そして、オランとアヤメの『初デート』の日がやってきた。
意味合いとしては『日帰り新婚旅行』である。
その日は一般的な国民の休日ではなく、オランの仕事休みの日だ。
今の魔界の季節は『夏』。
行き先は、魔界の名所の1つである『海』。
出発の朝、オランはアヤメの手を引いて城の中庭に向かう。
「これから海に行くのよね?なんで中庭に行くの?」
「まぁ、付いて来い」
アヤメは、涼し気な淡いピンクの肩出しワンピース姿。
オランは、シンプルな黒の半袖シャツの軽装。
海へと向かう二人の、夏の装いである。
水着などの必要な荷物は先に現地に送ってあるので、二人は手ぶらだ。
今日は海岸周辺も、休憩などに利用する『海の家』も、全て貸し切りである。
警備も万全で、『海の家』には何人もの護衛を先に待機させてある。
……後は二人が現地に向かうだけだ。
「ねえ、どうやって海まで行くの?」
「中庭に乗り物を待たせてある」
乗り物…馬車かな?とアヤメは想像しながら、オランと共に歩き続ける。
中庭に出ると、
「えっ…魔物!?あれって…!?」
5メートルはあろう巨大な犬。その背にはコウモリのような黒い羽根。
アヤメは、それが何であるかすぐに気付いて、その魔物に駆け寄る。
そして恐れる事なく、獣の毛で覆われた顏に優しく手で触れる。
「ディアさん…よね?どうして魔獣の姿なの?」
後からオランが歩いてきた。
「コイツに乗って行くんだよ」
「えぇ!?乗り物ってディアさんの事なの!?」
ディアは、本来は見境なく人を食らうような凶暴な魔獣だ。
それ故に、オランがディアの魔獣の姿を封印して、普段は人の姿にしている。
そして、ディアを魔獣の姿に戻す事ができるのも、オランのみだ。
ディアはオランとアヤメの二人と契約を交わしている為、魔獣の姿であっても絶対服従。
二人と一緒であれば、人の姿の時と同様に穏やかで忠実なのだ。
だが、アヤメが驚いたのは、それだけではなかった。
「私てっきり、魔法で行くのかなぁ…って思ってたから…」
「それじゃ面白くねえだろ?」
空間移動の魔法を使えば、確かに一瞬で目的地に行く事ができる。
だが二人同時での『空間移動』は高度な魔法であり、オランでも1日に数回しか使えない。
有事に備えて魔力を温存させる為に、普段は極力、この魔法は使わない。
何度でも使えるなら、自制心が崩壊した時に、アヤメごと寝室に移動するだろう。
目的地までの道のりを一緒に過ごす時間。それも旅行の楽しみの1つなのだ。
「じゃあ、ディアさんも一緒に海に行くのね。よろしくね、ディアさん」
アヤメは嬉しそうにして、ディアの顏に頬ずりをする。
オランにしてみれば、今回はアヤメとの二人旅。
ディアを人数としてカウントしたくないのが本音だが、アヤメの笑顔で毒気を抜かれる。
まぁ、頬ずりくらいは許してやる。
……だが、帰るまで絶対に人の姿には戻してやらねぇ、と心に決めた。
「ホラ、さっさと行くぜ」
オランは慣れた様子で、軽くヒョイっとディアの背に飛び乗った。
そして、アヤメに向かって手を差し出す。
少しドキドキしながら、アヤメは手を伸ばしてオランの手を握る。
オランがその手を引き上げ、アヤメを体ごと引き上げて抱きとめる。
「空を飛ぶのよね?緊張する…」
「しっかり抱いてやるから、落ちねえよ」
オランは自分の前にアヤメを乗せて、後ろからしっかり抱いて固定する。
後ろに乗せるよりは安定するし、その方がアヤメも空からの景色を見やすいからだ。
「行け、ディア!」
晴れ渡る清々しい朝の空気に、オランの凛とした声が響く。
その声を合図にディアは黒の翼を大きく数回はためかせ、ゆっくりと浮上した。
ふわっとした浮遊感と共に、段々と遠ざかる地面。
アヤメはディアの背中に両手を置いて、眼下に広がる風景を見る。
王宮、城下町が小さく見えたと思ったら、あっという間に通り過ぎた。
「わぁ、すごい…!!」
アヤメは、まるで天上から全てを見下ろしているような、不思議な感覚になった。
