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第11話『密かなる想い』

夢のような『求婚』から一夜明けて———

朝には、アヤメの体調はすっかり回復していた。

それは指輪の力なのか、それとも愛の力なのか……?





今日は天気も良かったので、城の中庭に面したテラスで朝食を摂った。

そこは充分な高さのある壇上で、菖蒲あやめの花畑が一望できる特等席だ。

オラン、アヤメ、リョウ、ディアの4人がテーブルに着き、食後にくつろいでいた。


「ディアさん、聞いて〜!私、オランと婚約したの」


アヤメが満面の笑顔で突然、ディアに向かって報告をした。

だが、ディアはいつものクールな表情を崩さずに当然の疑問を返す。


「え……すでにお二人は婚約されてましたよね?」


ディアの言う事は、もっともである。

アヤメは魔界に来てすぐにオランから『妃にする』と宣言され、婚約指輪も与えられた。

その時点で、婚約は成立しているはずなのだが……。

だが、アヤメの一方的なハイテンションは止まらない。


「ディアさん、見て〜!ほら、婚約指輪」


嬉しそうに、左手の甲をディアの方に向けて見せてくる。


「え……いつもの婚約指輪ですよね?」


見慣れた指輪を堂々と向けられて、ディアは戸惑った。

噛み合わないやり取りを見兼ねたのか、オランが無愛想な態度で口を挟む。


「空気読め、ディア。無粋だぜ」

「ディアお兄ちゃん、ぶすい〜〜」


すかさず、リョウがオランの真似をしてディアに返した。おそらく意味は理解していない。


「え……も、申し訳、ありません……?」


ディアも意味は分からないが、とりあえず謝った。

ディアが注意深くオランの顔色を伺うと、何故か少し照れ臭そうにしている。

こんな魔王サマの表情は、未だかつてない……ようやくディアは察した。

そうか……ついにプロポーズしたのか、と。

どうも手順が逆のような気もするが、それがどのような結果であったかはアヤメを見れば一目瞭然だ。


「魔王サマ、アヤメ様。おめでとうございます」


ディアは優しく微笑みながら、二人に向かって祝辞を述べた。


「お兄ちゃん、お姉ちゃん、おめでとう〜〜?」


リョウがディアの真似をするが、やはり意味を分かっていなくて、最後が疑問形になる。


「ふふっ。ありがとう、ディアさん、リョウくん」


素直に喜びを表現するアヤメとは逆に、オランは口を閉ざしたまま動きがない。照れ隠しだろうか。

それをいい事に、ディアが悪戯をしかけた。


「アヤメ様。魔王サマからは、どのようなお言葉で?」


なんとオランの目の前で、プロポーズの言葉をアヤメから聞き出そうとしたのだ。


「え〜とね、それは……」


アヤメは喜びのあまり、そのまま全てを言いそうな勢いだ。

さすがに、オランは黙っていられない。


「アヤメ!!」

「はっ、はいっ!?」


突然の一喝に、アヤメは反射的に姿勢を正して返事をしてしまう。

オランは隣に座るアヤメと向かい合い、その肩を両手で掴んで強引に引き寄せる。

すぐにキスできそうなくらいの至近距離だ。


「それ以上言うなら、その口を塞ぐが…いいのか?」

「え……うん、……いいよ……」


逆に期待してしまい、頬を赤くして目を閉じるアヤメ。完全にキス待ちの構えだ。

突然、イチャつき始めてキスしそうな二人の前で、ディアは遠い目をした。


「リョウ様、私と一緒に庭園をお散歩しましょうか?」

「うん、行くー」


これ以上、幼子に大人の恋愛を見せてはいけないと思い、ディアはリョウを連れ出した。

アヤメとオランは二人の世界に浸り、良いムードで見つめ合った末に…結局は濃厚に口付けてしまった。

……幼子が見ていなくて、良かったかもしれない。


「…でも私、お嫁さんになるなら、もっと勉強しなきゃ、って思うの」


アヤメが突然、話を切り出してきた。


「あぁ、夜の事なら存分に教えてやるぜ…?」

「え、夜?何の事?キスじゃなくて?」


相変わらずアヤメは、天然なのか勘違いなのか曖昧な反応を返す。


「私、お城の外に出てみたい。魔界の色々な場所を見てみたいの……だめ?」


アヤメの要望を聞いたオランは、その心意気に感心した。

オランに従う事ばかりの従順なアヤメが、自らの意思で成長しようという心意気を見せた。

城に閉じこもる生活であっても、何ひとつ不自由はない。

だが、アヤメは魔界の事を本で知るだけでは足らず、自分の目で見て歩きたいと思ったのだ。

王妃になる為には、それも必要な勉強の1つだろう。


「あぁ、いいぜ。城下町だったら、好きに歩いても構わねぇ。付き添いはディアに任せる」

「え?オランは一緒に行かないの…?」


当たり前のようにオランと一緒に行く事を想定していたアヤメは、肩を落としてガッカリした。

デートみたいな事を想像して期待していたのだろう。

そんな分かりやすい落胆すらも可愛くて、オランはアヤメの頭の上に優しく手を乗せる。


