アヤメの宿した小さな命は、服の上からでも膨らみが分かるほどに成長した。
心配された懐妊の経過は、普通の人間と変わらずに順調であった。
キスを無性に欲する『キスつわり』……以外は。
いつもの朝。
アヤメはベッドの上に座って、自分のお腹に両手を添えている。
その後ろから、オランがアヤメを包むように抱きしめた。
「オラン。この子…今すごく、ご機嫌みたい」
「へえ、分かるのか」
アヤメは背中を包む温もりと、お腹の子の命を感じながら目を閉じた。
「うん、すごく元気なの。あ、また動いた」
この頃のアヤメは、すでに自身で胎動を感じ取れるようになってきた。
「早くお外に出たいんだよね。お母さんも頑張るからね」
そう優しく囁くアヤメは、すでに母性どころか聖母に重なって見えるほどの包容力を感じさせていた。
オランは背後から回した両手で、アヤメのお腹に触れた。
大事な物を優しく包むようにして触れるオランの手の温もりを、アヤメは心地よく感じた。
「……あぁ。確かにオレ様と同じ魔力を感じるな」
「この子の魔力?もう分かるの!?」
オランはアヤメのお腹の上から、まだ見ぬ我が子の魔力を感じ取っていた。
すでにオランが感じ取れるほどの魔力を胎児が宿している事に、アヤメは驚いた。
さすが魔界一の強大な魔力を持つ、魔王の子供だ。
だが……オランは笑ってはいなかった。
確かに魔力は感じる。それは間違いなく、自身と同じ魔力を宿している。
(だが……弱い、な……)
オランは心で呟いた。
オランが感じ取ったのは、悪魔の子にしては弱すぎる魔力の質であった。
まだ小さな命だから微弱なのではない。魔力そのものの性質が弱い。
それは、分かっていた事ではあった。
生まれてくる子は、純血の悪魔ではない。人間の血も受け継いでいるからだ。
悪魔としての完全な魔力を持たず、成長しても多くの魔法は使えないかもしれない。
それは魔界の王族としては、過酷な運命を背負って生きていく事を意味する。
だがオランは、それをアヤメに告げようとはしなかった。
「ねぇ、オラン……」
アヤメが突然、オランの方を向いて物欲しそうにしている。
続きを聞かなくても、この表情と仕草でアヤメが欲しているものが分かる。
「あぁ、いいぜ」
そうして、二人は自然と引き合うようにして唇を触れさせる。
ようやく離れたと思ったら、2度…3度と繰り返す。
朝の習慣のキスの回数を増やせば、『つわり』の予防になる事が分かったからだ。
その時、いつの間にか起きたリョウが、二人をじっと見つめている事に気付いた。
「あっ…リョウくん、おはよう」
充分な回数のキスを終えたアヤメは、頬を赤らめてオランから離れる。
……いつから見られていたのだろうか。油断しすぎであった。
しかしリョウはベッドの上を這って、アヤメではなくオランの方へと近付いた。
さらに、何故かオランの右手をぎゅっと握ったのだ。
オランは、あからさまに怪訝な顏をした。
「あぁ?何の真似だよ」
「ねえ、お兄ちゃん。ボクの魔力は?かんじる?」
リョウは、オランがアヤメのお腹を触って胎児の魔力を感じていた所を見ていたのだろう。
だが、オランはリョウに構う気がない。全く乗り気ではない。
「知らねえよ、興味ねぇ」
素っ気なくリョウの手を払いのけようとした所で、アヤメの一喝が飛んできた。
「オラン、めっ!!意地悪しないの!!」
そのアヤメらしからぬ気迫に、オランの動作が停止した。
やはり母性の成長も著しく、アヤメはリョウに関しては別人のように強気に出る。
仕方なく、オランはリョウの小さな手を握り返す。
意識を集中して、リョウの魔力を感じ取る。
(コイツ……は……!?)
オランは心で驚愕した。
幼く小さなリョウの中に潜む、膨大な魔力に。
おそらくリョウが扱えるのは、この秘めた魔力の内の一部分に過ぎない。
完璧ではないが、リョウは空間移動や回復魔法などの高度な魔法を使える。
天界の王の側近候補として将来を期待される、優秀な天使であるという事実も頷ける。
だが、ここまでの魔力となると、別の意味で将来を危惧してしまう。
「お兄ちゃん、どう?」
リョウが透き通った水色の瞳を輝かせて、オランを期待の目で見ている。
オランは、ハッとして意識を現実に戻した。
「あ、あぁ…大したモンだぜ」
「わーい!お兄ちゃんに、ほめられた!!」
「すごい!良かったね、リョウくん」
オランは、呆然とリョウの姿を見ていた。
生まれながらにして、完璧と言えるほどの魔力を持つ天使リョウ。
それは皮肉にも、これから生まれてくる我が子とは逆なのだ。
「おい、ガキ……リョウ」
オランが珍しく、リョウを名前で呼んだ。
その赤い悪魔の瞳には、幼い天使を案じる憂いを帯びていた。
「なぁに?オランお兄ちゃん」
リョウは嬉しそうにして、オランを名前で呼び返した。
だがオランは、何かを言いかけて……思い止まった。
……なぜ、オレ様がコイツの将来を心配する必要がある?
魔界と天界は協定を結んでおり、敵対はしていない。
だからと言って、積極的に交流をしている訳でもない。
リョウが強大な魔力を使いこなせるまでに成長しても、魔界の脅威になる事はない。
考え込んでいるオランの瞳に、自分を見つめる愛らしい少女の笑顔が映った。
「オラン、お腹空いたよ。朝ご飯食べに行こう」
何も知らずに、ただ幸せな未来を思い描いているアヤメは常に笑顔だ。
オランは、確かに誓ったのだ。
アヤメを『もっと幸せにしてやる』と。
この先に何があろうと、この笑顔を絶やす訳にはいかない。
「リョウくんも、はやく行こう」
「うん!!」
手を繋いで食堂に向かおうとするアヤメとリョウの姿を見ながら、オランは思った。
リョウも、我が子のように…過酷な運命を背負って生きる事になるだろうと。
完璧な魔力を『持たない』悪魔の子は、過酷な運命を背負う。
完璧な魔力を『持ち過ぎた』天使の子も、過酷な運命を背負う。
(本当に皮肉なモンだな……運命ってヤツは)
もし、リョウのように強大な魔力を持つ者がいたとして、自分ならばどうするか?
あの天界の王ならば、どうするか?
確実に『手中に収めようとする』だろう。
本人の意思とは無関係に。
(いや…オレ様は天王のヤツとは違う)
しかし、それは純粋無垢な少女を調教して手に入れた自分に重なる。
そして、『彼』の時とも重なる。
オランは、今ここにはいない…側近である魔獣の『彼』を思い浮かべた。