そうして数日後、『魔王生誕パーティー』は開かれた。
会場は王宮内の大広間。
主に魔界の貴族や要人が招待客として参加する。
何千年も生きる魔王が毎年行う恒例行事であり、過去何回開かれたかは定かではない。
細かい事は気にせず、交流を目的とした食事会であり、気楽なイベント感覚なのだ。
「うわぁ〜リョウくん、可愛い!!」
パーティー前の控え室で、礼服に着替えたリョウを見たアヤメが感動の声を上げた。
リョウが着ているのはフォーマルなベストにシャツ、首元には蝶ネクタイ。
魔界の礼服なので全体的に黒を基調としている。
天使のイメージとは正反対の色だが、それが逆にリョウの白い肌、水色の髪と瞳の透明感を際立たせている。
「ありがとう〜お姉ちゃんもキレイ!」
「わぁ、ありがとう、リョウくん」
そう言うアヤメは、例の『漆黒に染めた』ドレスだ。
……後ろ前ではない。正しく着ている。
「アヤメ、来い」
楽しそうに褒め合ってるのが面白くないオランが、意味もなくアヤメを呼び寄せた。
「うん」
アヤメはもちろん、呼ばれて嬉しそうにオランの側に歩み寄る。
「オラン、どう?このドレス、オラン色なのよ」
そう言ってアヤメは、オランの前でくるっと一回転してドレスをふわっとさせた。
どうと言われても、先日見た通りのドレス姿なので、新たな驚きはない。
何度でも綺麗だと言われたい、そんな乙女心なのだろう。
だからオランは、何度でも同じ答えを返してやる。
オランも、アヤメの期待を決して裏切らないのだ。
「あぁ、今日も綺麗だぜ」
「ふふっ、嬉しい」
だが、先ほどのアヤメの言葉に気になるものがあった。
アヤメの言う『オラン色』とは一体?
「さっき、何色だって言った?」
「オランが染めてくれた色だから、オラン色」
「…………」
「なんだか、オランに包まれているみたい……」
そう言って、アヤメは目を閉じて自分自身をぎゅっと抱きしめた。
純粋に思った事を口にする、これが魔王をも魅了するアヤメの可愛さだった。
今後、黒という色はアヤメの中で『オラン色』になりそうだ。
(……やべえ……今すぐ包みてぇ………)
要は、『今すぐにでも肌で抱きたい』。
もはやドレスだけではなく、アヤメの身も心も自分色に染め尽くしてやりたい。
……どうも、ドレス姿のアヤメには心を乱されてしまうオランであった。
これで、もし『後ろ前』の姿であったら、自制心はとっくに崩壊している。
そんなオランの下心も知らず、アヤメは真直ぐにオランを見つめている。
「オランはいつもの服なの?」
「これが正装なんだよ」
そう言うオランの服は、いつもの黒衣に黒いマントの、黒ずくめの服だ。
普段から礼服を着ているようなものなので、服を新調する必要はない。
面倒くさがりなオランは、自身の服に感心はなかった。
その時、控え室の扉が開いて、ディアが入ってきた。
「ご準備はよろしいですか?そろそろお時間です」
そう言うディアの姿を、アヤメが無言でじっと見つめている。
「え?な、なんでしょうか?」
いつも冷静なディアだが、アヤメの熱い視線を受けて珍しく動揺を見せる。
「ディアさんも、いつもの服なのね」
ディアの服は、いつもと同じくスーツと軍服を合わせたようなグレーの服。
服に注目されているのだと気付いて、ディアは冷静さを取り戻した。
「これが正装ですので」
澄ました顏で、オランと同じ回答をするディアであった。
パーティーの開始は、夜空に月が浮かぶ時刻。まさに夜会だ。
パーティー会場は、城の一角にある大広間。
オラン達がそこに入った途端に、待ち構えていた女性達が群がるようにして押し寄せてきた。
「魔王様、お久しぶりです。ご機嫌麗しゅう」
「あぁ、久しぶりだな」
「魔王様、わたくしの事、覚えていらっしゃいますか?」
「あぁ、覚えてるぜ」
「魔王様、ダンスのお時間では、是非お相手を…」
「あぁ、後でな」
口々に魔王のご機嫌取りと自己アピールを始めた。
全ての女性を把握しているらしいオランは、手慣れた様子で短く返事を返していく。
どの女性も魔界の貴族だろう。煌びやかな黒のドレスを纏っている。
