月夜の晩——
ディアは、自室のガラス窓から夜空を見上げていた。
僅かに欠けた、満月に満たない月……
それを見ながら、何かに思い耽っていた。
ふと、ガラスに映る自分の姿に視線のピントが合う。
淡いブルーグリーンの髪に、黄色の瞳、中性的な顔立ち。
僅かに20歳に満たない青年、19歳という例えがしっくりくる見た目。
だが……それは、オランに与えられた『仮の姿』でしかない。
いや、強制的に魔獣の姿を封印され、人の姿を成しているに過ぎない。
ディアは満月の光を浴びると、魔獣の姿に戻ってしまう時がある。
それは、『封印』の力に抵抗する意識の残骸。
ディアの魔獣としての『本能』なのかもしれない。
(私は、人なのだろうか、魔獣なのだろうか……)
ディアはガラス窓を開けると、テラスに出て階段を下る。
その下は、
花畑は、夜になるとライトアップされる。
控えめな光が花を照らし、幻想的な紫の色を一面に浮き出している。
その頃、アヤメも寝室の窓から一人で月を見上げていた。
月の光に引き寄せられるようにして窓を開けると、テラスに出る。
(わぁ…満月…じゃない、ちょっと欠けてるかな?)
大きなお腹を抱えて、ゆっくりと慎重に階段を下りて中庭へと出る。
すると、微かに明るい花畑の片隅に潜む、大きな何かを発見した。
黒い毛並みにコウモリのような黒い羽根を持つ、巨大な犬の魔獣。
アヤメは、それがディアであるとすぐに気付いて駆け寄ろうとした。
だが、お腹の重みに気付き、ゆっくりと歩いて近付いていく。
ディアは巨体を丸めて闇夜に潜み、存在を隠しているかのようだ。
アヤメがディアの体に優しく触れると、申し訳なさそうな弱気な瞳で見返してきた。
「ディアさん、どうして魔獣に……あっ、満月?」
アヤメが夜空を見上げると、確かにそこには満月が……
いや、満月ではない。微かに欠けている。
月の形と人の心は、どちらも不安定なもの。
ディアが魔獣の姿に戻ってしまう条件は、あくまで目安。
今夜は少し欠けた月ではあるが、ディアの心が影響して発動してしまった。
「このままじゃ、オランに怒られちゃうよね。どうしよう……」
普段から『満月の夜に外に出るな』とディアに言い聞かせているオランだ。
今夜は満月ではないが、勝手に魔獣に戻ってしまった失態を咎めるに違いない。
アヤメは、ディアがそれを恐れて落ち込んでいると思っている。
「でもオランの魔法じゃないと、ディアさんを人の姿にできないし……」
アヤメが顎に手を添えて考え込んでいると、視界に入った自身の左手を見て気付いた。
左手の薬指の『結婚指輪』に。
「私にも、魔法が使えるかも……」
結婚指輪には、オランの魔力が込められている。
それを制御できればアヤメにも魔法が使えると、死神グリアから教えてもらった。
魔法の使い方が分からなくても、指輪に念じれば応えてくれるという。
アヤメは両手を広げて、ディアの黒い毛並みに埋まるようにして抱きついた。
(ディアさん、お願い……人の姿に……)
目を閉じて念じると、アヤメの左手の指輪の赤い宝石が光を放った。
その赤い光はディアを包むようにして広がり、その体に同化するように溶け込んだ。
光が収まってアヤメが目を開けると、そこにはいつもの『彼』がいた。
魔獣ではない、人の姿をしたディアである。
しかもアヤメが抱きついたままなので、抱き合うような形で。
「あっ…アヤメ様……」
「ディアさん、良かった!これでオランに怒られないね!」
自分にも魔法が使えた事に、アヤメは感激している。
さらにオランに怒られないで済むと思ったアヤメは、手放しで喜んでいる。
そんな純粋なアヤメを目の前にして、ディアは笑顔を返すことができない。
「アヤメ様…ありがとうございます。申し訳ありません」
「うん、オランには内緒にするから大丈夫」
「いえ…そうではなく……」
オランにしか、ディアを人の姿に変える事はできないと思っていた。
アヤメが、契約を交わした『主人』であるが故の力なのか……
指輪に込められた魔力が、オランのものであるが故なのか……
悪魔の子を身籠り、自身にも魔力を帯びているが故なのか……
それとも、ディア自身の意思が働いたのか……?