「今度の休みに、山とか海とか魔界の名所に連れて行ってやるよ」


さすがに、王が繁華街を堂々とデートして歩く事は簡単に出来ない。

ただ街を歩くだけでも警備や通達など、人々の手間がかかってしまう。

行くなら人の生活していない場所を選んで行くという事なのだ。


「本当!?嬉しい、楽しみにしてるね!」


オランとの初デートの約束に、アヤメは胸を躍らせた。


庭園の方では、ディアとリョウが地面に落ちた菖蒲あやめの花を拾い集めていた。

入浴時に浴槽に浮かべている菖蒲あやめの花は、自然に茎から地に落ちた花や花びらを利用している。

花を大切にしているアヤメは、花を切る事を望まないからだ。





オランとのデートを前にして、アヤメは城下町へと出掛ける事となった。

魔界を目で知る為の勉強を兼ねての外出であり、遊び目的ではない。

アヤメにとっては魔界で初めての外出だが、付き添いはディア一人に任された。

それは護衛も道案内も全てがディア一人で事足りるという、オランの信頼の証。

何よりも、契約者であるオランに絶対服従のディアは、間違ってもアヤメには手を出さないからだ。いや、出せない。

同様に、ディアはアヤメとも契約を結んでいる為、アヤメを裏切る事も絶対にない。

普段は反発的で言い合う事も多いオランとディアだが、お互いが寄せる信頼は厚い。

それに加えてアヤメには、危険から身を守る為の指輪の魔力がある。





身支度を整えたアヤメは寝室から出て、オランとディアの待つ居間へと入った。


「えっと……着替えてみたけど……どう?」


アヤメは恥ずかしそうに、そろそろと二人の方へと歩いていく。

アヤメが着ているのは魔界のローブ。普段着の着物のままでは街で目立ってしまうからだ。

その為、日本の着物と似ている黒のローブを外出着に選んだ。ディアの見立てである。

それは着物よりも薄い布地で、くっきり分かる体のラインに纏った黒一色が大人の雰囲気を漂わせている。

服だけで、ここまで化けるのか……

普段のアヤメの服装と言えば、淡い色の着物か寝間着くらいしか見た事がない。

オランとディアは返事すら忘れてアヤメに見入ってしまった。

結果、誰もが沈黙して部屋が静寂に包まれる。


「あぁ、似合うぜ。来い、アヤメ」


ようやく口を開いたオランが、アヤメを近くへと呼び寄せた。

今すぐに押し倒したい衝動を抑えながら、ローブに身を包んだアヤメの全身を舐めるようにじっくりと見回す。

……帰ってきたら、たっぷりと可愛がってやろう。オランは心に決めた。

そんな思惑など知らないアヤメは、その褒め言葉を素直に受け止める。

少し照れながら微笑むと、オランの前で屈んだ。


「寂しいけど、行ってくるね、オラン…」


これは……新たな習慣、『行ってきます』のキスであった。





そして、アヤメとディアは城を出て、城下町の入り口へと辿り着いた。

日本で言えば16世紀の時代ではあったが、魔界は近代の日本に近い文化であった。

悪魔は普段は羽根を隠しており、道ゆく人々も外見は人間と変わらない。

悪魔の特徴として褐色肌が多いが、アヤメやディアのように白い肌をした者もいる。

ディアのように、本来は魔獣であっても普段は人の姿をしている者もいる。

外見だけでは判断できない、様々な種族が混在しているのだ。

アヤメは繁華街を歩くのも初めてで、行き交う人々の多さと賑わう商店街に呆気に取られていた。

もはや、ここが魔界であるという実感すらない。

アヤメは丈の長い黒のローブを着ている。

ディアは普段と大して変わらない、スーツと軍服を合わせたようなグレーの服だ。

二人とも見た目と服装だけは、魔界に馴染んでいるように見える。


「アヤメ様、行きましょう。あまり驚いた顏をしていると逆に目立ってしまいますよ」


ディアは事務的な口調ながらも、そんなアヤメを心では微笑ましく思った。


「ディアさん、ここで迷子になったら私、どうしよう……」

「大丈夫ですよ。城下町ですから、お城から一直線です」


それでも不安なアヤメは、ディアにピッタリとくっついている。

ディアの片腕を掴んで、そのまま腕を組んでしまいそうな勢いだ。


「ディアさん、離れないでね……?」


純粋な瞳で可愛らしい上目遣いをするこの少女は、何と罪なのだろうか。

おねだり上手なのは、魔王という調教師による教育の賜物なのか。

……いや、これこそがアヤメの天性だった。

オランが一目見ただけでアヤメを妃にしたいと思った衝動が、今なら解る気がした。

常に冷静なはずのディアは、自分の鼓動が高鳴っていくのを感じた。

二人きりだから?こんなにも身近に彼女を感じられるから?

アヤメの服装が、いつもと違うから、だろうか…?

ディアにとってアヤメは『契約者』つまり『主』なのだ。

それ以上の存在ではない、あってはならない…と常に自分に言い聞かせている。

アヤメに対する感情があるとすれば、それはオランと同じく『忠誠』。

それなのに、心を乱すこの感覚は……何なのだろうか?