彼女達は、オランのすぐ近くに居たアヤメの姿など視界に入っていない。
(えっ……どうしよう……)
圧倒されたアヤメは、後退るようにしてオランから少し離れてしまった。
女性に取り囲まれる形になったオランを遠目で見て、自分だけが取り残されてしまったようだ。
(仕方……ないよね)
オランは魔王だし大人だ。社交辞令だってあるし、女性との関わりだって……
(王妃になるんだから、このくらい…しっかりしなきゃ…)
自分も、もっと大人にならなくては。
モヤモヤする心を抑えて、さらにオランから離れて少し先にあるテーブルに向かう。
この会場にはテーブルがいくつも置かれていて、立食形式なのだ。
やはり気になるので、オランの姿が見える位置のテーブルの前に立った。
すると、そのテーブルの向かい側に立っていた女性がアヤメに話しかけてきた。
「あなた、どちらの国のお姫様?」
「えっ!?」
アヤメは驚いて、大げさすぎる程の声で反応してしまった。
目の前の女性は見た所、褐色肌からして悪魔の貴族だと思われる。
長い銀髪に大胆な胸元。長身でグラマラスな大人の女性だ。
「……日本です…姫じゃないですけど……」
アヤメは正直に答えてしまった。
「聞いた事ない国ね。こういうパーティーは初めて?」
「…あ、はい」
「食事はビュッフェ形式なのよ。あっちのテーブルから自分で持ってくるの」
笑顔で話しかけてくる女性に悪意はなく善意なのだろう。
挙動不審な異種族の少女を気にかけてくれたのだ。
だがアヤメは食事よりも、オランの方ばかりを気にしてチラチラ見ている。
まだ、次から次へとオランに寄って行く女性達…終わりが見えない。
「……もしかして、あなたも魔王様お目当てかしら?」
「え!?」
アヤメは無意識にオランの方ばかりを見ていたので、驚いて急に我に返った。
「魔王様って男らしくて逞しくて女性に優しいじゃない?」
「え、はい……そうかも……」
「それでいて一度も妃を取らないんだから、誰もが惚れて狙う訳よねぇ」
「誰もが?」
アヤメには衝撃だった。
オランは、女性の誰もが惚れる……『モテる』という事を知ったのだ。
一緒に暮らしていて、毎日一緒に寝て、起きて……口付けを交わして。
オランと過ごしていた時間の中には、他の女性の存在など考えられなかった。
確かにオランが魅力的なのは、アヤメが一番よく知っている。
筋肉質で逞しい褐色の体……
宝石のように赤く美しい瞳……
紫に銀を足したような輝きの髪……
そして、甘く優しい唇……
オランの事を考えていたら、アヤメの顏は急に熱を帯びて火照ってしまった。
(私も…気付いたらオランの事……)
いつからオランの事を好きになったのだろう?
今までの事を思い返してみて、時期的な境界線が思い浮かばない。
生贄として魔界に連れてこられて、毎日キスするのが習慣だと教わって…。
オランの手にかかれば、女性を落とす事など容易いのだろう。
だがオランは女性に寄られる事はあっても、あえて自ら近付こうとはしない。
アヤメに近付いたのも、最初は『契約者』として利用する為であった。
アヤメを魔界に連れ帰ったのも、何かの気まぐれでしかなかった。
それが、オランの一目惚れであったのかは分からない。
魔王を本気にさせた、初めての女。
そして、本気で落としにかかったのだ。
……恋すら知らない、純粋無垢な『アヤメ』という少女を。
そして、アヤメは完璧に落とされたのだ。
オランが『モテる』のは、魔王という地位だけではないという確かな証拠だった。
「あら、ごめんなさい。すでにお相手がいるのね」
女性のその言葉に、アヤメはハッとして再び意識を現実に引き戻した。
何の事か分からずに女性の視線の先に目を向けると、それはアヤメの左手だった。
薬指の婚約指輪だ。
「あっ…!」
アヤメは反射的に指輪を隠すようにして右手を乗せた。
さすがに魔王の婚約者だとは気付かれないが、照れ隠しだと思われたのだろう。
女性はニコニコしてアヤメを見ている。
だが…アヤメは自分の無意識の行動に戸惑った。
なぜ指輪を隠す必要があるのか?