真相は分からない。
ディアは人の姿となっても、まだ思い詰めて視線を落とす。
「人の姿を留められず、魔獣でもいられない…どちらが本当の自分なのか……」
自分の意思で姿を変える事も、選ぶ事もできない。
重く沈んだ言葉を漏らすディアの前でも、アヤメは笑顔を崩さない。
「どっちもディアさんだと思うの」
選ぶ必要なんてない、答えを出す必要もない。
それがアヤメの『答え』なのだ。
当然の事のように自然と紡がれた言葉が、ディアの心に響いた。
人と魔獣の間で迷っていた自分が、遠く彼方に掻き消されていく。
どちらの自分も受け入れてくれた『主』。
どちらの姿であろうとも、主の為に忠義を尽くす。
そう改めて誓う事で、これからも生きていけるとディアは思った。
「あ、そろそろお風呂に入る時間。戻らなきゃ」
テラスへの階段を上ろうとするアヤメの身体を、ディアが優しく支えた。
そしてアヤメの片手を握ると、一緒に階段を上っていく。
「ゆっくりお歩き下さい。お足元に気をつけて」
「うん、ありがとう。ふふ、お腹おも〜い」
きっとアヤメは、指輪がなくても『魔法』が使える。
呪文がなくても、ただ願うだけで叶えてしまう。
微笑むだけで、たった一言だけで、人を幸せにする『魔法』を。
……先ほどまでとは違い、自分の姿も、満月の夜も怖くはない。
そう思いながらディアは、自分を照らし続ける『欠けた月』を見上げた。
そんな二人の姿を、別のテラスから見下ろす人影があった。
ふっと口元を緩ませると、オランは黒いマントを翻して室内へと戻る。
アヤメが指輪の魔力を使えば、オランが気付かないはずがない。
……それは、ディアも承知の上であった。
アヤメは入浴後、一人で食堂へと向かう。
そこでは、ディアがお湯を沸かしてコーヒーを入れる準備をしている。
この時間、この場所でアヤメがコーヒーを飲むのも、日課になっていた。
アヤメとディアが城の中で二人きりになる、貴重な時間でもある。
アヤメは、テーブルの前に置かれた専用のソファに座る。
お腹の大きいアヤメが楽に座れるように用意された、一人掛けのソファだ。
「大丈夫、さっきの事は誰にも言ってないよ」
「……ありがとうございます」
「ねぇ、ディアさんも一緒にコーヒー飲もうよ」
「承知致しました。それでは失礼して…」
ディアは、主の『お願い』を決して拒めない。
素直に喜んで受ければ良いのだが、ディアは根が真面目なのだ。
ディアは熱湯で入れたコーヒーを2つのコーヒーカップに注ぐ。
それをアヤメの前と、向かい側の自分の前に置いた。
アヤメはコーヒーカップを持って、ふーふーしながら少し口に入れた。
「熱すぎましたか?」
「ううん、大丈夫。すごく体が温まる」
「少しミルクをお入れしましょうか」
「うん。ミルクの魔法をお願い」
「はい。ミルク…の魔法…ですね、かしこまりました」
アヤメは、『ミルク』という魔法でコーヒーがカフェオレに変わると思っている。
当然ながら魔法ではなく、コーヒーにミルクを入れるだけなのだが…。
アヤメにとって見慣れないものは、なんでも魔法だという発想に行き着く。
その発想が可愛いので、ディアもオランも否定せずに黙っている。
今は夜。さらにアヤメが妊娠中なので、二人が飲んでいるのはカフェインレス・コーヒーである。
熱めのコーヒーを飲み終えるまで時間がかかりそうだ。
アヤメは、ディアと何か話をして過ごそうと思った。
「ねぇ、ディアさんは、どうしてオランが好きなの?」
「はい?どういう意味でしょうか」
奇妙なアヤメの問いかけに、ディアは質問で返した。
「だって、オランと契約するほど一緒に居たいのよね?」
「いえ、それは……逆、ですね」
「えっ!?じゃあ、オランがディアさんの事を好きなの!?」