広大な土地に街。森や山や川など、人間界とは変わらない大自然。
違うのは『色彩』で、たまに白い葉を付けた真っ白な木の森を見たかと思えば、逆に真っ黒な森もある。
黄色の水が流れる川があれば、緑の水の川もある。
黒や闇の暗いイメージが強い魔界だが、その実態は色鮮やかで、絵画の世界に入り込んだようだ。
「ねぇ、オラン!変な色の森ー!」
「そうか?珍しくねぇが。今度連れて行ってやるよ」
「うん。色々行きたい、楽しみ!」
夏の強い日差しの中ではあるが、風を切りながらの飛行は涼しく快適であった。
だが、それだけではない事にアヤメは気付いた。
ディアの体に置いた両手が、不思議なほど熱を持っていない。むしろ冷たいのだ。
「ディアさんの体、ひんやりしてる…?」
「あぁ、夏毛だからな。魔獣は季節で毛の温度を変えて体温を調節してんだよ」
「へぇ〜ディアさん、すごい!」
その言葉が聞こえたのか、ディアは尻尾をパタパタと振って嬉しそうに反応していた。
「でも、背中はすっごく温かい…」
今、アヤメは背中からオランに抱かれている体勢だからだ。
アヤメは全身の力を抜いて、背後のオランに体を預けた。
(やべえ……熱くなってきた……)
それは夏の日差しのせいではない。
まさか、ディアの背中の上で変な気など……とも言い切れなくなってきた。
果たして、海に着くまでにオランの自制心は保てるだろうか?
のぼせてしまいそうな熱と共に、
夏の空を飛行すること、約30分。
目的地の海に辿り着いた。
波打ち際の広い砂浜にディアは着陸した。
他に人の姿は見当たらない。今日は魔王の権限で、この海辺は貸し切りなのだ。
オランが先にディアから降りて、アヤメに片手を伸ばす。
アヤメはオランの手を握り、そのまま引っ張られながらオランに抱きつくようにして降りた。
行きとは逆のパターンだ。
「ご苦労だったな、ディア」
オランは、ディアの体を片手でポンっと軽く叩いた。
「ありがとう、ディアさん」
そしてアヤメも、労うようにしてディアの顏に頬ずりをする。
……まぁ、頬ずりくらい許してやる……
オランは横目でその様子を面白くなさそうにして見ていた。
これは、行きと同じパターンだ。
ディアは嬉しそうに鼻を鳴らして尻尾を振ると、二人から離れて砂浜をゆっくりと歩き始めた。
岩場の影の涼しい場所に移動して、そこで丸くなって休憩するのだ。
「これが海…!!すごい、魔界の海って青いのね…!」
アヤメは海を正面にして感動の声を上げながら、果てしなく遠い海岸線を眺めた。
そんなアヤメの隣にオランが並ぶ。
「確か人間界の海も青いぜ」
「そうなの?」
海を見た事がないアヤメにとっては、海が何色であっても感動的であった。
「行くぜ、アヤメ」
「うん!」
アヤメがサンダルを脱いで海に入ろうとしたので、オランは片腕を掴んで制止した。
「そっちじゃねえだろ。逆だ、逆」
オランの手に引っ張られて、アヤメは海とは逆の方を向いた。
その先に建つ大きな木造の建物は、貸し切りの『海の家』だ。
「海に入るのは着替えてからだ。水着があるだろ?」
「あっ、そっか……」
ペロっと舌を出して笑うアヤメを連れて、オランは『海の家』に向かう。
そうして、数十分後。
先に水着に着替え終わったオランは、砂浜でアヤメを待っていた。
オランの水着は、シンプルに黒のハーフパンツだ。
しばらく砂浜の砂を足でいじって遊んでいると、着替え終わったアヤメがやってきた。
「お待たせ、オラン」
アヤメの水着は、例の淡い桃色のビキニだ。
水着で覆いきれない程のアヤメの熟した膨らみが、オランの視覚を刺激する。
何度見てもアヤメの水着姿は、オランの自制心に対する破壊力が凄まじい。
アヤメの方は、初めてオランの水着を見た。
「オラン……その水着……」
アヤメはオランの水着を凝視したまま呟いた。
なんだ?アヤメもオレ様の水着姿に見惚れたのか?肉体美に心を奪われたのか?