なぜオランの婚約者だと堂々と言えないのか?
この指輪をくれて、永遠の愛を誓ってくれたオランの事は信じている。
間違いなく愛している。
なのに……これ以上、何を望んで、何を不安に思うのだろうか。
僅かに視線を動かして、少し遠くにいるオランに目を向ける。
人に埋もれて、オランの姿は見えない。
魔界には魅力的な女性が沢山いる。例えば、目の前の……。
悪魔の特徴なのだろうか、どの女性も長身でスタイルが良い。
人間のアヤメは長身と言える程でもなく、髪と瞳は栗色で、金や銀の髪よりは見劣ってしまう。
……比べても意味はない。自分には他にないオランの愛があるのだから。
でも………
(なんでオランは、私を選んでくれたんだろう…?)
初めて目にした煌びやかな会場、煌びやかな女性。
そして誰もが認めるオランの魅力に気付いてしまった時。
アヤメの中で生じてしまった疑問が、年頃の乙女心の不安を加速させていった。
アヤメは突然、思い立ったようにテーブルから離れた。
孤独から逃れるように、誰かを求めて会場を歩き回る。
オランの方は見ない。まだ知らない女性達に囲まれているのだろうから。
ディアを見かけるが、客人の案内や対応で忙しく動いている。
その現実からも逃れようと、アヤメは無意識にリョウを探した。
広い会場内で、オランの居る場所の他に、もう1つの人だかりを見付けた。
アヤメは足を止めて、遠巻きにそれを見た。
そこには、悪魔の女性達に囲まれたリョウの姿があった。
見た目3〜4歳の小さなリョウは、長身の女性達に囲まれて埋もれてしまいそうだ。
「可愛い〜!!ボク、お名前は?」
「ボク、リョウだよ。天使なの」
「天使のボクが、なんでここにいるの〜?」
「わかんな〜い!」
「羽根、フワフワで可愛い〜!!」
「えへへ、ありがとう、お姉さんもキレイ〜!」
「きゃ〜カワイイ!!ねえ、お姉さんと一緒にジュース飲もう?」
天使が魔界に居るというだけでも珍しいのに、幼い子供だ。
その愛嬌と物珍しさから、女性達が次々と寄っては可愛がっている。
アヤメは立ち尽くしたまま、唇をギュッと噛んだ。
……どうしたんだろう私、泣きそう……
アヤメはその場からも離れて、料理が置かれたテーブルから飲み物のグラスを取った。
それを一気に飲み干すが、味など分からない。
高級な料理なのだろうが、何を取って食べても美味しいとも思わない。
一人だから、だろうか……。
一刻も早くこの空気から逃れたい、そんな衝動が自然と足を動かした。
アヤメは人目を盗みながら、中庭へと繋がる扉をそっと開いて外へ出た。
熱気に溢れた会場内とは打って変わって、外のひんやりとした空気は肌を痛いほどに刺激した。
その温度差を実感したアヤメは溜め息をついた。
控えめな照明で照らされた中庭は薄暗い。
空を見上げると、少し欠けた満月に満たない月が輝いていた。
漆黒の空で存在感を放つ月の輝きと、周りで控えめに瞬く星々。
それはまさに、オランと…その他の女性達のようだ。
賑やかなパーティーの最中、中庭に出ている人など他に誰もいない。
厚い扉で隔たれた中庭は、とても静かだ。
虫の音も聞こえず、風も吹いていない。
本当に今、一人なんだ……
見上げていた顏を伏せると、堪えていた涙がポロポロと落ちて足元の土を湿らす。
あの時、オランから離れなければ良かったのに。
私はオランの妃になるのだと、堂々と言えれば良かったのに。
「アヤメ、なんで泣いてんだよ?」
静寂の中に、誰かの声が響いた。
少し高めの少年の声。
アヤメが驚いて、声のする方……前方に立つ木を見上げた。
少し低めの木の太い枝の上に立っていたのは、10歳ほどの少年。
欠けた大きな月を背後に、逆光で銀髪を輝かせながらアヤメを見下ろしている。
月光の明るさとは対照的な漆黒のコートを身に纏っている。
その印象的な姿を、アヤメは忘れるはずもない。
「グリアくん…!?」
その少年は、アヤメが人間界の森で出会った、死神の少年だ。
今は鎌を持っていないので、人から恐れられる死神らしさは感じない。
「よっと」
グリアは木の上から飛び降りると、トン、と軽い音を立てて地面へと着地した。
アヤメは驚いて涙も止まってしまった。急いでグリアの方へと駆け寄る。
「グリアくん、ここ魔界のお城だけど、大丈夫…!?」
アヤメがグリアに最初にかけた言葉は、彼の身を案ずるものだった。
ここは魔界の王宮内だ。今日はパーティーで、魔界の貴族も多く集まっている。
警備も強化されているはずで、見付かれば確実に侵入者として排除される。
そもそも、どうやって警備の目を擦り抜けて来たのか…?