「そうではなくて…いえ、間違っては、いない…ですが…」
アヤメの質問が妙な表現で変な所を突いてくるので、ディアは口ごもる。
「魔王サマが私を必要として下さったのです」
ディアは、遠い過去の記憶に思いを馳せた。
アヤメと出会うよりもずっと前から、ディアはオランと共に歩んできた。
そこには、アヤメの知らない二人の絆があるような気がした。
「ディアさんとオランの出会いの話、聞かせて?」
ディアは、主の『お願い』を決して拒めない。
静かに、オランと出会った『あの日』を語り始めた。
それは、オランがアヤメと出会うよりも、ずっと前———
何百年も前の魔界の森で、魔王オランと魔獣ディアは出会った。
その日は満月で、明るい夜だった。
暗い森の奥であっても、悪魔と魔獣は夜目が利く。
「テメエか。最近、森で暴れていやがる野良犬は」
漆黒のマントを靡かせて、漆黒の世界を象徴する魔界の王が言い放つ。
深い森の中で、オランはその『野良犬』と対峙していた。
オランに威嚇の目と牙を向けるのは、体長5メートルはあろう魔犬。
漆黒の毛並みに、コウモリのような漆黒の羽根を生やしている。
この獰猛な野生の魔獣は、見境なく人を食らう。
何人もの悪魔が仕留めようと試みたが、返り討ちにあった。
「テメエのせいで負傷者が後を絶たねぇ。オレ様が直々に制裁を下してやる」
堂々たる態度で言い切るが、身構えてはいない。
『自称』魔界一の悪魔である魔王オランの余裕の表れである。
対して魔獣は、唸り声と共に理性のない瞳でオランを睨みつけている。
魔獣の体には、これまで討伐に訪れた者達との戦いによって刻まれた無数の傷痕があった。
「……何か言いたそうだなぁ?」
魔獣はオランの正面から突進すると、鋭利な爪の生えた前足を振り上げた。
オランは腕を組んでいる。防御の構えも攻撃する構えも見せない。
ただ薄く笑いを浮かべて、少しだけ片手の指先を動かした。
「だが、問答無用だ」
ドゴォッ!という、大地が砕けるような衝撃音が響く。
同時に、魔獣は重い落下物を背中に受けたような衝撃と共に地面に伏した。
骨まで軋むような重力で、背中から全身を押さえつけられている。
……これは、オランの魔力である。
オランは、そんな魔獣の頭の上に片足を乗せて、靴の底で踏みつける。
腕を組んだまま、上から目線の赤い瞳で威圧しながら、蔑むように。
「テメエが口を利く権利はねえ。全てはオレ様次第だ」
魔獣は、ただ魔王の前に平伏し、睨み返す事もできない。
この頃のオランは、冷酷で無慈悲な、我欲の化身———
正真正銘の『悪魔』だったのだ。
オランが片腕を横に伸ばして手を広げると、その手に『槍』が出現した。
長い柄の先に、先端が三つに分かれた鋭い刃先を持つ。
全てが漆黒に染まった『悪魔の槍』だ。
オランは、武器を使わずとも魔力だけで魔獣を仕留める事が可能だ。
だが、あえて物理的に串刺しで仕留めようとする残忍さを瞳に滲ませている。
それは視覚的に、相手に恐怖と絶望と敗北を与える手法でもある。
「テメエに選択権をくれてやる」
オランは魔獣の頭を踏みつけた足に力を込める。
さらに、その鼻先に槍の刃先を突きつける。
魔獣の頭は地面に圧迫されて、微かな唸り声しか上げられない。
どの道、オランは魔獣の声などに聞く耳を持たない。
それが威嚇であろうと、命乞いであろうとも。
「オレ様の下僕になって生きるか、このまま死ぬかだ。選べ」
魔獣は言葉を理解出来たとしても、言葉は話せない。
さらに、踏みつけられているので声も出せない。
何かを呻くものの、それは声にすらならない。
「何とか言えよ」
オランの出した理不尽な選択に答える事など不可能であった。
