コランが成長するにつれ、リョウもまた成長した。
リョウは自らの意志で天界に帰りたいと申し出た。
魔界での留学を終える形となって、リョウは天界へと帰った。
望めば、いつでも魔界に遊びに来る事はできる。
だが、リョウは将来を期待される、優秀な天使である。
成長と共に更なる修業に励む日々で、いつしか魔界に行く事がなくなった。
幼い頃に魔界で暮らした期間の記憶も、オランやアヤメと一緒に過ごした時間も……
時間の経過と共に、それらは少しずつ忘れ去られていった。
だが、魔界での日々で培った温かい感情は、リョウの心の奥底で決して消える事はない。
リョウが天界に帰ると、寝る前の寝室はオランとアヤメの二人きりになった。
ある夜、アヤメがいつものように『寝る前のキス』をした後の事。
「ねえ、オラン。覚えてる?私達が出会った時のこと」
アヤメが突然、思い出話のように過去を振り返ったのだ。
その時のオランは、それを不思議には思わなかった。
「あぁ、忘れねえよ」
「本当はね、私…生贄にされたんじゃないの」
「だろうな。分かってた」
オランは、アヤメが言おうとする事が分かった。
アヤメは村人達によって、強制的にオランの生贄にされた訳ではない。
魔王をも魅了するアヤメを、村人達が生贄として差し出すとは思えない。
村の為に、アヤメが自ら進んで生贄になったのだ。
そこには、アヤメの強い決意と覚悟があったのだろう。
自らを顧みない優しさと強さ。
オランはあの時、アヤメの『魂』そのものに惚れたのだ。
「あの時、私の願いを叶えてくれるって言ったけど…まだ言ってなかったね」
オランは当初、アヤメと『契約』を結び、利用する為に近付いた。
悪魔は、人間界では生命力を消耗する。
人間と『契約』を結び、その人間の生命力を吸収しながら活動する。
代わりに、その契約者の願いを叶えてやるのが悪魔のルールなのだ。
「今、その願い事を言ってもいい?」
「いいぜ。言ってみな」
無欲なアヤメが、今さら何を願うのだろうという興味もあった。
何を願おうと、オランはアヤメの願いを叶えてやれる自信があった。
「生まれ変わっても、オランと一緒にいたい」
アヤメは、オランに永遠の愛を求めていた。
それは、無欲なアヤメが口にした、最初で最後の『願い事』であった。
「あぁ。何度生まれ変わっても、永遠に愛してやる」
「嬉しい。生まれ変わっても私を見付けてね。約束よ、オラン」
アヤメは布団の中でオランに抱きついた。
「オラン、好き…大好き、愛してる……」
何度も、何度も、オランの耳元で愛を囁く。
今夜のアヤメは、いつも以上に甘えてくる。
「もう寝ろ、アヤメ」
「……まだ寝たくないの……」
「なぜだ?」
「なんでだろう……」
オランの温もりに包まれて、ようやくアヤメは安らかに眠りに落ちる。
だが、その時のオランは、思いもしなかった。
アヤメのキスも、笑顔も、温もりも、愛の言葉も。
それらが、全て最後の夜になるという事に。
いつもの朝は、訪れなかった。
次の日の朝、アヤメは目覚めなかった。
オランが目覚めると、すぐに気付いた。
確かにアヤメは目の前にいるのに、温もりも、吐息も、命も……
アヤメの全てが消えている事に。
「アヤ……メ……」
返事は返ってこない。
『おはよう』の挨拶も、『愛してる』の言葉も、『習慣のキス』も、二度と叶う事はない。
こうなる事は分かっていた。ずっと覚悟はしていた。
アヤメの寿命は、もう長くはない頃だと。
アヤメを妃にすると決めた時から…最初から、覚悟はしていた。
長くは一緒にいられない、という事を。
だが、あまりにもそれは突然で……
アヤメは出会った頃から変わらず、今も17歳の姿のまま。
何も変わらない姿、何も変わらない日常の中で、それは突然に……
張りつめた命の糸が、なんの前触れもなく一瞬で切れたかのように、その日は訪れた。
……まだだ。まだ……
まだ、やるべき事がある。
悲しむ?悔いる?涙する?そんな事をしても変わらない。
アヤメの願いを叶える為、自分の願いを叶える為……
オランは自分を奮い立たせ、アヤメの顏に自らを近付けていく。
今にも目を開けて、愛の言葉を囁いてくれそうな、愛しい少女の亡骸に……。
「アヤメ……愛している……永遠に」
そう囁くと、温もりの消えたアヤメの唇に重ねる。
これが、最後の口付け。
これで、儀式は完成される……。
オランは、アヤメに対して『禁忌の儀式』を行っていた。
それは、『魂の
その儀式を行う事によって、死んだ人間の魂を365年後に転生させる事ができる。