……と、オランが自惚れた勘違いをしたのは一瞬の事。
アヤメが、急に不満そうに仁王立ちをして頬を膨らませたのだ。
「お揃いの色じゃない……」
「……ハァ?」
「一緒の色の水着がいいのに…揃えてくれなかったの…?」
何が不満なのかと思えば、水着の色だったのだ。
アヤメの水着は、淡いピンクのビキニ。
オランの水着は、黒のハーフパンツ。
着るものにこだわりのないオランは、自分の水着は適当に用意していた。
デザインはおろか、色なんて考えもしなかった。
「……オラン、今すぐ抱いて」
そう言って、アヤメはオランの目の前に来て両手を伸ばす。
アヤメの突然の要求に、その言葉の意味と状況をオランは理解できない。
抱くのか?ここで押し倒すのか、砂浜で?…そんな妄想しか浮かばない。
アヤメのビキニが、すぐ目の前に迫る。
……まるで桃色の果実のように甘く実った、完熟のそれが。
「……どういうつもりだ?」
「ドレスの時みたいに、色を変えて?オラン色に…」
アヤメの言う『オラン色』とは、黒色の事である。
オランが抱きしめて魔力を注げば、この水着も色が変わるとアヤメは思っている。
以前、パーティー用のドレスを漆黒に染めた時と同じように。
そんなに都合よく、この水着も色が変わる特殊繊維で作られているとは……
(………作られて……いるな)
オランがアヤメの水着をよく見て確認すると、確かに魔力で色が変わる水着だ。
もしやと思って自分の海水パンツも見て確認すると、同様の仕様だった。
これは一体、誰が気を利かしたのか?やっぱりディアか!?
……と思って、岩場で休むディア(魔獣)の方を見るが、知らん顔をしている。
「ねぇ、早くオラン色に染めて?私の水着、アヤメ色のままよ」
「アヤメ色?なんだそりゃ」
「オランが染める前の色だから、アヤメ色」
「…………」
アヤメ色とは、淡いピンク色。桃色という事になる。
アヤメの『禁断のドレス』も、この『禁断の水着』も、桃色なのだ。
その、あまりにも可愛らしい発想に、オランは僅かに残っていた理性をも失いかける。
(やべえ……今すぐ染め尽くしてぇ……)
もはや水着だけでなく、アヤメの身も心も自分色に染め尽くしてやりたい。
『水着をお揃いの色にしたい』というアヤメの願いを叶える為の選択肢は2つ。
オランの水着を桃色に染めるか、アヤメの水着を黒色に染めるか。
オランは迷う事なく後者を選んだ。
「オラン、早く、そーめーてー!」
オランが行動を起こす前に、不意打ちとばかりにアヤメが抱きついてきた。
甘えるようにして、オランの胸板にビキニを押し付ける。
アヤメとしては、じゃれているだけなのだろう。
だが、上半身は何も纏っていないオランの胸元に、その感触は直に伝わる。
オランはアヤメの背中に片手を添え、もう片手をアヤメのお尻に添えた。
下心ではない。水着に魔力を注ぐ為だ。
「あっ……オラン……温かい……」
水着に魔力を注いだ事による熱で、アヤメが色っぽい声を漏らした。
これはマズい。はやく海水で体を冷やさなければ……
色々な意味で熱くなってしまったオランであった。
こうして無事、二人はお揃いの色の水着になった。
オラン色……いや、黒色の水着に。
オランとアヤメは、手を繋いで波打ち際を歩く。
足に波が打ち寄せると、アヤメは楽しそうに反応する。
「きゃっ!冷たい〜!気持ちいい!」
今の魔界の季節は、真夏。
強い日差しの中で触れる海の水は心地良い冷たさだった。