その様子を見て、オランはククっと喉を鳴らして笑った。
「犬じゃあ、しゃべれねえよな」
オランは魔獣に向かって片手をかざし、呪文のようなものを呟く。
そして最後の言葉だけは、ハッキリと言い放った。
「封印」
すると一瞬にして魔獣の全身が光に包まれた。
光に飲まれた魔獣の巨体が、そのまま収縮していく。
人と同じくらいの大きさになると止まり、光も消えた。
魔獣が伏せていた場所には、人の姿をした青年が地に膝を突いていた。
見た目は、僅かに20歳に満たない、19歳ほどの男性。
淡いブルーグリーンの髪、黄色の瞳、色白の肌。
一見、女性にも見えるほどに中性的な顔立ちをしている。
回復魔法も同時に施されて、全身の傷も治癒している。
青年は自分の両手や足を見て驚愕し、自分を見下ろすオランに食ってかかる。
「こ、この姿は、一体!?貴様、何をした!?」
「これで口が利けるだろ、感謝しな」
オランは魔獣と話をするために、魔獣を人の姿に変えたのだ。
正確には、魔獣の姿を『封印』して、仮の姿を与えた。
「へえ、美人じゃねえか。女なら娶ってやるのに」
含み笑いをしながら青年の顏を覗き込むオランが、それを本気で言っているとは思えない。
皮肉にしか聞こえない褒め言葉は、青年を逆上させた。
「……ふざけるな!!このような忌々しい姿など……!!」
青年がオランに掴みかかろうとするが、魔力の壁に弾かれて近付く事もできない。
オランは再び、人の姿になった魔獣の鼻先に槍の刃先を突きつけた。
その口元に、一切の笑みはない。
「テメエはもう、魔獣として生きられねえ。人として生きろ」
少しの沈黙の後、青年はガクっと膝を折って地面に座り込んだ。
……分かっていたのだ。
限界まで傷付いた魔獣は、このまま果てるしかないという運命も。
悪魔との共存は不可能だという現実も。
魔王には決して勝てないという事実も。
生まれながらに力を持ち過ぎた魔獣は、その力を制御できない。
暴走する力を発散させるべく森で暴れ、自我を失っていた。
「……なら、殺せ」
「気が変わった。テメエに選ぶ権利は与えねえ」
「なっ…!?」
「オレ様の下僕として生きろ」
青年が顏を上げると、オランが身を屈めていて、その瞳と目が合う。
オランの深紅の瞳を向けられた途端に、青年は息を呑んだ。
威圧でもない、哀れみでもない…何かを求める、真直ぐな眼差しに。
まるで瞳に魔力でも宿っているかのように、意識が引き込まれていく。
「なぜ、私が貴様に…従うんだ……?」
「テメエの意思なんざ関係ねえ、オレ様が欲しいからだ」
「……?」
「テメエは強い。その力、全てが欲しい」
オランは魔獣の強さを認めた上で、その命すらも我が物にしたいと宣言した。
間違いなく、この魔獣は魔界で最強の力を持つ。
彼が今、人の姿を留めていられるのが何よりの証拠だ。
いくらオランの魔法でも、魔獣に相応の力がなければ、人の姿と心を持つ事は不可能なのだ。
人の姿となった彼は『理性、知性、自我』などの『心』を持ち得ている。
魔獣の姿と共に大部分の魔力も封印されたが、それでも有り余るほどの魔力を有している。
そして魔王にしか、この魔獣の強大な力を制御できない。
この魔獣が生きる術、生きる道は、魔王の側しかない。
だからこそオランは、この魔獣を側に置こうと決めた。
……魔王の『側近』として。
それを汲んで、オランは青年に片手を差し出す。
「テメエを飼ってやる。オレ様のモノになれ」
青年は、差し出された手を無言で見つめる。
……不思議と、迷いはなかった。
自分が必要だと、迷いなく告げたオランの言葉と瞳に偽りは感じなかった。
青年は、差し出されたオランの手に、自らの手を重ねた。
すると一瞬にして、二人の姿が光に包まれた。