そんな心配も疑問も、グリアは全く気にする素振りがない。
「大丈夫だって。オレ様は死神だぜ」
得意げに言う、その言葉と口調。
『オレ様は魔界一の悪魔だぜ』と、いつも言っているオランに似ていて、アヤメは思わず笑ってしまった。
死神とは人間の魂を狩って喰らう種族であり、悪魔は標的にされない。
だからこそ、悪魔は死神に対する警戒が弱い。
しかも、まだ子供であるグリアの魔力は弱く、気配も感知されにくい。
グリア自身も、まるで近所から遊びに来たような警戒心の無さだ。
年相応の子供らしい無邪気な笑顔を向ける。
「アヤメの気配を追ってきたら、ここに着いたんだ」
「私の気配?分かるの?」
「生命力だよ。『口移し』しただろ?」
「あっ…!!」
アヤメは、あの時の事を思い出して、思わず口を片手で覆った。
グリアに生命力を与える時に、口移し…キスされてしまった事を。
その時にグリアが吸収したアヤメの生命力と同じ気配を辿って、グリアはここに辿り着いたのだと言う。
……至難の業にも思えるが、なんとも器用だ。
「それにしても驚いたぜ。アヤメは姫だったのか?」
「……え?」
唐突なグリアの質問の意味が分からなくて、アヤメは聞き返した。
「だって城のパーティーに来たんだろ?」
王宮のパーティーには、貴族しか招待されないからだ。
グリアに言われて、アヤメは自分がドレス姿である事を思い出した。
グリアは、アヤメが魔王の婚約者であるという事実は知らない。
だがアヤメは、あえてそれを教えようとは思わなかった。
「私は姫じゃないよ。偉くないし、綺麗でもないし…」
先ほどまでの孤独を思い出して卑屈になったアヤメは、再び瞳を潤ませた。
「こんなんじゃ私、お嫁さんになんて……」
「アーヤーメ!」
グリアが、ズイっと顔面を近付けてきた。
間近で見るグリアの瞳は、紫水晶のような色の深みと透明感が美しくて……
オランの深紅の瞳とは、また違った魅惑の瞳だ。
「なら、オレ様とケッコンするか?」
「ええっ!?」
アヤメは結婚という言葉に即座に反応して声を上げた。まるで拒絶反応だ。
「だって、アヤメを泣かせるヤツなんかより……」
グリアのその言葉の続きを遮るかのように、アヤメが声を上げた。
「それはダメ!もう決めてるの!大好きで結婚するって約束して、それで私、もうすぐお嫁さんになるんだから!!」
そこまで一気に言い終えて、息継ぎを忘れていたアヤメは息を切らした。
グリアはアヤメの勢いに目を丸くしたが、すぐに笑い出した。
「それは前に聞いた。だから、今すぐじゃねえ」
「……え?」
「オレが大人になったら、来世のアヤメを守ってやる」
「えぇ?また来世の話なの?」
この死神は、アヤメの来世の姿…アヤメの『生まれ変わり』と結ばれる気らしい。
死神は悪魔と同様に寿命が長い。現実的には可能だ。
グリアは自分がまだ子供だと認めた上で、婚約者のいる現世のアヤメには見切りを付けている。
潔く、前向きで、執念深い…とでも言うのだろうか。
だが、アヤメの心は決まっていた。
来世でも、何度生まれ変わっても、永遠にオランと結ばれたいと。
この魂は、永遠にオランと共に在りたいと。
そう思ったら急にオランが恋しくなって、今すぐに会いに行きたい衝動に駆られた。
いつの間にか、寂しさよりも愛しさが勝っていた。
「グリアくん、来てくれてありがとう。元気出てきたよ」
「なら、何度でも会いに来てやるよ」
向かい合う二人が同時に笑顔を交わした。
その頃のオランは女性に限らず、魔界の貴族や要人の対応に追われていた。
立場上、こういった交流は社交辞令とは言え疎かにできない。
オランは、アヤメが側から離れてしまった事には気付いている。
ほんの一瞬、少し離れた場所に立つディアに視線を向けた。
