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第5話『大魔獣覚醒』

その日の就寝前、アヤメは一人で寝室にいた。

今日のオランは、仕事の終わりが遅くなるという。

『先に寝てろ』と言われても、そうは簡単に行かない。

アヤメはすでに、オランと一緒でなくては眠れない心と体になっていた。

先に寝る、という行為に罪悪感まで感じるようになっている。

就寝前のキスだって、しなくてはいけない。

これらは全て、オランの『調教』の成果であった。

眠れずに、どうしようかと室内をウロウロしていたが、ふと窓の外を見て思い出した。

ガラス窓を開けてテラスに出ると、そこから城の中庭を見下ろしてみた。

菖蒲あやめの花畑が、控えめにライトアップされていた。

闇の中に紫色を浮かべて一面に広がる景色は、幻想的な美しさだった。


(すごい、綺麗……)


昼に見た時も美しかったが、まるで夜の闇に溶け込みそうな今の紫色も美しい。

アヤメはその光景をもっと間近で見たいと思い、テラスの階段を下って中庭へと下りる。

菖蒲あやめの花を照らしているのは、ライトの明かりだけではなかった。

夜空を見上げると、そこにも闇の中で煌々と輝く大きな月が浮かび上がっていた。


(満月……魔界でも月が見えるのね)





アヤメが菖蒲あやめの花と満月に見とれていた、その頃。

アヤメが一人では眠れないであろう事を察して心配したディアが、寝室の扉をノックした。

扉の隙間から明かりが漏れている所を見ると、まだ起きているのだろう。

しばらく待っても反応が返ってこない事を不審に思い、ディアは扉を開けた。


「アヤメ様、ディアです。失礼致します」


………部屋には、誰もいない。

部屋の中を見回し、もしや…と思って、ガラス窓を開けて外のテラスに出てみた。

いつもよりも明るい夜である事に気付き、ディアは空を見上げる。

そこには、アヤメも今まさに見つめている、満月が浮かんでいた。





アヤメは花畑を全角度から見て回ろうと、庭園の外側の通路を歩いていた。


(オランと一緒に歩きたいなぁ……)


いつでも無意識にオランを求めてしまうのは、一人で居る事の寂しさを忘れていた為。

それだけ、魔界に来てからの日々が『彼』で満たされていた、という証拠なのだ。

その時だった。

花畑とは反対側の木々と茂みの奥から、何かが動く大きな音がした。

木々の奥深くは暗くて目視できないが、何か大きな生き物が潜んでいるような気配を感じた。

葉がガサガサと音を立て、それが近付いてくる。

アヤメは高鳴る心臓を押さえるように胸の上で両手を重ね、それを凝視していた。

茂みの下方から、鋭い爪が生えた獣の足が見えた。

足の大きさからも、その獣が巨大であるという事が想像できる。

そして、その獣が全貌を表した瞬間。

アヤメは驚愕のあまりに一瞬、呼吸を止めて数歩下がった。

目の前に現れた獣は、まさに巨大と言うに相応しい生き物だった。

見た目は犬のようだが、その大きさは5メートルはあるだろう。

コウモリのような羽根を生やし、鋭い爪と牙を持ったその姿は、明らかに獰猛な獣であった。

アヤメは瞬時に思った。


(野生の魔物……!?)


