……それから数日後の夜。
もう寝る時間だというのに、アヤメが寝室に戻らない。
オランもリョウも、すでにベッドの上でアヤメの『お休み』を待ち構えている。
やがて寝室の扉が開いて、ようやくアヤメが戻ってきた。
すでに寝間着のアヤメは、何事もなかったようにベッドに上がった。
「お休みなさい、リョウくん」
「おやすみなさーい」
いつものようにアヤメは、まずリョウを寝かしつける。
リョウは気を遣ってか空気を読んでか、アヤメとオランから少し離れてベッドの端で眠る。
3人が寝れる程の大きなベッドだからこそ出来るのだ。
リョウが眠ったのを確認すると、アヤメは反対側を向く。
「お休みなさい、オラン」
「それだけか?」
「好き…」
「どのくらいだ?」
「……大好き」
いつものじゃれ合いをしながら、良き所で自然と唇も触れ合う。
今夜も『寝る前のキス』という習慣は、難なく行われた。
……だが、オランは気になる事があった。
「さっき、どこに行ってた?」
オランが問いかけたのは、寝る前にアヤメが一人でどこかに行ってしまった事だ。
アヤメは特に顔色を変えずに答える。
「食堂に行って、ディアさんにミルクの魔法で…」
「……あぁ??」
オランの顏が険しくなった。
どこかで聞いたフレーズに、嫌な予感しかしない。
「コーヒーをカフェオレにしてもらって…」
「オォイ!!寝る前にコーヒーを飲むなって言ったよなぁ!?」
アヤメが言い終わる前に、オランはツッコミとも言える叫び声を上げた。
…リョウが寝ているので、かなり声量は抑えているが。
だが、アヤメは意外と落ち着いている。
「飲んだワケだな?コーヒーを」
「うん」
「仕方ねぇ…今夜も一発やらねぇと……」
「え?一発って何?」
オランの言う『一発』とは、アヤメを眠らせる為の『命令』の事だ。
……できれば、最終手段の『命令』は使いたくない。
何となく反則技のチート能力のようで、カフェインに勝った気がしないからだ。
目指すは、カフェインへの完全勝利だ。
意気込むオランとは逆に、アヤメは静かに微笑んでいる。
「カフェインの魔法なら大丈夫。今日は眠れるよ」
「……なんだよ、その自信は」
「今日は飲んでも眠れるって、ディアさんが言ってたの」
「……あぁ?なんだそりゃ」
大丈夫な訳がない。今日もカフェインで眠れなくなるのがオチだ。
ディアの、その根拠のない自信は何なのか。
そしてアヤメも、ディアを信用しすぎている。
ディアの奴…テメエこそ後で調教してやる…と、オランは心に決めた。
……今夜は、長い夜になりそうだ。
再び、オランの最大の敵『カフェイン』との戦いが始まるのだ。
部屋の明かりを消し、僅かに手元が見える程度の常夜灯のみになる。
いつものようにベッドに横になると、オランはアヤメを抱きしめてやる。
いつもなら、これだけでアヤメは眠ってしまう。
さて、ここから、どうやってアヤメを寝かしつけるか……
オランが色々な策を考えていると、胸元から安らかな呼吸が聞こえてきた。
まさかと思ってアヤメの顏を見ると、寝息を立てて熟睡していた。
一瞬、何が起こったのか思考が追い付かなかった。
こうも簡単にアヤメが眠るとは、拍子抜けではあるが……
オランはすぐに、それを前向きに捉えた。
「……やったぜ」
嬉しさから思わず漏れた一言。勝利宣言だ。
日々の愛情という名の『調教』が、カフェインに勝ったのだ。
……そうとしか思えない。
その喜びから高揚して自身の眠気は飛んでしまった。
それでもオランはアヤメの寝顔を見ながら、幸せな夜を過ごした。
次の日の朝、執務室でオランはディアに昨夜の出来事を話した。
アヤメにコーヒーを飲ませたディアを責める事もなく、オランは上機嫌だ。
「今度は一発やらずに眠らせたぜ。オレ様の完全勝利だ」
「それは……お見事です」
ディアは何か思う所でもあるのか、賞賛しつつも無表情で返した。
「魔王サマ。本当にカフェインに勝ったとお思いですか?」
「そうだろ?てめえがアヤメにコーヒーを飲ませたんだろうが」
「はい。確かにコーヒーをお作り致しました」
「ホレ見ろ。思い知ったか」
ひと呼吸置いてから、ディアは口を開いた。
「魔王サマ。最近、健康志向の悪魔の間で、流行っている飲み物があるのです」
「あぁ?なんだよ」
ディアは、種明かしのように続けた。
「カフェインレス・コーヒーです」
それは、カフェインが入っていないコーヒーの事だ。
本来のコーヒーよりも風味は落ちるが、アヤメが味の変化に気付く程でもない。
夜に飲むと眠れなくなる『カフェインの魔法』ではない。
夜に飲んでも眠れる『カフェインレスの魔法』だったのだ。
オランは、カフェインに勝った訳ではなかった。
カフェインと戦ってすらいなかったのだ。
『調教』と『カフェイン』の、果てしない戦いは続いていく……。