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第19話『愛妻の手料理』

ある日の朝。ここは、城の図書館。

アヤメとリョウは午前中、この図書館で勉強をするのが日課である。

勉強とは言っても、好きな本を読むだけの自習であった。



読書用の机に、アヤメとリョウが並んで座っている。

今日は二人の他にもう一人、図書館に来ている人物がいる。

それは今まさに、無数の本棚から本を選んでいるディアだ。

ディアは数冊の本を選ぶと、それを抱えて二人の座る机の方へと歩いて行く。

机の前まで来ると、それらの本をアヤメの目の前に置いた。


「今日から、こちらの本をお読み下さい」


アヤメが、積み重ねられた数冊の本から1冊を手に取って確認する。

それは、人間の『妊娠・出産・子育て』に関する本だった。

今のアヤメに必要な知識を学べる、実用的な本だ。

アヤメは、やる気満々で意気込んだ。


「うん、お母さんになるんだもん、頑張らなきゃ…!」

「それ、何の本なの?ボクも読みたい!」

「リョウ様は、こちらの本を読みましょうね」


ディアは笑顔で、リョウの目の前に分厚い文学書を置いた。

リョウは幼児でありながら、難解な文学書でも読めてしまう。

読めはするが、どこまで理解できているのかは不明である。

それよりもアヤメは、迷う事なく本を選んで持って来たディアに驚いた。


「ディアさん、図書館の本にも詳しいの?」

「はい。ここの本は全て読み尽くしました」

「ええ!?全部!?」


難しい本を読むリョウもすごいが、ディアはもっとすごかった…。

アヤメは口を開けたまま、二人を驚きの目で見つめていた。


その後すぐに、ディアは魔王の側近としての仕事に戻る為、図書館を後にした。

アヤメとリョウは、図書館で黙々と本を読みふけった。





お昼休憩の時間になると、二人は魔王専用の食堂に向かう。


昼食を食べ終わった後、アヤメは同じテーブルの隣に座るオランの方に体を向けた。


「ほら見て!お腹、ちょっと膨らんできたのよ」

「飯食ったからじゃねえのか?」

「ちがうもん〜!」


アヤメは、ワンピースの布のシワを両手で押さえて、お腹を突き出して見せた。

そのポーズをすると、お腹よりも胸の膨らみが強調されてしまうのだが……。

確かに、お腹が少し膨らんでいるように見える。

入浴時に確認してみるか…と考えながらも、オランは安堵していた。

人間が初めて悪魔の子を身籠ったとして経過が心配されているが、今の所は順調だ。

『つわり』もなく、体調も良さそうだ。


「それでね、今、お母さんになる為の勉強をしているの」

「へぇ?今日は何を学んだ?」

「あのね、すごく驚いたんだけど……」

「何がだよ」


「キスで子供はできないんだって!」


「…………」


以前、キスでアヤメが懐妊したと勘違いしかけたオランは、何も言い返せない。

だが念の為、オランはアヤメに確認の質問をしてみる。


「なら、なんで子供ができたんだよ」

「う〜ん……愛?」


間違ってはいないので、否定はしなかった。

このペースだと、アヤメが本当の答えに辿り着くのは、いつの日なのか。

ふと、アヤメは反対側に座るリョウの方を向いた。

リョウは、皿の上に残った肉料理をじっと見つめていた。


「あれ?リョウくん、食べないの?お肉好きだよね?」

「うん。でもボク、お魚も食べたい」


それを聞いて、アヤメは気付いた。

確かに最近、魚料理を食べていない。

悪魔は基本的に肉食で、食事と言えば肉料理がメインだ。

他に野菜や果物も食べるし、朝食にはパンも食べるから、栄養的には問題ない。

だが…やはり、物足りなさを感じる。


「そうだね。でも、いい子だから、残さずに食べようね?」

「はーい」


アヤメの優しい言い聞かせに、リョウは素直に返事をする。

リョウに対するアヤメの言葉には、すでに母親らしさを感じる。

まだまだ母としての知識も経験も足りないが、自然と母性は芽生え始めている。

アヤメは再びオランの方を向いた。その目は何故かキラキラと輝いている。


「オラン、私がご飯を作る!!」


オランは食後のコーヒーを一口飲み、「ハァ?」と一言。


「私、料理は得意なのよ。お魚料理も作れるの」

「いや必要ねえだろ、コックがいるだろうが」

「私が作りたいの!食べてほしいの!」


オランとしてはアヤメの体を気遣ったのだが、アヤメはやる気満々だった。

人間界の料理というのも興味はある。

何よりも、アヤメという愛妻の手料理に興味がある。

体調の良い日に、という条件付きで、オランはアヤメにキッチンの使用を許可した。





アヤメが『料理をする』と意気込んでから数日後。

その頃から、アヤメに異変が起き始めた。





朝、オランが目を覚ますと、目の前には目をパッチリ開けているアヤメの顏があった。