魔界には、そういう凶暴な生き物がいるとオランから教えてもらっていた。

何故、王宮の中にまで侵入して来たのか。

その理由を考えるよりも真っ先に思った事。

逃げるべきか?……いや、人間の足で逃げた所で無駄だろう。

魔物の、切れ長の鋭い眼と目が合うが、アヤメは一歩も動けない。

いや、動こうとはしなかった。

アヤメは勇気を振り絞って、言葉が通じるはずもない獣に向かって思いを伝える。


「お願い、何もしないで…!私も、何もしないから……」


怖くない訳ではない。足も、腕も、声も震えている。

魔物が巨大な足を一歩、前に踏み出そうとするが、アヤメが両手を広げて立ち塞がった。


「だめ……!こっちには来ないで!!」


アヤメの背後には、菖蒲あやめの花畑がある。

万が一、ここで暴れたら、花畑が荒らされてしまう。それを防ぎたい一心だった。

魔物も、花も、傷つけたくはない。

魔物の目に映るのは、自分の事を顧みずに他者を優先する、強く心優しい少女の姿だった。





そんな少女の姿を目に映している人物が、もう一人いた。

寝室のテラスから、アヤメと魔物の様子を見下ろしているのは、オランだ。

何を思うのか、この状況でもアヤメを助ける為に動こうとはしない。

ただ、何もせずに遠くから成り行きを傍観していた。





アヤメと魔物の睨み合いが続いた。

どちらも動かず、時間だけが静かに流れて行った。

やがて、その瞳から敵対心がないという事をお互いに感じ取って、一気に気が抜けた。

魔物はその場に足を崩して座り込み、同時にアヤメも座り込んでしまった。

疲れたのと同時に安心して気が緩み、アヤメは無意識に微笑んでいた。


「ふふ……疲れたね、あなたも休む?」


アヤメは恐れもせずに魔物を手で触れて撫でると、さらに体を寄せた。

魔物もアヤメに顔をすり寄せた。どうやら懐いてしまったようだ。


「なぁに和んでんだよ、テメエら」


突如聞こえてきた聞き慣れた声に、アヤメと魔物が同時に顔を上げた。

そこには、オランが魔界の王らしく堂々と威厳を放って立っていた。


「寂しいからって、魔物と遊んでいたのか?大した女だぜ」

「オラン、違うの…!この子、悪気はないの。きっと迷子なのよ」


アヤメが一生懸命になって魔物を庇うものだから、オランは可笑しくなって笑った。


「迷子だってよ?無様だなぁ、ディア」

「えっ………!?」


オランが魔物に向かって『ディア』と呼んだので、アヤメは驚きに声を上げた。


「コイツはディアだぜ。どうやら魔獣の姿に戻ったようだな」


ディアは魔獣に戻ると自我を失くし、完全に野生に還る。

だが、この姿でもオランには絶対服従なのだろう。体を小さく丸めて大人しくしている。

アヤメは信じられないと言った様子で、普段の青年・ディアを思い浮かべて、目の前の魔獣と見比べてみる。

確かディアの魔獣の姿は封印されていて、オラン以外には封印を解除できないと言っていた。


「ディアさん、どうして魔獣に戻っちゃったの…?」

「満月の夜に限って、たまに戻っちまうんだよなぁ。面倒くせえ」


アヤメは空を見上げた。そう言えば確かに、今夜は見事な満月だ。


「アヤメ、よくディアに食われなかったな?……いや。ディア、よく食わなかったな」

「えっ…!?えっ!?」


軽々しく恐ろしい事を口にするオランに、アヤメは今になって恐怖を実感して震えた。


「ディアは人に懐くような魔獣じゃねえ。誰でも見境なく食らう凶暴なヤツだ」


確かに、その獰猛な『獣』特有の鋭い爪と牙を見ると、説得力がある。


「だが、ディアはアヤメを認めたようだな。オレ様以外に懐いたのは初めてだぜ」


それに万が一、ディアがアヤメを襲ったとしても、指輪の魔力がアヤメを守る。

だからこそ、オランはアヤメを助けずに、ディアの事も『試して』いたのだ。


「ホラ、戻れ、ディア」


オランは魔獣に向かって片手をかざした。

何か呪文のようなものを呟いていたが、アヤメには聞き取れない。

最後の言葉だけは、ハッキリと言い放った。


「封印」


すると、一瞬にして魔獣の姿が光に包まれて、飲み込まれたと思ったら……その姿が、みるみる収縮していく。

人と同じくらいの大きさになると止まり、やがて光も消えて、そこに青年の姿が現れた。

いつもの、人の姿のディアだ。

ディアは途端に、地に両膝を突いた。


「魔王サマ、アヤメ様、申し訳ありません……!」


いつも魔王をも恐れないクールなディアの弱さが露呈されて、アヤメは逆に申し訳ない気持ちになった。

オランはディアの前に立ち、容赦なく冷たい瞳で見下ろした。


「だから、満月の夜は外に出るなっつってんだよ」

「……はい、失念しておりました……」