オランによる『空間移動』の魔法が発動したのだ。
気が付くと魔獣の青年は、草原の真ん中に立っていた。
目の前には、自分をこの場所へと転移させた魔王が佇んでいる。
青年は、周囲を見回す。
「ここは……?」
「オレ様の庭だよ」
オランを越えた向こう側には、壮観な巨城がそびえ立っている。
魔界で、ここまで巨大な規模の城は、王宮にしかない。
ここは、魔王の住む城の中庭である。
周囲は何もない広大な草原。手入れはされていて綺麗に切り揃えてある。
それだけの場所で、装飾や花壇などは見当たらず殺風景である。
後にオランは、この場所に『
「貴様……本当に魔王なんだな」
ポツリと青年が呟くと、オランは不満そうに顏をしかめて腕を組んだ。
「魔王オラン様と呼べ。テメエを城に入れる前に、その態度を改めてやる」
「改める気などない」
「だろうな。だから、ここで『契約』を結べ。オレ様に忠誠を誓え」
「どういう意味だ?」
「テメエの意思でオレ様の下僕になる訳じゃねえ。契約の施行だ」
青年にとっては、その方が生きやすいからだ。
『契約』を、オランに従う正当な理由にしてしまえばいい。
意思に反して服従するよりも、契約だと割り切ってしまえば、楽に生きられる。
オランは、青年が生きていく為の最善の方法を提案しているのだ。
身勝手な提案だとも受け止められるが、青年はそれに嫌悪感を抱かなかった。
最強の魔獣である自分は、魔王にしか制御できない。
魔王の側こそが、自分が生きられる唯一の最善の場所だと確信した。
オランに手を重ねてこの場所へと導かれた時点で、覚悟は決まっていた。
いや、純粋に…オランの力に、その存在に———惹かれていた。
それは、オランも同じであった。
単なる同情で、手のかかる魔獣を飼おうだなんて思わない。
青年は、オランから数歩後ろに下がって距離を取った。
オランの正面で片膝を突き、もう片膝を起こして頭を下げる。
それは、まるで君主に跪くような姿であった。
「私は魔王オラン様を主として、その魂に永遠の忠誠を誓います。契約の証を、ここに」
青年はオランの左手を取ると、手の甲に軽く口付けをした。
これが、魔獣との『契約の証』なのだ。
魂に誓ったその契約は、オランの魂が存在する限り、永遠に有効となる。
この瞬間、オランは青年の『契約者』となり、青年はオランに絶対服従となった。
後に青年はアヤメとも、この場所で契約を交わす事になる。
オランは、ようやくいつもの余裕の笑みを浮かべて青年を見下ろす。
「よし、命令だ。まず言葉遣いを改めろ。敬語を使え」
「はい。承知致しました」
主従関係が確固たるものになれば、後の話はスムーズであった。
「次は名前だ。今からテメエの名前は『ディア』だ」
「はい、承知致しました。…その名は、どのような意味で?」
「『悪魔』と『狩猟犬』だ。テメエにピッタリだろ」
「……はい。恐れ入ります」
ディアは頭を下げて、微かに口元を緩ませた。
名前に興味はなかったが、そこにオランの含みを感じ取ったからだ。
犬の魔獣『魔犬』でありながら、人の姿で魔王に仕える。
魔王の犬として生きる。全くその通りの意味であった。
そしてオランも、側近を置くなら最強の者を選ぶと決めていた。
オランは自らの手で、己の願望を叶えたのだ。
オランはマントを翻し、ディアを導くように城の方へと向く。
ディアの方を振り向くと、心底楽しそうな『悪魔の笑み』で言い放つ。
「魔界一の悪魔・オラン様と、魔界一の魔獣・ディア。最高じゃねえ?」
その笑顔に引っ張られたのか——
ディアは言葉ではなく、同調とも同意とも取れる、心からの笑顔を返した。
その後、ディアは城の図書館の本を全て読み尽くした。