先にアヤメが目を覚ましていて、オランが起きるまで待っていたのだ。

それ自体は珍しい事ではない。


「おはよう、オラン」


アヤメは小声で囁くと、目覚めたばかりのオランの唇にそっと口付ける。

朝の習慣のキス。これも、いつも通りだ。


「おはよう、オラン」


……おかしい。その言葉は、すでに聞いた。唇にも再び同じ感触を感じる。

アヤメが、2度めのキスをしてきたのだ。

オランは意識を集中して眠気を飛ばし、アヤメを注意深く見る。

アヤメは恍惚とした表情で、何度キスしても足りないとばかりに唇を重ねてくる。

正気を失い、ただ夢中になって『キスに溺れている』ように見える。

……明らかに、何か様子がおかしい。


「アヤメ!」


アヤメの顏を両手で包み、止まらないキスをようやく阻止した。


「オラン、もっと…キス…キスして…」


まるで中毒症状のような連続のキス。

単に甘えているのか、寝惚けているのか?と、オランは不審に思った。

……しばらく様子を見ていると、アヤメは落ち着いてきた。

完全に目が覚めたのか、しっかりと合った焦点でオランの瞳を見返している。


「アヤメ、一体どうした?」

「ん…なんか急に変な気分になって……」

「どんな気分だ?」

「すごくキスがしたくなって…キスすると落ち着くの」


それを聞いたオランは、これまでを思い返した。

日々、アヤメを調教しているとはいえ、ここまでキスに溺れてしまったのか…?

いや、調教というよりは、発作的であった。

その時、オランはある可能性に気付き、思わず上半身だけで起き上がった。


「………『つわり』か……!?」


『つわり』であれば本来、気分が悪くなったりするものだ。

だが、『悪魔の子を身籠った』アヤメに現れた症状は、それとは逆であった。

体が、無性にキスを欲する。

妊娠すると、特定の何かをひたすら食べたくなるのと同じように。


懐妊によって、アヤメに起き始めた異変。

それは、キスを欲し、キスで気分が良くなるという、発作的な『つわり』であった。




リョウも目を覚まして、3人は寝室で普段着に着替える。

アヤメが着るのは今日も、ゆったりとしたワンピースだ。


「今日は私がお昼ご飯を作るから、楽しみにしててね!」


アヤメは、オランとリョウに向かって自信満々に言った。

リョウは「楽しみ!」と大喜びだが、オランは先ほどの事もあって不安しかない。


「大丈夫なのかよ」

「大丈夫、料理は得意なのよ」


オランが心配なのは料理ではなく、アヤメの『つわり』の事だ。

また先ほどのような発作が起こったら、キスして静めるしかない。

まさか、誰構わずキスを求める訳ではないだろうが…。

オランは今日も仕事に身が入らなさそうだ。





そして、その日の午前中。

魔王専用の食堂のキッチンには、アヤメが立っていた。

あらかじめ注文しておいた食材も全て揃っている。

一人で作りたいというアヤメの要望で、キッチンは貸し切りだ。

アヤメを心配する悪魔のコック達が、少し離れた場所で見守っている。

しかしアヤメは手慣れた様子で包丁を扱い、下拵えをしていく。


しばらくすると、コックの他にも物陰からアヤメを見守る、何者かの姿があった。

その威厳と存在感は隠せない、オランである。


(へぇ……手際がいいな)


オランは関心しながら、キッチンに立つアヤメの背後から近付いた。

味噌汁の味見をしていたアヤメが、気配に気付いて振り返った。


「あっ、オラン。来てくれたの?」


アヤメが嬉しそうに微笑んだ。

だが、アヤメの姿を見たオランは、今までにない衝撃を受けた。

アヤメが、エプロンを着ていたからだ。

メイドのようなフリフリで可愛いタイプの、ピンクのエプロンだ。

愛する妻が料理をする姿だけでも愛しいのに、エプロンという極上のスパイスを上乗せしている。

キラキラと輝いて見える立ち姿、その可愛さの破壊力は想像を絶していた。


「ごめんね、ご飯はまだなの。もうちょっと待ってて……」

「待てねえ」

「え?」


「今すぐ食いてえ」


アヤメに料理をさせている場合ではない。

……アヤメという極上の食材を、料理してやりたい。


アヤメに魚を捌かせている場合でもない。

……エプロン姿のアヤメを、捌いてやりたい。


まな板ではなく胸板の上で、どう調理してやろうか。


気付けばオランはアヤメの背中から両腕を回し、抱き寄せていた。


当然ながら、ご飯の事を言われたと思ったアヤメ。


「オラン…?だめ、つまみ食いは、めっ!よ」


エプロンに加えて、ほんのり母性も芽生え始めたアヤメの一言。

それがアヤメという食材に対して、どれだけオランの食欲を煽っているか。

……つまみ食い程度では、腹は満たされない。

オランの中で僅かに残った理性が、ある疑問を生じさせる。

一体誰が気を利かして、このようなエプロンをアヤメに渡したのか?

