彼女とはちょいちょい交流があった。

 ただ彼女には既に三人の子供が居た。

 この違いは何なんだろう、とよく私は思うことが多かった。

 パトリシアは私の健康はどうか、とか家庭教師をしていた時に無理はしなかったか、とか色々心配してくれた。

 一年目まではそれで私も自分に問題があるのではないか、と思っていた。

 だが二年目を過ぎると、私もパトリシアも、ハロルドの行動に問題があるのではないか、と思い出した。

「そもそも貴女達、一月に何度夫婦の営みをしているの?」

 そう聞かれた時に数えてみると。

「……一月に何回、じゃないわ。二ヶ月に一回とかそんな感じ」

「それおかしいわよ。というか、そんなだったら、ちょっと仕事を調整するものじゃない?」

「そんなことができるの?」

「少なくとも、私の夫はちゃんと私や子供達の何かしらの記念日には急な仕事が入っても誰かと変わってもらえる様な体制を作っているっていっていたわ。働くの家族が大事だからって」

 私は視線を落とした。

「彼は家庭より仕事、ということかしら」

「それはあるのかもしれない。でも男同士の付き合いをそんなに家庭を放ってまでする?」

 言われてみればそうだ。

「ねえパティ、男同士の付き合いで、お家にお友達を呼んだりすることはある?」

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