アヤメは、ディアの心に気付いていない。

ディアも、自分の心に気付いてはいない。

そして、そんな二人が気付いていない事。

17歳の少女・アヤメと、見た目19歳の青年・ディア。

二人並んで歩いている姿、この行為こそが誰が見ても……

まるで『デート』みたいである、という事に。





賑やかな繁華街を歩く二人だったが、目的や行き先は特にない。

アヤメの思うままに歩かせてやるのが、今回の目的なのだ。

アヤメは魔王の婚約者ではあるが、民衆にはお披露目されていないので顏は知られていない。

同じくディアも顏は広まっていないので、魔王の側近だとは誰にも気付かれない。

城下町という事もあり、治安も悪くない。

デート…いや、散歩をする程度の外出による不安要素は、ほとんどないのだ。

ふとアヤメは、ある店の前で足を止めた。合わせてディアも止まる。

アヤメの目の前のショーウィンドウの中には、煌びやかなドレスが飾られていた。

それはアヤメが見た事もないような美しい色と光沢で、スカートがふわふわと広がっていた。


(きれい……かわいい……)


アヤメはお洒落などした事はないが、さすがに年頃の少女である。


(こういう綺麗な服を着たら、オランは喜ぶのかな…?)


好きな人の前では綺麗でありたい、という恋する乙女心が芽生えてきたのだ。

ドレスに釘付けになって見ていると、隣に立つディアが問いかけてきた。


「中に入りましょうか、アヤメ様」

「え、いいの…?」


店に入るだけなのに、許可でも求めるかのように聞いてくる。

これでは、どっちが従者か分からない。

常に護衛としての緊張感を忘れないでいたディアだったが、思わず顏が綻んだ。


「当然です。アヤメ様が望むのでしたら」





そして洋服店に入った、アヤメとディア。

何もかもが珍しいアヤメは、魔界の洋服をあれこれ不思議そうに見ていた。

服を選んでいるというよりは、見物だ。

ディアは歩調を合わせて、アヤメの行く先々に一緒に付いて歩く。

やはりアヤメは、ある場所で足を止めた。

先程も外から見ていた、ドレスのコーナーだ。

パーティーで着るのだろうか。その華やかな色彩と装飾に心を奪われる。

アヤメが放心したように見入っていると、店員らしき褐色肌の男性が声を掛けてきた。


「お客様、ご試着なさいますか?」

「えっ……!?」


突然、見知らぬ悪魔から声を掛けられて驚いたアヤメは、言葉が返せずに固まってしまった。

さすが接客業。店員はアヤメが白い肌の異種族であっても愛想よく接してくる。

城下町には様々な種族が混在するので珍しい事ではない。むしろ観光客なら大歓迎なのだ。

だが、アヤメが驚いたのは、そこではなかった。

それを見抜いたディアが店員の代わりに説明する。


「試しに着る事が出来るのですよ」

「そうなの?いいの……?」


期待に目を輝かせているアヤメは、何とも分かりやすい反応だった。

嬉しそうにドレスを受け取ると、アヤメは試着室へと入った。



そのドレスは、淡いピンク色。

袖や裾など所々がシースルーで、背中が大きく開いている。

裾にはレースが幾重にも重なっていて、華やかさと可愛らしさを兼ね揃えている。

そのドレス姿のアヤメを見たディア、店員、買い物中の客達の誰もが、一瞬で目を奪われた。

白い肌に淡いピンクの衣を纏った姿は、眩しいほどの輝きを放っていた。

褐色肌に黒い服が一般的な魔界に、天使が舞い降りたかのようだ。

試着室から出た途端に人々の動きが止まったのを見て、何事かとアヤメは困惑した。


「え……どうしたの……?」


助けを求めるようにしてディアに視線を向ける。

ディアが何かを言うより先に、愛想のいい店員がアヤメに歩み寄った。


「お美しい……よくお似合いです、お客様」


これは、客商売だからというお世辞ではない。本心からの感嘆だ。

人を疑わないアヤメは、それを素直に受け止めて照れてしまっている。

ディアは、ハッとして我を取り戻した。見惚れている場合ではなかった。

やるべき事をしなくては。気を取り直してキリッと背筋を伸ばす。


「アヤメ様。そちらの服をご購入されますか?」

「そっ、そんなつもりじゃ……!!」


アヤメは両手を振りながら慌てふためいている。

しかし、ディアとしても購入を勧めたい。そう思う程にアヤメのドレス姿は美しい。

このお姿を魔王サマが見たら、きっと……何故か複雑な思いもよぎる。

アヤメのドレス姿を目に映す事すらも、決して独り占めなど許されないのだ。

自分は魔王に仕える側近であり、アヤメの護衛でしかないのだから……。

らしくない考えに至ってしまった自分を、ディアは心で嘲笑した。


「アヤメ様が望む物は、何でも買うようにと言われております」


外なので魔王の名は口に出さなかったが、それがオランからの命令だった。

その為にディアは、それなりの現金も持たされていた。

だが無欲のアヤメは、本心では思っていても『買いたい』とは口に出さない。


(私が、そんな贅沢していいのかな…)