一瞬の目配せだが、ディアはオランからの合図を確かに受け取った。
承知の合図として、ディアが僅かに頭を下げた。
ディアはすぐにその場から離れて、アヤメを探しに会場内を歩き回る。
魔獣であるディアが人並み以上の視覚で隅々まで見て回るが、アヤメの姿はない。
会場内にはいないと確信すると、次に思い付いたのは中庭だった。
今夜は満月ではないので、ディアは迷わずに中庭へと通じる扉を開けた。
……満月の夜だと、ディアは魔獣の姿に戻ってしまう危険性があるからだ。
そして、中庭に出てすぐにディアが見た者。
魔獣の鋭い眼はアヤメを越えて、その奥に立つ死神の姿を真っ先に捉えた。
それは、敵を認識する為の本能だ。
ディアは咄嗟の判断で、懐から小型の銃を取り出した。
「アヤメ様っ!!離れて下さい!!」
突然の叫び声に驚いたアヤメが振り返ると、ディアが拳銃を構えている。
「ディアさん!?」
ちがう、グリアくんは敵じゃない……
そう言いたいアヤメだったが、その気迫にたじろいで声が出ない。
アヤメがグリアから離れないと、ディアは撃つ事ができない。
それを知ってか、グリアはわざとアヤメの前に歩み出た。
ディアと正面から向かい合う形になる。
「へぇ……魔界の犬が、オレ様に勝てるか?」
ディアが向ける銃口を恐れもせずに、グリアは皮肉をこめた笑みの口元を見せて返した。
グリアは一瞬で、人の姿をしているディアを犬の魔獣だと見抜いた。
少年とは言え、ただの死神ではなさそうだ。
だが死神と言えば、人間の魂を狩る者。
魔界で人間と言えば、アヤメしかいない。
……アヤメが狙われたと思われて当然だ。
死神の少年と、魔獣の青年が対峙する。
「死神…!主に危害を及ぼす者として、排除する!!」
その言葉と同時に引き金を引き、ディアが銃弾を放った。
……いや、それは銃弾ではない。
発砲音もなく、鋭く真直ぐに放たれた青白い光線。
それは、ディアの『魔力』そのもの。
ディアは弾丸の代わりに、自らの魔力を銃に込めて放つのだ。
本来の魔獣の姿を封印されているディアだが、その魔力は岩石を貫くほどの威力を持つ。
この時代の日本では鉄砲が伝来したばかりで、アヤメにとっては驚くべき光景だった。
「……甘いぜっ!!」
グリアは一瞬にして『死神の鎌』を手元に出現させると、横に斬るようにして振って光線を弾き返した。
その拍子に、今度は高く飛び上がった。
子供が持つにはアンバランスな大きな鎌を持ちながら、軽い身のこなし。
グリアの姿が背後の大きな月と重なると、銀色の髪と鎌の刃先が煌めく。
狙ってこい…と、まるでディアを挑発するようだ。
ディアは、グリアが地面に着地する前に仕留めるべく、再び照準を合わせる。
だが引き金を引く前に、アヤメがディアの前に立ちはだかった。
まるで、グリアを庇うような形で。
「ディアさん、待って!!あの子を撃たないで!!」
「アヤメ様…!?」
アヤメの制止に、ディアは戸惑った。
事情や状況を把握するよりも、アヤメを守る事を最優先として動いたのだ。
ディアとしても『急所』は外して狙っている。
だが、主人であるアヤメの『お願い』を拒む事は出来ない。
その隙に、アヤメは体を反対側に向けてグリアの方へと駆け寄った。
地面に着地したグリアは、アヤメの思惑を読み取った。
「ほら、アヤメ!!」
アヤメに向けて、右手を真直ぐに伸ばした。
「うん、グリアくん…!!」
アヤメも、グリアに向けて左手を真直ぐ伸ばした。
グリアの手が、アヤメの手に重ねられた瞬間。
アヤメの左手の薬指の指輪が、赤い光を放った。
同時に、グリアも同色の光に包まれた。
『空間移動』の魔法が発動したのだ。
グリアの魔力と、アヤメの指輪の魔力が合わさる事で使える魔法。
……アヤメが人間界の森でグリアと出会った、あの日。