水着の時といい、全てはディアの気遣いなのか……?

そんな事を考えていると、アヤメがぼーっとした顏でオランを見つめていた。


「オラン……私、なんか変なの……」


これは…この表情は、今朝と同じ。

抱き寄せられてオランに触れた事が引き金となり、『つわり』が起きたのだ。

アヤメはオランの方を向いて、正面から背伸びをする。

物欲しそうにして、懸命にオランの唇に近付こうとする。


「はやく……キスして……」


オランは、思わず息を呑んだ。

エプロン姿で、この『おねだり』は……マズい。

昼前なのに、食欲よりも別の欲が勝ってしまっている。

とは言え、キスをしなければ、アヤメの『つわり』は治まらない。

その時、二人を陰から見守っていたコックの一人が、素早い動きで飛び出してきた。

キス寸前の二人の後ろに回り、沸騰寸前の味噌汁を加熱している火の元を消した。

そして目にも留まらぬ動きで走り去り、元の死角に隠れた。

魔法も使わずに、気配を消しながらの俊敏な動き。まさに黒子だ。

悪魔のコックも、ただ者ではない。

熱くなりすぎた味噌汁と、コック達の熱い視線など忘れて、二人は熱いキスを交わす。


「どうだ、これで落ち着いたか?」

「う…ん…念のため、もう1回……」


そう言って何度もキスを求めてくるアヤメは、単なる『おねだり上手』にも見える。

数回のキスで気分が良くなり、落ち着いたアヤメはスッキリとした顏をしている。

逆に、この後また仕事に戻るオランには、何とも言えぬモヤモヤを残した。

オランがアヤメに触れると、『つわり』が誘発される。

変なタイミングで触れるのは危険だと学んだオランだった。





それから数時間後、正午。

オランが食堂に入ると、いつもとは違った不思議な香りに包まれて、思わず足を止めた。

すぐ前では、アヤメが出来立ての食事をテーブルに並べている。

オランが食堂の入り口で立ち尽くしていると、アヤメが気付いて笑顔を向けた。


「オラン、お疲れ様。ご飯できたから、座って」


愛妻がご飯を作って、迎えてくれる……。

当たり前のような夫婦の幸せを、オランは噛み締めていた。

少しするとリョウもやってきて、いつもと違う食事のメニューに、大はしゃぎしている。


「わ〜、お魚だ〜!!これ全部、お姉ちゃんが作ったの!?」

「うん、そうだよ。いっぱい食べてね」


これらの料理は、ディアと食堂のコック達の分も作ったのだ。

別のテーブルでは「王妃様の手料理…!」と、悪魔のコック達が感動の声を上げている。

エプロンを脱いだアヤメが、ようやくオランとリョウの間の椅子に座る。

そこへディアもやってきて、アヤメ達の向かい側に着席する。


「アヤメ様、お体は大丈夫でしょうか」


ディアは料理の事よりも、まずアヤメの体を気遣った。


「大丈夫。ディアさんも、いっぱい食べてね!」


オランは、テーブルの上の見慣れない料理の数々を物珍しそうにして見ている。


「見た事ねぇモノばかりだな。何ていう料理だ?」

「これは和食よ。私が好きな料理なの」

「ワショク?人間界の料理か。このスープは何だ?」

「これは、お味噌汁。日本の伝統的な汁物なのよ」

「オミソシル?なんだそりゃ」


いつもはアヤメが何でも聞き返す立場なのに、今は逆だ。

何でも聞き返してくるオランが面白くて、アヤメは得意げに答える。

今回の和食のメニューは『焼き魚』『山菜の煮物』『ご飯』『味噌汁』など。

焼き魚は鮭に似ているが魔界の魚であり、山菜も同様である。

和食のメニューを魔界の食材で再現した、とも言える。


「薄味だがクセになるな」


普段は肉料理ばかり食べているオランも、アヤメの手料理には癒されたようだ。


「上品なお味ですね。見た目も美しいですし、体にも良さそうです」


ディアは味だけでなく、見た目や健康面からもアヤメの料理を評価した。


「お魚もスープも、おいしいよ〜!」


リョウは久しぶりの魚料理に大喜びしながら完食した。


そして全員が完食したのを見て、アヤメは嬉しい満足感で笑顔になった。


「ふふ、良かった、喜んで…くれ……」


最後まで言い終わる前に、アヤメは急に自分の口元を片手で覆った。

笑顔も消えて、何かを我慢して耐えているようだ。

アヤメの異変に気付いたのは、正面に座るディアだった。


「アヤメ様、どうされました?もしや、ご気分が…?」


アヤメは口元を手で隠したまま、首を横に振っている。