とは思うが、お金を使うという事は店の人達の生活の為でもあり、街を活気づけるという考えにも至った。

自分の為ではなく、誰かの為。それが、アヤメの根本的な行動理念なのだ。

この服が欲しいのも、オランに喜んでほしいと思うからだ。


「じゃあ、この服……買って下さい……」


おねだりにしか見えないのだが、申し訳なさそうにディアに告げた。

たまに出てしまうアヤメの敬語と上目遣いは、男心をくすぐる。

こんな風にねだられたら、例えオランの命令でなくとも買ってあげたくなってしまう。

ディアは優しく微笑みながら頷いて返した。


「承知致しました」


ディアが会計を済ませている間に、アヤメは試着室で元の黒いローブに着替えた。

そうして購入したドレスの袋をディアが持ち、二人は店を出た。



洋服店から出ると、アヤメの前をタタタ…と小さな子供が横切って行った。

見た目からして、悪魔の子供だろう。

褐色肌の男の子で、背中にはコウモリのような黒い小さな羽根がある。

悪魔は普段、羽根は魔法で隠しているが、その魔法をまだ使えない程に幼いのだ。

そんな小さな羽根を揺らしながら無邪気に走る姿は愛嬌がある。

アヤメが、その子供の行く先を目で追うと、母親らしき悪魔に抱きついていた。

なんだか和んでしまったアヤメは自然と微笑んでいた。


……人間界と変わらない日常が、魔界にもある。


そんな魔界の空気に触れて、街を歩く事に対しての不安が薄れていく。

ディアが隣で、そっとアヤメに問いかける。


「いかがされましたか、アヤメ様」

「悪魔の子供……可愛いなぁって思って……」


そして次に思ってしまった事。


(オランとの子供にも、あの子みたいに羽根があるのかな?)


(でも私、人間だし……あ、でもオラン似だったら……)