アヤメが魔界に帰る方法として使った、あの時と同じ魔法であった。
「また会いに行くからな、アヤメ!!」
グリアは、やはり近所に遊びに行くような軽い口調で、そう告げた。
また会えるのが、いつなのか…どういう形なのか。そこまでは分からない。
だからアヤメは、また…こう返すしかなかった。
「またね、グリアくん」
次の瞬間、光に包まれたグリアの姿は一瞬にして、その場から消えた。
グリアの行き先が、どこかは分からない。
『空間移動』の魔法は、グリアが望んだ場所が行き先となる。
ようやく緊張感から解き放たれたアヤメは、力を抜いてフゥっと息を吐いた。
振り返ると、目の前には何とも言い難い表情のディアが立ち尽くしていた。
再び、この場に緊張感が走る。
アヤメはディアと向かい合うと、気まずそうに苦笑いした。
笑ってごまかそうとした訳ではない。困ると無意識に笑ってしまうらしい。
「アヤメ様…」
ディアが何かを言いかけた、その時。
「アヤメ!!」
ディアの声に重なるように、力強い声が聞こえてきた。
会場側に立つディアの後ろから、オランが駆け寄ってくる。
ディアは振り返らずとも、その声の主が誰であるかは分かる。
「……オラン!!」
アヤメが、ディアの背後まで届くような大きな声で、その名を叫んだ。
オランがディアの横を通り過ぎる時、ディアだけに聞こえるような小声で囁いた。
「結界を強化しておけ。……後は任せろ」
アヤメの気配を死神に感知されないように、城と魔界全体の結界の強化をディアに命じた。
グリアは、アヤメが城に住んでいるとは思っていない。パーティーに呼ばれた客だと思っている。
気配を感知できなくなれば、グリアはアヤメを追う事ができない。
ディアに目も合わせずに通り過ぎたオランに対し、彼もまた小声で返した。
「……承知致しました」
ディアは二人に背中を向けると、パーティー会場の扉へと歩いて向かった。
オランは息を切らしながら、アヤメの前に立つ。
ディアが放った魔力を感知して、急いで駆け付けたのだ。
アヤメは長身のオランを見上げて、喜びで心が満ちていくのを感じた。
「…ったく、オレ様から離れるなって言ってんだろ」
優しさも気遣いもないオランの言葉に、アヤメは落胆した。
子供を叱るような口調で言うものだから、アヤメは怒りを込めて返した。
「……なら、離さないでよぉ……」
女性に囲まれていたオランを見て、まるで自分の事など忘れてしまったかのようだった。
アヤメは嫉妬していたのだ。
悲しくて、寂しくて、自然とオランから離れてしまった。
……探して、追いかけて来てほしかったから。
いつもだったら、オランが来てくれたら嬉しくて抱きついてしまうのに。
でも今は悔しいから、不機嫌なふりをしたいとアヤメは思ってしまう。
「ほら、アヤメ」
オランが両手を広げて待ち構えている。この胸に飛び込んで来いと。
それで機嫌が直るとでも思っているのだろう。
やはり、悔しい。
グリアの事も、何があったのかも問い詰めてこない。
ただ、アヤメを抱きしめようと、真直ぐに手を伸ばしてくる。
いつもみたいに『命令だ』って言えば、何もかも話すのに。
素直に、その胸に飛び込んで行くのに。
何も言わない、その優しさが……ずるい。
「オランの……ばかぁ……」
泣き出しそうな瞳で言葉を吐くと、オランの方からアヤメを包み込んだ。
何度も包まれた温もりの心地良さに、アヤメは全てを忘れて身を任せてしまいそうになる。
これが、オランの『調教』なのだろう。
でも今は、その『調教』に必死に抗う。それで全てを収められてしまうのが悔しいから。
「ばかぁ……オラン、なんか……きらい……」
オランの方から確認はできないが、おそらくアヤメは泣いている。
声も身体も震わせて、それでも必死に言葉だけはオランに抵抗しようとしている。