魔界に関する資料や書類などにも、全て目を通した。
僅かな時間で魔界の全てを理解し、把握しきったのだ。
ディアの知能と処理能力には目を見張るものがあった。
難なく、魔王の有能な側近としての立場を確立したのであった。
オランはディアを『側近』に選び、ディアはオランを『主人』に選んだ。
オランとアヤメが、互いを愛する人に選んだ、人生の『最高の選択』。
オランとディアの間にも、『最高の選択』が存在したのだ。
ディアの話を聞き終えるのと同時に、アヤメはコーヒーを飲み終えた。
空になったカップをソーサーに置くと、ディアに視線を向けた。
「じゃあディアさんは、契約したからオランと一緒にいるの?」
「はい、そういう事になりますね」
それを聞いたアヤメは、急に悲し気に瞳を潤ませた。
ディアは何か間違った回答をしたかと、内心焦り始める。
「じゃあ、私の事も……契約だから、仲良くしてくれてるだけなの?」
ディアは、アヤメとも契約を交わしている。
それは、魂に忠誠を誓う事で永遠に共に在りたいという、ディアの強い願望の表れでもあるのだ。
その真意を知らないアヤメは、今にも泣きそうな顏をしている。
妊娠中は、何かと精神が不安定になるのだ。
「決して、そういう訳では…!確かに、契約ではありますが、その……」
「ディアさん、私やオランの事、本当は嫌い?」
「違いますよ…!好きです……!」
そこまで口走ってしまって、ディアは慌てて口を噤んだ。
決して口に出すまいとしてきた、ディアの感情のままの本音であった。
まるで誘導尋問のようなアヤメの問いかけに、導き出されてしまった答え。
だがアヤメは、その『好き』の意味を、単なる好意として受け止めた。
「良かった…私も好きよ」
「え……?」
「私もオランと契約してるけど、契約じゃなくたって二人とも好きよ」
「あ、……はい……恐縮、です……」
ディアは一瞬、心臓が飛び出そうなほどの動悸を起こした。
しかしアヤメの口調の軽さが真意を物語っており、ディアは冷静さを取り戻した。
アヤメは人間界の森でオランと出会った時に、一方的に『契約』を交わされた。
それは主従の契約ではなく、悪魔が人間界で活動するために必要な生命力を吸収する代わりに、契約者の願いを叶えるというもの。
あの時、契約の証として強引に奪われた唇が、初めての『キス』であった。
今でも、アヤメはオランの『契約者』。
アヤメとオランとディアは、互いに『契約』という名の絆で結ばれているのだ。
「あっ!もう、こんな時間。ディアさん、お話してくれてありがとう」
「はい。お休みなさいませ」
アヤメは、ゆっくりとソファから腰を上げる。
立つと一気にお腹に重みを感じて、お腹を抱えるようにして両手で触れる。
食堂の出入り口まで歩くと、そこにオランの姿があった。
オランが、この時間に食堂に来るのは珍しい。
「あれ?オラン、どうしたの?」
「あぁ、ちょっとな。アヤメは先に戻ってガキを寝かし付けとけ」
「うん、分かった」
「ゆっくり歩け、転ぶなよ、命令だぜ」
「は〜い」
明るく返事を返すと、アヤメは寝室へと戻って行った。
アヤメと入れ替わるようにして、オランは食堂に入る。
そしてディアの座るテーブルの正面に座る。
「オレ様にもコーヒーを入れろ」
「承知致しました。…珍しいですね」
「まぁな、そんな気分の時もあるぜ」
平静を装っているが、オランはディアの僅かな動揺も見逃さない。
「それで、誰が誰を好きだって?」
「……何の話でしょう?」
「まぁ、しらを切るなら、それでもいいぜ」
答えを聞かずとも、オランはディアの全てを知っている。
ディアが隠し通している、その想いさえも……。
命令だと言えば、ディアは心の内を全て話すだろう。