つい、自分とオランの子供の姿を想像して止まらなくなってしまった。

ディアは深くは突っ込まず、ただ静かに微笑んだ。


「楽しみにしていますね」

「うん……え、え?何を!?」


上の空で返事を返してしまったアヤメは、ディアの一言に顏を赤くした。





次にアヤメが足を止めたのは、飲食店。カフェの前だった。


「いい香りがする……」


そのお店から漂ってくるのは、アヤメにとっては初めての香りだった。


「コーヒーの香りですね」


ディアの答えを聞いても、コーヒーを知らないアヤメはピンと来ない。


「コーヒーって何?ここって何のお店なの?」

「コーヒーは飲み物です。ここは喫茶店と言って、食事をする為のお店ですよ」

「茶屋みたいな所?」

「そうですね。コーヒーは茶ではなく豆ですが」


真面目なディアは、アヤメの質問1つ1つに丁寧に答えていく。

だがアヤメは、その説明だけでは、いまいち想像ができなかった。

実際に体験した方が早いだろうと、ディアがそれとなく提案する。


「ちょうどお昼時ですし、こちらのお店でお食事をなさいますか?」


いつでもディアが疑問形なのは、アヤメに選択権があるからだ。


「うん、これも勉強だもんね……」


外食をするだけなのに、意を決するアヤメだった。

魔界の見知らぬ街で、見知らぬ店に入るだけでも勇気を要するのだ。

だが、常にディアが居てくれるので心強い。





外食だろうと、魔界の食事自体は問題ない。

城での食事もそうだが、人間界の洋食とほぼ変わらないからだ。

だが、注文した『飲み物』がテーブルの上に置かれた時。

それを見たアヤメの顏が、一気に青ざめた。


「ディアさん、この飲み物って……」

「これがコーヒーですよ」


アヤメは目の前のコーヒーカップを注視したまま、手を付けようとしない。

湯気の立っている温かい飲み物を、恐ろしい物を見るような目で警戒している。


「黒い……けど……もしかして…血なの?」


アヤメの向かい側に座るディアは、思わずコーヒーを吹き出しそうになった。

真面目顔で突拍子もない発言をするアヤメの前で、油断は禁物だ。

悪魔の飲み物という勝手なイメージで、血を連想したのだろう。

そろそろ、悪魔が血を飲むような恐ろしい生き物ではない事くらい認識してほしいものだが…。


「ちっ、違いますよ……では、こちらのミルクを入れて下さい」


少しむせりながら説明するが、アヤメが動きそうにないので、ディアがミルクを入れてあげた。

そしてスプーンでかき混ぜると、黒いコーヒーはミルクと混ざって、淡い色に変化していく。

それを見たアヤメは、今度は口を開けたまま目を見開いている。


「色が変わった!すごい…これって魔法!?」


ディアは、再び吹き出しそうになった。

アヤメの純粋で天然な発想は、誰もが予測できない。


「あ、……アヤメ様、そう…では……」


ついに笑いを抑えきれなくなったディアは、手の甲で口元を押さえている。

だがアヤメの質問は止まらない。魔法に興味津々と言った感じだ。


「ねえ、これって、コーヒーがどうなっちゃったの?」

「ミルクを入れましたので、カフェオレになりました……」

「ミルクって魔法でコーヒーがカフェオレになったのね。うん、覚えた」

「…………」


間違ってはいない。アヤメの発想は、間違ってはいないのだが…。

真面目に受け答えしていたディアも、ついに限界だった。


「え、ディアさん、なんで笑ってるの?」


「申し訳ありません……あまりにも、その…可愛かった、ものですから……」


そこまで言い切って、ディアは慌てて言葉を止めたが、もう遅い。

アヤメを見ていたら……あまりにも素直に本心が口から出てしまった。

ディアにしては珍しく、赤くなってしまった顏を見られないように俯いた。

……これでは隙だらけで、護衛としては失格だ。

アヤメは不思議そうにしてディアを見ている。

その純粋で綺麗な心と瞳が、魔獣をも惹き付け……狂わせていく。



喫茶店を出て、二人は再び繁華街を歩いていた。

雑踏の中、ディアが胸ポケットから懐中時計を取り出して確認した。

すると急に立ち止まったので、アヤメも合わせて立ち止まる。


「アヤメ様、お時間です。お城へ帰りましょう」

「え、もう?」


アヤメは、物足りなさと残念な気持ちが入り交じっている。

最初はあんなに不安だったのに、気が付けば街を歩く事を楽しんでいたのだ。

だが、真面目なディアは事務的な態度を貫く。


「今日の外出許可は、2時間と決められております」


とは言うが、アヤメのしょんぼりした顏を見てしまうと心が揺らいでしまう。


「まだ、オランとリョウくんにお土産も買ってないのに…」


アヤメの声が沈んでいく。

自分だけ服を買ってもらった申し訳なさもあるのだろう。


「アヤメ様。ここは城下町ですので、お土産は必要ないかと…」


オランにとって、城下町は地元の商店街と同じ。

観光地気分でお土産を買う気でいたアヤメの発想も天然で可笑しい。

だが……ディアは、なかなか歩き出せないでいた。

アヤメとの時間、会話、視線、空気さえも……

アヤメの全てを独占できる時間が終わってしまうのが名残惜しい。

先程から、何故このようなモヤモヤした感覚に襲われるのだろうか。

思っている事を素直に言葉にするとしたら、この感情は一体……?

人は、この『想い』を、何と呼ぶのだろうか?

それは魔獣である自分も所有していて、理解できるものだろうか?


「アヤメ様」

「うん?」


真直ぐ見つめ返してくるアヤメの純粋な瞳に……

永遠に自分を映して欲しいとすら願ってしまう。

その場に立ち尽くした二人……だが、この時間は永遠ではない。

限られた時間だと、最初から決められていた。


「私が、お二人と契約を交わした理由…ご存知ですか?」


突然にディアが切り出した話。

それは、ディアが『オランとアヤメ』の二人と交わした契約の事だ。


「これからも仲良くしようね、みたいな?」


迷う事なく出されたアヤメの答えは、純粋で可愛らしいものだった。

ディアはふっと小さく笑った後、少し目を伏せた。


「間違ってはいませんが……」


魔獣であるディアは、契約を交わした者を『主』として絶対服従する。

魂が存在する限り、永遠の忠誠を誓うのだ。

だが、その契約をする事での見返りはない。

……ディアに、何の得があるのだろうか?

悪魔の場合は、人間と契約して願いを叶える代わりに、その人間の生命力を吸収する。

契約に『見返り』は必ずあるべきものなのだ。

その答えは、すでにディアの中に存在していた。


「私は、お二人と契約してお仕えする代わりに、頂いたものがあるのです」

「え?そんなもの、あったかな…?」


アヤメは今までの事を思い返してみるが、特に思い付かない。

契約の代わりに、私とオランが、ディアさんにあげたもの…?

お金とか、お給料じゃないだろうし…。

アヤメが考え込んでいると、ディアが顏を上げて打ち明けた。


「それは、『幸せ』です」


ディアの意外な答えに、アヤメはその言葉の意味を脳内で探る。

その反応を見て、ディアは自分の発言にフォローが必要な事に気付いた。


「あ、幸せを吸い取るとか、奪い取るという意味ではありませんよ」

「えっと…じゃあ、どういう意味なの?」


アヤメは首を傾げてディアの答えを待っている。

ディアは決心するように小さく息を吐いた。

これから言う事……それが、自分の心の全てであるから。

きっと伝わらないであろう想いでも、これが今の自分の全てだから。


「お二人の幸せが、私の幸せなのです」


それが、ディアの全ての答えだった。

オランとアヤメの幸せが、ディアにとっての幸せなのだ。

オランの事を愛して生きるアヤメを……そんな彼女の幸せを守りたい。

そして、アヤメの事を愛して生きるオランも同様に。

そんな二人の幸せを永遠に守りたい。それは自分の幸せをも守る事だから。

そう思う事で、この契約も自分の存在意義も成り立つのだ。

叶わない想いではない。自分の幸せを叶える為の想いなのだ。


「アヤメ様の末永いお幸せをお祈り申し上げます」


そう言ったディアの微笑みが……

憂いを帯びているように感じたのは気のせいだろうか。

それは、もうすぐ王に嫁いでいく手の届かない想い人を送り出す祝辞のようで…。

アヤメは、それすらも素直に受け取めて感謝を表した。


「ありがとう…私は幸せだから、ディアさんもずっと幸せでいてね」

「はい。私も幸せですよ」


ディアは、今も自分が幸せだと思っている。

そして、この先も、この幸せが永遠に続くように……

例え輪廻を繰り返しても、魂が存在する限り……

永遠にオランとアヤメを見守りながら共に生きる。

それがディアの契約であり、決意だった。


……そうだった。立ち話も長くは続けられない。


ディアは城に戻る前に、もう一言だけアヤメに伝えようと思った。

それは護衛としてではなく、今日という日を共にした一人の青年として伝えたい最後の言葉。


「また……ご一緒させて頂いても、よろしいでしょうか」


これが、ディアの感情を込めた精一杯の言葉だった。

この願望を口にする事すら、オランに対する裏切りではないだろうか…?