数万年というオランの長い寿命が尽きるまで、アヤメは何度も転生を繰り返す。
儀式の条件は、『365日』欠かさず『口付け』を交わす事。
オランは習慣と称して、アヤメと毎日キスを交わしていた。
この儀式を完成させる為に。
永遠に、アヤメの魂と巡り会う為に。
それは、永遠の愛を叶える為の『調教』であった。
そして、亡骸となった者と最後の口付けを交わす事で、儀式は完成される。
その最後のキスの直後…アヤメの体が透明となり、消滅していく。
これが、儀式の代償。
儀式を行った『亡骸』は消滅し、埋葬もできない。
オランは、愛しい少女の最後の姿を目に焼き付ける。
白い肌、栗色の髪、小さな唇、何度も抱きしめた、その身体……
最後の、最後の一瞬まで。
これが最後ではない。次に巡り会うまでの、少しの別れに過ぎない。
寿命の長い悪魔にとっての365年なんて、一瞬の事だと……
オランは、そう自分に言い聞かせる。
ベッドの上には、アヤメが左手の薬指に嵌めていた、大事なもの……
金色の輪に、赤い宝石。
まるで、アヤメが姿を変えた化身であるかのように……
アヤメの残した、生きた証であるかのように……
『結婚指輪』のみが残されていた。
アヤメは幸せな一生を生き抜いた。
決して悲しむべき事ではない。
これから先、何万年生きようと、アヤメと過ごした百年足らずの幸せには足らない。
だからこそ、オランは……
アヤメの魂さえも永遠に、輪廻という鎖で縛ろうとしていた。
永遠に放さない。
それがオランの、愛の調教なのだから。
オランは、アヤメの指輪を貝殻のケースの中に入れた。
このケースは、新婚旅行の記念としてオランがアヤメに贈ったもの。
アヤメの指輪の横に、自身の指から外した同じ指輪を置く。
ケースの中で寄り添うように、2つ揃った結婚指輪。
これで寂しくないだろうと……。
城の中庭には、アヤメの為に作った庭園がある。
そこは、アヤメの象徴である
一面の紫色。何度、アヤメと共に歩いた景色だろうか。
アヤメを見送った、その日。
オランは、
その腕の中には、赤子のコランを抱いている。
アヤメが残した、もう1つの愛の証。
アヤメの分身であり、オランの分身でもある、二人の愛の象徴。
アヤメが愛し、その愛を受けて育った、まだ赤子の…愛しい我が子。
オランは空を仰いだ。
「また………会えるからな」
その言葉はコランに向けたのか、自分に向けてなのか。
それとも……アヤメに向けて、だったのだろうか。
朝の静寂の中で、オランの言葉に答えるように、優しい風が吹いた。
『生まれ変わっても、私を見付けてね。約束よ、オラン。愛してる……』
アヤメの声が、耳に届いた気がした。
花畑に佇むオランを、遠くから見守る影があった。
ずっと、オランの側で全てを見守ってきた側近。
ディアである。
今朝は、オランと言葉を交わしていない。
だが、ディアはそれだけで全てを察した。
魔王サマは、涙を流しているのだろうか?
魔王サマは、悲しむ事など決して許さないだろう。
それは魔王サマご自身も、私自身にも。
私だけが涙を流す事など、決して許されない。
私の感情すらも、魔王サマの意のままに……。
それが、魔王サマに永遠の忠誠を誓った、私の使命。
ディアもまた、自分に言い聞かせる。
だが……
「アヤ…メ…様……」
空を仰ぐオランとは逆に、ディアは顏を地に向けて伏せた。
青年の頬に、一筋の涙が伝う。
魔王サマが泣けずにいるなら、私がその涙を全て引き受けよう。
ディアの涙は、オランの涙なのか、それとも自身の感情なのか…
ディアはこの時、人の姿となって初めての感情を知り、涙を流した。
決して誰にも見せないように。
『ありがとう。ディアさん、泣かないで。また会えるから……』
アヤメの声が、ディアの耳に届いた気がした。
天界の王宮の一室で、リョウは本を読み勉強をしていた。
ふと、机の上に置いてある花瓶に視線を向ける。
思い出したように、その懐かしい呼び名を口にする。
「お姉ちゃん……」
その花瓶には、
魔界の王宮の庭園に咲く、あの花だ。
リョウが魔界から天界に帰る時に、アヤメが持たせてくれたもの。
『リョウくん、がんばって。いつか、また会おうね……』
アヤメの声が、リョウの耳にも届いた気がした。
そして『希望』。
魔界が存在して、オランという命が存在している限り。
アヤメの魂が還るべき場所は、いつでも存在している。
ここに還るべき生命、それを迎える日まで。
愛する少女を、再びこの胸に抱く日まで。
オランは、長い年月を生き続ける。
アヤメの魂と共に、永遠の時を生きるために。