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⑧マルミュットの知らなかったこと

 コーヒーは割と昔から男性向けの喫茶室、コーヒーハウスで飲まれてきた。

 それは列車が南の地から帝都へと通る様になってから一気に流行りだした。

 ただそれが、普通の家で――となると話は別だった。

 コーヒーはあくまで外で、男達が議論を交わす様な場所で飲むものだというのが一昔前の感覚だった。

 だがそれも、次第に緩んでくる。

 きっかけは何かしらの政治家だか有名人だかの言葉が掲載された記事だったと思う。

「自分は胃が最近弱いので、お茶にそうする様にミルクをコーヒーにも注いでいる。邪道かもしれないし、それはまた別の飲み物と言っても仕方がないものかもしれないが、それでもあの香りを消すことはできない。ただそれに妻が便乗して砂糖まで入れだしたのはどうかと思うが」

 それが二十年足らず昔の話。

 以来、コーヒーは次第に家庭の中に入ってきた。

 ただ、かと言って学校の家政の授業でおさらいするのは専らお茶であり、コーヒーは一嗜好物として位置づけられている。

「きっと家庭向きの雑誌で見かけて淹れる様になったんだと思いますよ。厚手のネル生地で袋を作って、そこに自分でがりがりと挽いた豆を入れて熱いお湯を注ぐ…… 手順はそう覚えている様なんですが、どうもただただ苦いだけのものになってしまうんですね、お姉様がすると」

「そうなの。まああのひともせっかちな部分があるから。それに豆を挽くのに、あのひとの手じゃちょっと硬いのではないかしら?」

「何か一生懸命がりがりとやっていましたけど」

「それこそ旦那様に挽いてもらった方がいいのよ。力が無いから力任せになってしまうのね。いっそ、はじめから挽いてもらったものを少しずつ買った方がいいのかもしれないけど」

「節約と言っておりましてですね」

「飲まれないんじゃ節約にはならないわよ」

 彼女はくすくすと笑った。

「でも、そうね。確かにそんなことも言っていた気がするわ」

「と言うと?」

「ほら、そちらのお父様が少しお加減が悪いことがあって、トリールが一週間程家を空けたことがあったでしょう? その時私、お留守番を頼まれたことがあったの」

「え?」

「私は帝都では貸間に住んでいたから。ほら、女所帯でしょう? まあ、今もそうと言えばそうだけど…… 私と娘と、あと住み込みの子守兼小間使い。女だけで物騒だから、鍵を掛けたら大丈夫な、女性ばかりの建物に部屋を借りていたの。で、部屋に居るだけでは息が詰まるからトリールのところに行ったり、何かしらまた軽い仕事を紹介してもらうつもりだったんだけど…… その時には庭もある家で気晴らしになるから娘さん達を連れて、家とあの方のお世話を少しだけお願い、って」

 一週間も!

 お姉様は何を考えていたのだろう!

 信用?

 していたのだろう。

 実際親友な訳だし、子供と小間使いを連れた未亡人なら、下手なことはできないと思ったんだろうか。

「その時にはお義兄様は何も?」

「ええ、きっと気を遣ってらしたのね。朝ご飯にしても、別にコーヒーを出す訳でなし、ごくありふれたものばかりだったし……」

 そうそう、と彼女は手を叩いた。

「その間なんだけど、もの凄くあの方は娘を可愛がって下さってね。お庭で一緒に花壇に新しく花の種を撒こう、とか小さなスコップやシャベルまで買って下さったの。後々何度かそれでこちらで遊ばせても下さったし」

 それもまた初耳。

 お姉様の口から聞いたことが無い!

「ああそうだわ、私がそれから確か、あの方の紹介であちらの会社の事務所に短い時間だけ働く様になったから、その時娘と子守りの娘をトリールの家のお庭で遊ばせてくれたのよ」

「ああ、それであの会社に。私の友達はずいぶん残念がってたんですよ、貴女が義理の叔母になるなら楽しいだろうって」

「そんな、おこがましい…… 伯爵家の方となんて、全く釣り合いがとれないことでしたのよ」

 そう、そこで縁談が彼女には来ていたのだ。

 私の第一女学校時代の友人にリスダイト伯爵の令嬢であるサラリェンというひとが居る。

 その若い叔父にあたるひとが、お義兄様の勤めている会社の結構な重役だったのだ。

 そのひとが事務室にいたカイエ様を見初めたのだ。

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