従順な魔獣・ディアは、それすらも罪悪感を感じてしまう。

急に改まって言われたので、アヤメは驚いて少し慌ててしまった。


「えっ、そんな…私の方こそ……次もよろしくね、ディアさん」


アヤメは純粋に、付き添いとしてのディアを必要としている。

それを分かっていても、それだけでも…ディアの心は喜びで満たされた。





そうして2時間の外出を終えたアヤメは、城へと戻った。

オランの部屋の扉を開けると、そこは広い居間。

その中心に鎮座している豪華な椅子に、オランが深く腰掛けていた。


「楽しかったか?」


帰りを待っていてくれた事が嬉しくて、アヤメは満面の笑顔で頷いた。

小走りで寄ると、オランが椅子から立ち上がるのと同時に抱きついた。


「オラン、ただいま。…会いたかった」


たった2時間の外出でも、アヤメはオランとの再会を喜ぶ。

オランがアヤメの手元を見ると、片手に紙袋を持っている。


「何か買ったのか?」

「ふふっ……まだ秘密」


アヤメは何故か恥ずかしそうにして、それを隠した。

まぁ、どうせ後で分かる事だろうと、オランは特に気にしなかった。


「魔界の街はどうだ?」

「うん、素敵な街……」


もうすぐ、この世界の王妃になる事を思うと、その心は不安よりも喜びと期待で満ち溢れてくる。

アヤメは今日一日…2時間の出来事を、楽しい遠足の思い出話のように報告する。

オランの男心など、気にも留めずに。


「あとね、ディアさんがミルクっていう魔法でコーヒーをカフェオレにしたの」


我ながら完璧に言えたと、アヤメは満足げに笑ってみせた。


「あぁ?なんだそりゃ」


対するオランは、二人の楽しそうなシーンを思い浮かべて不満げな顏をした。

たった2時間でもアヤメを独占されるのは、やはり気に障る。

自分を見上げるアヤメの目線に合わせて、オランは少し屈んだ。

『オレ様だけを見ろ』と言わんばかりに視界を独占した。

自分を見下ろすオランに届くように、アヤメは少し背伸びをした。

距離を縮めて、そのまま引き合うように口付けた。


…これも新たな習慣、『ただいま』のキスであった。


お互いの息がかかるほどの距離で薄く目を開き、アヤメは囁いた。


「……着替えてくるね」


アヤメは外出着の黒いローブ姿のままだった。

だが、オランはアヤメの腰を抱き寄せたまま離そうとしない。


「その服もいいぜ?オレ様好みだ」


思いがけない褒め言葉に、アヤメは即座に反応が返せない。

恥ずかしいけど嬉しい…言葉が出ない代わりに、アヤメは再びオランを求めた。


「もう一回キスして…いい?」

「へぇ、随分と欲張りになったな?…後でな」


悪戯っぽく笑うと、オランはようやく、アヤメの腰に回した腕を解いて放した。

アヤメは着替える為に寝室の扉の前まで歩くと、そこで振り返った。


「着替えてくるから、ちゃんと待っててね?」

「どこにも行かねえよ」


何を不安に思ったのか、念を押すアヤメが可愛いと思って笑い返した。

だがアヤメには、ある思惑があったのだ。

オランに見てほしい物があったから———。





約15分後。

着替えるだけにしては遅い。不自然な長さだ。

だからと言って着替え中の部屋を覗くのも、なんとなく体裁が悪い。

一緒に入浴もしている今となっては、着替え中だろうが見ても問題はないのだが……。

そんな事をオランが考えていると、寝室の扉が少しだけ開いた。

そこからアヤメが顏だけを出して、何故か恥ずかしそうにしている。


「オラン、着替え終わったよ……」


いつもの着物に着替えただけなら、何を恥じらうのだろうか。


「なら、さっさと来な」

「うん……」


アヤメは、ようやく扉を開けて居間へと入って来た。

しかし、そのアヤメの姿を見たオランの思考が完全停止した。

それは、全神経が視覚のみにしか働かなくなった程の衝撃だった。

アヤメの着ている服が、いつもの着物ではなかった。

淡いピンク色のドレスで、袖や裾など所々がシースルー。

裾にはレースが幾重にも重なっていて、華やかさと可愛らしさを兼ね揃えている。

そして、なんと………胸元が大きく開いている。

少し動けばアヤメの豊満な膨らみが全て曝け出てしまうような、ギリギリの範囲しか覆われていない。

言葉すら出てこないオランの前までアヤメは歩く。

その大胆な胸元が、さらにオランの視界に迫り、目を見張る。

アヤメは頬を赤く染めて恥じらいながら、上目遣いでオランを見る。


「これ、今日、買ってもらった服なの……どう?」


決して色仕掛けではない。

綺麗な服を着たらオランは喜んでくれるだろうか?という純粋な想いだった。

オランは働かなくなった思考の中で、ようやくアヤメの全身を見回して確認する。

……アヤメは17歳という、まだ未熟さが残る年頃の娘ではあるものの……


スタイルは抜群に良い。


白い肌に細い腰。しかしながら豊満で抱き応えのある柔らかな肢体。

一緒に入浴したり、ベッドで抱き締めたりしているのだから、改めて確認しなくても分かってはいた。

だがアヤメの普段着は着物で、他は寝間着くらいしか見た事がない。


ここまで露出の高い服を、アヤメは好んで購入したのだろうか?