だが、そんな野暮な事はしない。
「どうぞ。カフェインレス・コーヒーです」
ディアはコーヒーカップをオランの前に置いた。
オランはコーヒーを一口飲むと、視線を目の前のディアに向けた。
「アヤメと何を話していた?」
「昔話です。私と魔王サマとの出会いを知りたいとの事でしたので」
「なるほど、な」
ディアはオランの質問に対して、何も隠さずに答える。
いや、隠せないのだ。これが『契約』であり『忠誠』でもあるからだ。
ディアはオランと契約して服従する代わりに、『幸せ』を得るのだという。
その『幸せ』とは、オランとアヤメが結ばれて永遠に幸せでいる事。
それがディアの幸せだというが、オランはそれを認めていない。
ディアにも幸せになる権利がある。
その幸せを与えてやる権利は、オランにある。
『契約』の見返りとして、オランがディアに与える『幸せ』とは……
「娘ができたら、お前にくれてやってもいいぜ」
二杯目のコーヒーを口にしていたディアの手の動きが止まる。
一瞬、目だけをオランに向ける。
テーブルに肘を突き、いつもの笑いを浮かべるオランが、その瞳に映った。
当然ながら、それが冗談だと思ったディアは眉一つ動かさない。
「それは光栄です」
「クク…きっとアヤメにそっくりだぜ?」
『契約』により、自らの『感情』も『想い』も封印して生きる魔獣・ディア。
そんな彼が心の封印を解き、解放される日は——
本当の『幸せ』を手に入れる日は——
遠い未来——輪廻をも越えた先に、存在するのかもしれない。
オランが寝室に戻ると、アヤメがベッドの上に座って待っていた。
リョウはアヤメの向こう側で布団を被り、すでに寝ている。
アヤメは、オランと一緒でなくては眠れない。
そして習慣の『寝る前のキス』を待っているのだ。
オランがベッドに座ると、アヤメがニコニコしながら顏を寄せてくる。
完全にキス待ちだ。
それに応えるようにして、オランが顏を近付けてやる。
だが……鼻先が触れそうな距離になって止まり、オランが囁く。
「何か隠し事をしてねぇか?」
「えっ…!?」
アヤメは驚いて、咄嗟に顏を離してしまった。
隠し事と言えば、ディアが魔獣に戻ってしまった事。
アヤメが指輪の魔力を使って、ディアを人の姿に変えた事。
「な、なにも、してない、よ…!?」
『オランには内緒にする』とディアに言ったので、アヤメは必死だ。
だが、アヤメの反応は分かりやすい。
オランの顏は問い詰めるような厳しいものではなく、意地悪をする時の楽しそうな顏だ。
「服に獣の毛が付いてるぜ?」
「えっ!?どこ、どこに!?」
アヤメは、慌てて自分の服のあちこちを見て確認する。
魔獣になったディアに抱きついた時に、毛が付いてしまったと思ったのだ。
だが、よく考えてみれば、今は風呂に入って寝間着に着替えた後だ。
それに気付くと、アヤメは頬を膨らませた。
「……いじわる……」
「嘘をつくなら、キスはお預けだぜ」
「あ……私、なんか変なの…『つわり』かもぉ……キスして…」
「……嘘と演技が下手だな」
だが、それ以上に可愛い嘘だと思った。
アヤメに全てを話させる気なんてない。
アヤメが話さずとも、オランは全てを知っている。
「ごめんなさい……あのね……」
「あぁ、知ってるぜ。よくやった」
「褒めてくれるの?」
「あぁ。さすがはオレ様の嫁だ」
「……じゃ、ご褒美ちょうだい……」
膨れっ面のアヤメが、すっかり笑顔になって『おねだり』を始めた。
褒美は簡単にはやらない。それが調教の基本なのだが……
「オラン、はやく……ん、ん」
目を閉じて唇を突き出し、キスを待つアヤメを見てしまうと、そんな気も失せる。
魔獣を調教しきれないまま、今日も魔王は嫁に調教されてしまうのだ。