元はと言えば、アヤメを心配してテラスに出てしまった事が原因で、悪気など無かった。

そもそも魔王にしか制御できない凶暴な魔獣を、あえて側近にしたのは何故か。

いや、『だからこそ』オランは、ディアを側に置いたのだ。

それが、ディアを救う唯一の手段でもあった。


「だが、いい事が分かった。アヤメはディアの契約者にも相応しい器だ」

「ディアさんの契約者?」


普通の人間なら、魔物を目の前にした時に取る行動は『逃げる』か『攻撃』の、どちらかだろう。

しかしアヤメは『何もしない』という、誰も傷付かない方法を選んだ。

魔物も、花も、自分をも守ったのだ。


アヤメは、地に膝を突いたままのディアに向かって問いかけた。


「ディアさんは、オランと『契約』してるって事ですか?」


だが、その質問にディアが答える前に、オランが口を挟んだ。


「アヤメ」

「はっ、はいっ!!?」


突然、強い口調で呼ばれた事に驚いて大げさな程の返事をする。もはや条件反射だ。


「ディアにも敬語を使うな」

「う、うん……分かった」


オランの一声で、アヤメの敬語口調も封印された。その従順さは見事だ。


「ディアさんは、オランと『契約』してるの?」


再び、口調を言い直してアヤメはディアに問いかけた。


「はい。魔王サマとは契約を結び、主として忠誠をお誓いしております」


つまり『契約者』はオランの方なのだ。

あれ?とアヤメは思い出した。悪魔の『契約の証』って、確か『口付け』だったのでは…?

オランと出会った日に『契約』と称してキスされた、あの時の記憶が蘇る。


「ディアさんは契約の時に、オランにキス……したの!?」

「えぇ、しましたね」

「ええええぇっ!??」


アヤメの驚き方が面白くて、オランは声を押し殺しながら笑っている。


「誰も、唇にしたとは言ってねえだろうが」


アヤメは少しホッとしたが、唇以外って…?ほっぺた?おでこ?想像してみるが、それはそれで衝撃である。


「私は、ここでアヤメ様と契約を結びます。魔王サマ、許可を」

「いいぜ。見届けてやる」


ディアはアヤメの正面で片膝を突き、もう片膝を起こして跪いた。

それは、まるで君主に忠誠を誓うような姿で。


「私はアヤメ様の魂に永遠の忠誠を誓います。契約の証を、ここに」


ディアはアヤメの左手を取った。薬指の婚約指輪が、月を反射して小さく光った。

そうして……アヤメの手の甲に、口付けをした。

これが、魔獣との『契約の証』なのだ。

だがアヤメは、難しい事など考えなかった。

今日、初めてディアの本当の姿を知り、心から分かり合えた気がして嬉しかった。

アヤメは少し照れながら、跪くディアの視線の位置まで屈んで微笑んだ。


「これからもよろしくね、ディアさん」

「はい。アヤメ様」


ディアも一瞬、照れたような表情を見せたのは……気のせいだろうか。



こうして、オランと同様に、アヤメもディアの『契約者』となった。

魔獣は契約者となった者を『あるじ』とし、絶対服従を誓う。

それは、例えディアが魔獣の姿に戻って自我を失おうと、効果は失われない。

だが……その契約がなくとも、3人はすでに分かり合っていた。

では、この『契約』をした本当の意味とは、何なのだろうか?



「さて、アヤメ。もう夜更かししすぎだ、戻るぜ」

「うん。オランが居ないと眠れなかったの……だから…抱いて?」


アヤメの言う『抱く』とは『抱きしめる』の意味である。

上目遣いで、あまりにも可愛い『おねだり』をする婚約者に、オランは衝動が抑えられなくなった。

場所も構わず、ディアの目も気にせず、アヤメを強く抱きしめた。

今夜はもう、理性を抑えるのは不可能だろう。


「よし、今夜はキスよりも良い事を教えてやるぜ」

「え、今度は何?また新しい習慣?」

「魔王サマ、度が過ぎます!!アヤメ様も喜ぶ所ではありません!」


すかさず、ディアが厳しい口調で二人を制止した。





オランは、アヤメを『契約者』にしたが、ディアの『契約者』でもある。

アヤメは、オランとディアの『契約者』となった。

ディアは、オランとアヤメを『契約者』とした。

魂が存在する限り、契約は永遠の誓いとなる。

ここに、3人の『永遠の絆』が繋がった。





ディアが、アヤメと契約を結んだ本当の理由。

それは、契約時のディアの『誓いの言葉』にある。

『アヤメの魂に誓う』という言葉。

『魂』が存在する限り、例え体が滅びようと、名が変わろうと、契約は永遠に有効なのだ。




それは、いつか訪れる遠い未来の『魂の輪廻りんね』の時まで、共に在りたいと願う儀式だった。

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