真面目なディアが、この服を勧めたとも思えない。

まさか、気を利かしたとでも言うのか。

いや、そんな訳はない。


……もしやアヤメが、身を捧げるつもりの覚悟で、わざと……?


急激に回転しだしたオランの思考は、願望を具現化しただけの、何とも都合のよい結論に辿り着いた。

こんなにも理想の姿で待ち構える愛しい女を前にして、機能する自制心など存在するのだろうか?


「アヤメ……」


自分を見上げるアヤメの名を呼ぶ事だけで精一杯だった。

無意識に伸ばした両手がアヤメの細い腰を抱き、さらに引き寄せた。


「あっ……オラン…」


体勢を崩してオランの胸元に体が重なると、二人の鼓動が同調し一体化する。

強く抱き締めようとするオランの胸元に押し寄せる柔らかな感触。

潤んだアヤメの瞳のすぐ下に見えるのは、白い肌に際立つ深い谷間。

意識が、果てしない闇の奥底へと誘われるような感覚に陥る。

魔王を誘うとは……大した女に成長したものだ。

その覚悟にも応えてやらねば。


……望み通り、心行くまで可愛がってやろう……


まだまだ調教しがいのある、純粋無垢な少女を。

オランは本来の悪魔らしい邪気を放つかのように、その赤い瞳を鈍く光らせた。


抗う事の出来ない衝動の中、オランは一瞬だけ意識を現実に戻した。

その時、ここは寝室ではなく居間である事を思い出した。

だが背後には充分な弾力のある、オラン専用の椅子がある事も思い出した。

大きさに余裕があるとは言え一人掛けの椅子で、多少狭いが何とかなるだろう。

オランは、アヤメを抱き締めたままの片腕の指先を少しだけ動かした。

すると、ガチャリ!という音が部屋の入り口の扉の方から響いた。

オランが魔法による遠隔操作で、部屋の扉に鍵をかけたのだ。


……これでいい。邪魔が入ってきては困る。


意識と視線を、扉からアヤメに戻す。


「……アヤメ」


もう一度、オランがアヤメを呼びかける。


「……うん?」


体を密着されたまま恥ずかしそうにして首を傾げる。

オランはアヤメの胸元……いや。服を、じっと見ているようだ。

この服をどう思っているのだろうか…アヤメは反応を期待して待っていた。


「その服、脱げ」


一瞬、オランに言われた言葉の意味を理解できなかった。

アヤメは瞬きせずにオランの瞳を見つめ返している。

だが、すぐに理解した。

オランが望むのなら、いつでも全てを捧げる覚悟は出来ていた。

正式な婚約を交わした今、王妃となる為の契りを交わす時なのだと。


「……はい……」


アヤメは小さく返事を返すと、自分の肩に手をかけた。

迷う事も、恥じる事もない。愛する人の前で全てを曝け出す事に。


「……オイ、ここで脱ぐな」

「え?」


脱げと命令したオランが制止したので、アヤメは驚いて手を止めた。


「その服、前と後ろが逆だぜ」

「……え、え?……ええ!?」


今度は頭が真っ白になり、アヤメは慌てて壁際に置かれた姿見に全身を映してみる。

確かに……言われてみれば、腰の後ろに来るはずのリボンが、お腹にある。

こんなに胸元の開いたドレスを買った覚えもない。

確か、お店で試着したドレスは、背中が大きく開いていた……。

完全に、後ろ前に着てしまっている。

それに気付いた瞬間、胸の露出の比ではない羞恥心が全身を襲った。

顏から火でも出てしまうのではないかという程に熱と赤みを発している。


「やっ……オラン……見ないでぇ…恥ずかしい……」


今さら、自分の胸元を両腕で重ねて隠す。

全てを曝け出す覚悟だったのに、自分の情けなさと大胆な胸元だけを曝け出してしまった。

だがオランは、そんなアヤメすらも可愛くて余計に攻めたくなるのだ。


「アヤメ、隠すな。そのままで来い」


従順なアヤメが拒む事など出来ない事を承知で、あえて強い命令口調で呼び寄せる。


「う……は、はい………」


アヤメは涙目で、言われた通りに胸元を隠さずにオランのすぐ目の前まで歩み寄る。

オランが何かを言うよりも先に、アヤメが申し訳なさそうに口を開いた。


「ごめんなさい…、今度こそ、ちゃんと着替えてくるから……」


今さら正しく着直した所で、今の胸元のインパクトに勝る事はない。

むしろ男としては、その着方を好むのだが、それはアヤメの本意ではない。

だが、アヤメをその気にさせるのは簡単だ。褒めてやればいい。


「そのままでいいぜ。好みだ」

「え?ほ、本当…?」


アヤメの顏が、パッと明るくなった。

純粋に、この服を喜んでくれたという嬉しさの笑顔だった。

オランの手にかかれば、アヤメの感情すら思いのままだ。

本当は服など関係ない。着飾らなくても、アヤメは汚れなく美しい。

その領域を侵していいのは、魔王であり婚約者でもある自分だけなのだ。

そんな優越感がオランを駆り立て、アヤメを思うままに引き込んでいく。


「綺麗だぜ、アヤメ」