「海に入るぞ、アヤメ」
「う、うん」
海に入るのが初めてなアヤメは、少し緊張しながら頷いた。
手を繋いだオランに先導されながら、アヤメは腰まで海水に浸かった。
アヤメが下を向いて足元を見ると、自分の足と海底の土が見えた。
「綺麗な水……地面もデコボコしてて不思議な感じ…」
そう言った次の瞬間、アヤメは大きな貝殻を踏んで足を滑らせてしまった。
「きゃっ…!」
ただでさえ水中は歩きにくい。バランスを保てずに、オランの胸に倒れ込んでしまった。
オランはアヤメの体を抱き抱えて『姫だっこ』の形を取った。
「このまま、もっと深い所まで行くか?」
「ええ?ここでいいよ。私、泳げないから…」
アヤメはオランの唇に触れるだけの軽いキスをしてから、その腕から離れた。
それから、二人は海の中を泳ぎ回ったりして遊んでいた。
アヤメは泳げないので、手足をバタバタしているだけだ。一見、溺れているようにも見える。
オランがアヤメの両手を握って補助してやると、アヤメは『泳げている』気分になる。
その後は砂浜を歩いて、海辺の植物や生き物を探したりして楽しんだ。
砂浜で二人がしゃがみこんで貝殻を拾っていた時だった。
アヤメが顏を火照らして、額に手の甲を当てた。
「なんか、すごく暑い……」
時刻は昼。太陽の日差しが真上から照りつける、一番暑い時間だ。
時間を忘れて遊び続けていた二人は、休憩を取る事すら忘れていた。
「そろそろ昼飯にするか」
オランが立ち上がると、続いてアヤメも立ち上がろうとした。
だが、アヤメは立ち上がる事が出来ずに、ふらついてオランに向かって倒れ込んだ。
「アヤメ?どうした!?」
オランはアヤメの体を支えるが、足に力が入っていないのかフラフラしている。
アヤメの顏は赤く、呼吸も荒い。
「う、ん……なんか暑くて……」
オランは、その様子を見てハッと気付いた。
普段は城の中で過ごす事の多いアヤメが、夏の強い日差しに長時間照らされたのだ。
体が温度に順応できずに、日射病にかかった可能性がある。
そんな事に気付かずに、遊びに夢中になってしまった事を悔いても解決しない。
「ディアッ!!」
オランが遠くの岩場に向かって叫ぶ。
すると、そこで丸くなっていた魔獣の姿のディアが反応して起き上がる。
羽根を広げて飛び立つと、一瞬にしてオランの前へと着地した。
オランはアヤメを抱いたまま、ディアに命じる。
「空間移動で帰る。お前は後から戻ってこい」
一刻も早くアヤメの処置が必要だと判断したオランは、空間移動の魔法を使う事を告げた。
二人一緒での空間移動は、オランであっても1日に数回しか使えない。
ディアは心配そうにしながら二人を見送った。
そうして城に戻ったオランは、涼しい部屋のベッドでアヤメを休ませた。
二人とも水着のままだったので、水着の上から簡単に羽織れる服をメイドに用意させた。
そして、すぐに医者の手配をした。
医者に診てもらった所、アヤメの症状は軽く、大事には至らなかった。
オランは安堵したが、アヤメへの配慮が足らずに新婚旅行を中断させてしまった事は悔いている。
後で、いくらでも埋め合わせはしてやる……
そう思いながら、オランはアヤメの額にキスを落とした。
アヤメが、弱々しくも優しい瞳で微笑んだ。
だが、その時……アヤメを診ていた医者が、思いもよらない事実を発見した。
医者が、その事をオランだけに告げた。
アヤメの中に、もう1つの命が宿っているという事実を。
アヤメが懐妊していたのだ。