気分が悪いのではない。キスをしたい衝動を必死にこらえている。

……『つわり』が起きたのだ。

さすがに、この場でオランに何度もキスをする訳にもいかない。

ここは食堂であり、目の前にディア、隣にはリョウが座っている。

少し離れたテーブルにはコック達もいる。

『つわり』の症状を知らないディアには、アヤメが吐き気で苦しんでいるように見えた。

その時、隣に座っていたオランも、アヤメの異変に気付いた。

それが『つわり』である事も察した。


「アヤメ、休んだ方がいい。行くぞ、立てるか?」

「う、ん……行く……」


アヤメは口を手で塞いだまま、オランに体を支えられて椅子から立つ。

そして二人はゆっくりと歩いて食堂から出て行った。

ディアは心配そうにして二人を見送った。

やはり、アヤメ様の『つわり』はお辛いのだろう……

と、この一連を見たまま、素直に受け止めた。



食堂から出ると、人気のない長い廊下が続く。

アヤメはもう限界なのか、フラフラして足元がおぼつかない。


「オラン、もう私、我慢できない……」

「クッ……ちょっと待ってろ」


オランは周囲を見て人通りがないのを確認すると、アヤメの体を壁に押し付けた。

このまま、ここでキスを済ませてしまうつもりだ。

アヤメの前に立ち、両手を壁に突いて『壁ドン』の体勢になる。


「気分が良くなったら言えよ」

「うん……」


そうしてオランは、壁を背にするアヤメに迫り唇を重ねた。

その時、食堂の扉が開いて、ディアが廊下へと出てきた。

医者の手配が必要か確認する為に、アヤメの様子を見に行こうとしたのだ。

だが…ディアが廊下で目にしたのは、壁ドンの体勢で濃厚なキスをする二人の姿であった。

一度のキスでは終わらない。何度も、何度も……。

オランは壁に向いているので、視界にはアヤメしか映らない。

だがアヤメには、遠目で呆然とこちらを見て立ち尽くすディアの姿が見えた。


「ん〜!……んん〜〜!!」


アヤメが必死に伝えようとするが、その気になってしまったオランが深く口を塞いでいる為に声が出せない。


(オラン、見てる!!ディアさんが見てるの〜〜!!)


(アヤメ…そんな声が出るほどに良いのか…?)


都合の良い解釈でキスに自惚れるオランには、アヤメの訴えは届かない。

口を解放したいアヤメが顏を背けようとする。

だが、オランが逃がさないとばかりに、アヤメの顎を片手で掴んだ。

片手は『壁ドン』、もう片手で『顎クイ』である。

ディアは無言で背中を向けると、食堂の扉を開けて中へと戻って行った。


本来の目的を忘れてしまったオランの口付けからは、逃れられない。

アヤメも諦めたのか、調教されてしまったのか……

次第に、甘い熱に意識を奪われていく。

その快楽が『つわり』によるものなのか、『調教』によるものなのか、すでに分からない。

何も考えられない……アヤメはもっとオランを感じたくて、目を閉じた。


その後もしばらく、二人の熱いキスシーンは続いた。

そしてオランは、脱力して歩けなくなったアヤメを『姫だっこ』して寝室へと連れて行く。

食後のデザートを頂くため…いや、これがメインかもしれない。

……長い昼休憩になりそうだ。





その日の午後、執務室にて。

ディアは今回も何事もなかったかのように、魔王の側近としての仕事をこなす。

しかし、こういう時のディアは、心なしかオランへの対応が冷たくなる。

アヤメの『つわり』の症状については、ディアに真実を話す必要があるだろう。

ディアと二人きりの時を狙って、オランは話を切り出した。


「ディア、さっきの廊下での事だが……」

「あぁ。なるべく人目に付かない所でお願いします」

「そうじゃねえ、あれは『つわり』への対処なんだよ」

「……は?」

「無性にキスがしたくなる症状らしいぜ」

「ご冗談を。そんな『つわり』は聞いた事がありません」


それも、そのはず。前例がないのだから。

そもそも、キスをしたくなるのは、オランの調教のせいではないか?

そんな疑問の目を向けられて、なかなか信じてはもらえないオランであった。





その後、アヤメ本人の説明によって、ようやく納得したディアであった。

悪魔の子を身籠った、初めての人間。

アヤメの身体に起きる変化は、今後も予測ができない。

それは、前途多難な日々の始まりでもあった。

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