オランが囁いたその唇で、剥き出しになっているアヤメの柔らかな上胸に触れた。


「……あっ……」


ちょっとした悪戯のつもりが、思わず漏れたアヤメの声は予想以上に甘美だった。

オランは白い肌に何度も口付けては、アヤメの反応を愉しんだ。


「…っ……オラ…ン……」


「なんだよ、やめるか?…もっとか?」


「……いじ、わ…る……」


アヤメが返したのは、肯定とも否定とも取れる言葉。

その意味を知りながら、オランは強引に答えを求める。


「どっちだよ。命令だ、答えろ」


答えは聞かずとも分かっている。アヤメはオランの期待を決して裏切らない。

そして、アヤメの心と身体は、決してオランを裏切れない。

調教という名の愛情をその身に刻まれ、思い知らされる。

『キスは快楽』だと教え込まれていくアヤメは、それを求め続けるしかない。


「………もっと……」

「いい子だ」


オランがようやく顏を離すと、アヤメの恍惚とした表情を存分に目に焼き付け……

そのまま、背後の椅子にアヤメを抱いたまま倒れこんだ。





……それから少しの時間が経過した昼下がり、オランの部屋。


アヤメとの甘い密会の後、オランは居間の椅子に深く腰掛けている。

その前には訝しげな表情のディアが立ち、冷ややかに見下ろしている。

主に対して上から目線で見下せる下僕なんて、この世で彼くらいだろう。


「……魔王サマ。先ほど部屋に鍵をかけて、何をされていました?」

「それを聞くのが無粋なんだよ。いい加減、空気読め」

「……アヤメ様は今、どちらに?」

「疲れたんだろ、休憩してんじゃねえ?」


確かに、今日は初めての外出で疲れた……だけなのだろうか?

何やら満たされた笑みを浮かべるオランを見ていると……

この部屋で、予想通りの事が起きた予感しかしない。

このままでは婚礼の儀を前にして、今度こそアヤメの懐妊が実現しそうだ。

その時、寝室側の扉がガチャっと音を立てて開いた。


「オラン、服が乱れちゃったから着直したよ……あっ、ディアさん」


居間に入って来たのは、アヤメだった。

心なしか、顏が少し火照っているようにも見える。

チラっとオランを見て目が合うと、微笑みながら目を伏せた。


……何故だろうか。


だが、アヤメの姿を見たオランとディアは、驚きと共に声も出せなくなった。

アヤメがまだ、例の『胸元の開いた』ドレスを着ていたからだ。


……今も、後ろ前に着ている。


そんなアヤメは落ち着き払った様子で二人の方へと歩いてくる。

アヤメの予想外の行動に、オランは珍しく戸惑いの色を見せている。


「アヤメ……何のつもりだ?」

「オランが気に入ってくれたから、このまま着てようかなって……」


笑顔で言うアヤメには、もはや大胆な胸元を恥じている様子はなかった。


甘い調教の即効性は、恐ろしい。


どう着るのが正しいかは関係ない。

アヤメはオランの為に、わざと後ろ前に着ているのだ。

だが……この状況を黙って見過ごせない人物が、もう一人。


「魔王サマ……」


その声で、ようやくディアの存在を思い出したオランが顏を向ける。

予想通り、ディアが冷ややかを越えて怒気を含んだ睨みを利かせていた。


「アヤメ様に、一体何をさせているのですか……」


あのドレスは、アヤメがディアと一緒に城下町で購入したのだ。

これが『後ろ前の状態』である事はすぐに分かる。

……いや、誰が見ても一目瞭然である。

ディアは、オランが下心でドレスを後ろ前に着させたのだと思った。

オランはディアに睨まれても怯む事なく、むしろ余裕の態度に出る。

天下の魔王は、言い訳などしない。開き直るだけだ。


「勘違いするな。優しいオレ様が、アヤメの好きなように着させたんだぜ」

「アヤメ様が、そんなはずは……!!」

「ねぇ、ディアさん。この服、どう?」

「……!!アヤメ様、それ以上、近付いては……!!」


アヤメが近付くと同時に、その大胆な胸元にも迫られてしまう。

その時、修羅場と化したこの部屋の入り口の扉が開き、小さな天使が入ってきた。


「お姉ちゃん、お帰りなさい〜!!わ〜きれい!」


リョウは、アヤメのドレス姿を見ると感動の声を上げて駆け寄る。


「ほら見て、リョウくん。新しい服なの」

「わ〜〜お姉ちゃん、すごい!!」


何がすごいのか。まさか胸元だろうか。


「リョウ様、見てはなりません…!」

「あっ、コラ!ガキが見るんじゃねえ!ディア、てめぇもだ!」


オランは単に、アヤメのドレス姿を独占したいだけであった。





結局、『リョウの教育』と『オランの自制心』と『ディアの目のやり場』に問題が生じるとして、アヤメは普段の着物に戻された。

……いや、ドレスを正しく着れば良いだけの話ではある。


しかし、この禁断のドレスを再び着る機会が、またすぐに訪れる事になる。

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