「あぁ?…聞こえねえなぁ」
「……きらい、きらい……きらい……」
アヤメの口から一度も言われた事のない言葉が、オランに向けて延々と連なる。
またしても突如、反抗期のスイッチが入ってしまったかのように、それは続いた。
『きらい』と言いながら、アヤメはオランの背中に腕を回し、強く抱きしめ返してくる。
それは、今まで何度も聞いた『すき』という言葉以上の悦びとなって、オランの心の奥底を刺激した。
もはやアヤメの抵抗は、オランにとっての『快楽』でしかなかった。
「オレ様が、なんだ?もう一度言ってみろ」
「オランなんか、きらい……だもん…」
「それは本気で言ってねぇよな?」
「…………!」
アヤメは、ハッとして涙でいっぱいの目を見開いた。
顏を合わせなくても、オランには全てを見透かされている。
それは驚きというよりも、当然の事のような、嬉しいような…くすぐったいような。
そう……今までも…今も。オランも決してアヤメの期待を裏切らないのだ。
アヤメの本心など、最初から分かっている。
本心を『知りたい』のではない。その口から『言わせたい』のだ。
「本当の事を言え。命令だ」
「…………」
「……」
「…………好き」
……こんなに可愛い『反抗期』があるだろうか。
抗えない衝動がオランの全身を駆け巡り、アヤメの顏と向かい合う。
伝う涙もそのままに、紅潮したアヤメの頬。
その瞳に、さらに深いオランの赤の瞳が重なる。
「オレも好きだ。アヤメは最高の女だ。この世にアヤメ以外の女はいらねえ」
アヤメは、さらに目を見開く。
真直ぐな瞳で、そんな言葉を言われては……
本当は分かっていた。言葉なんてなくても、少しくらい離れてしまっても。
オランはいつだって、自分だけに最高の愛を与えてくれている。
それが『調教』という愛の形であっても、確かな愛情を注いでくれている。
そう、まるで……この指輪に魔力を注いでくれているのと同じように。
……何を不安に思っていたのだろう。
こんなにも、オランの愛を全身に感じられるのに。
「…それは言い過ぎだよぉ……」
アヤメは照れ隠しで、まだ拗ねているような返事を返した。
温もりと、言葉と、安心と…あともう1つ、欲しいものがある。
こんなに欲張りでいいのだろうか…と思いながらも、アヤメはその願望を口にする。
「キスして……」
その望みを叶えようと、オランはアヤメの唇へと近付いていく。
その時、オランの背中に回されたアヤメの腕の力がフッと弱まった。
突然、脱力したようにアヤメが膝を曲げたので、オランは抱き抱えてアヤメの体を支えた。
「アヤメ……どうした!?」
再びアヤメの顏を注意深く確認してみる。
頬が赤い。どこか目が虚ろだ。泣いたせいではない。
「う…ん…よくぅ、分かんない…目が、回ってぇ……」
アヤメが懸命に答えようとするが、呂律が回っていない。
「アヤメ……ワインを飲んだな」
冷静になって考えてみれば、簡単に分かる事だった。
パーティー会場に置いてあった飲み物の中から、アヤメは無造作に手に取って一気飲みをした。
それは、ワインだったのだ。
「わいん……?なにそれぇ……」
「ワインを飲むと、アルコールで酔うんだ」
「ん〜……アルコールの魔法ぉ……?」
オランに抱きしめられて安心したのか、今になって一気にアルコールが効いてきたのだ。
アヤメは酒を飲んだ事がないので、アルコールに耐性がない。
「……ったく」
オランは笑いながら溜め息をつくと、アヤメを抱いて軽々と立ち上がった。
「……可愛いお姫サマ、だな」
アヤメは突然の浮遊感に驚いて、オランの逞しい腕と胸に大人しく体を預けた。
『姫だっこ』のまま、オランは城に向かって歩き出した。
オランの両手は塞がっている。
中庭に面した扉を魔法で開くと、堂々とパーティー会場へと足を踏み入れた。