オランとアヤメが夫婦となっても、日常生活は変わらない。
朝が来れば、いつも通り起きて、いつも通りキスを交わす。
そんな、いつもの朝。
アヤメは着物に着替え終わると、寝間着を丁寧に畳んでベッドの上に置いた。
リョウも真似をして寝間着を畳んで、アヤメの寝間着の横に置いた。
その時、先に着替え終わっていたオランが唐突に話を切り出した。
「アヤメ。今度の休日に出掛けるぞ」
突然の事にアヤメは、なんで?どこへ?と疑問を口に出そうとしたが、その前に思い出した。
この前、オランが『今度の休みに魔界の名所に連れて行ってやる』と約束してくれた事を。
オランとの初めての『デート』の約束だ。
結婚の後になったので、日帰りの新婚旅行とも言える。
アヤメは、パッと明るい笑顔になってオランの言葉の続きを待った。
「どこへ行きたいか?」
「どこでもいい、オランと一緒なら、どこでも嬉しい…!」
「海と山だったら、どっちがいいか?」
「海!!」
その二択に、アヤメは即答した。
人間界で森の近くの村に住んでいたアヤメは、海を見た事がないからだ。
「いいぜ。なら水着が必要だな。海に入るだろ?」
「うん、入る!!入ってみたい!!」
アヤメは嬉しさのあまり、前のめりのハイテンションだ。
そんなアヤメの着物の袖を、下からチョイチョイと引っ張る小さな手があった。
「ボクも行きたい」
リョウは、期待の眼差しでアヤメを見上げる。
アヤメはリョウを見下ろし、喜びの勢いのまま言葉を続ける。
「うん!リョウくんも一緒に……」
「それはダメだ」
オランの力強い一言に、室内が一瞬にして静まり返る。
何故?と言わんばかりに、アヤメとリョウは疑問の目でオランを見返す。
オランにしてみれば、今度の外出は『新婚旅行』の意味合いだ。
当然、アヤメと二人きりで行きたい。ここは譲れないのだ。
……だが相手は、まだ未熟な17歳と幼児。その意味を理解していない。
「なんで?オランの、いじわる〜!!」
「なんで?お兄ちゃんの、いじわる〜!!」
頬を膨らませて、まるで二人とも子供のようだ。
これでもアヤメは、オランの嫁……であるはず。
二人同時に同じ調子で迫られたオランだが、怯まずに返す。
「あぁ〜!!うるせえ、うるせえ!!命令だ、ダメと言ったらダメだ!!」
これではまるで、子供を叱る頑固オヤジのようだ。
アヤメはオランの『命令』を拒めない。
「ダメだって。ごめんね、リョウくん」
「……うん」
リョウは聞き分けの悪い子ではない。しょんぼりしつつも頷いた。
「後で部屋にメイドを呼んでやる。水着を発注してもらえ」
オランはそう言うと、黒いマントを羽織って部屋から出て行った。
寝室に残された、アヤメとリョウ。
先ほどのハイテンションは見る影もない。
アヤメは、ハッと気を取り直してリョウに笑顔で話しかける。
「また別の日に一緒にお出かけしよう、ね?」
「…………」
リョウは顏を俯かせて、何も返さない。
素直で明るいリョウらしくない。どうしたのだろうか?
この前、アヤメとディアが一緒に城下町に出掛けた時も、リョウは城に置いていかれた。
アヤメと一緒に寝たいのに、何故かたまに別の部屋に連れて行かれる夜がある。
オランとアヤメが結婚してからは、さらにそんな日が増えた。
リョウは幼いながらに、自分が邪魔者なのではないか、という不安を感じていた。
食堂で朝食を終えると、アヤメとリョウは寝室に戻った。
しばらくすると、オランが言った通り、悪魔のメイドが部屋を訪れた。
アヤメを薄着に着替えさせると、体のサイズを測っていく。
巻き尺のような物でアヤメの胸のサイズを測っていたメイドが、思わず感嘆の声を漏らした。
「王妃様、素晴らしいスタイルでいらっしゃいますね」
「え?王妃って……あ、私?」
アヤメはまだ、王妃と呼ばれる事に慣れていなかった。
ついでに言うと『スタイル』という言葉の意味も理解していない。
「それでは、このサイズで水着を発注させて頂きます」
メイドは丁寧にお辞儀をして退室した。
アヤメのスリーサイズの情報は、後ほどオランの手にも行き渡るに違いない。
アヤメは着物に着替えると、ベッドに座った。その横にはリョウも座っている。
「ふふ、楽しみだなぁ〜、海」
「…………」
一緒に海に行けないリョウは、やっぱり落ち込んでいる。
先ほどから黙っていて、アヤメに合わせて笑う事もしない。
やはり、いつものリョウらしくなかった。
その日の夜に、それは起こった。
寝室のベッドの上には、アヤメ、オラン、リョウ。
いつものように、まずアヤメは、リョウを寝かし付ける。
「お休みなさい、リョウくん」
「…………」
リョウの返事が返ってこない。こんな事は初めてだ。
リョウは、朝の事をまだ引きずっているのだろう。
だが喜びに浮かれていたアヤメは、すっかりその事を忘れていた。
「どうしたの?リョウくん。元気がないね、どこか痛い?」
アヤメは悪気があった訳ではない。リョウを気遣っただけだ。
だがリョウは、的外れなアヤメの気遣いに、さらに気持ちを沈めていく。
悲しいような、思い詰めたような…リョウは水色の瞳を潤ませて俯いている。
そして顏を上げるのと同時に、リョウの口から衝撃の一言が放たれる。
「ボク、天界に帰りたい」
ぼそっと小声で呟いた一言だが、それはアヤメにとっては大きな衝撃だった。
一瞬の沈黙。
その空気を破ったのは、二人の後ろで聞き耳を立てていたオランだった。
「お〜いいぜ、いいぜ、さっさと帰れ」
本音なのか、からかっているのか、その軽い口調に反応したのはアヤメ。
オランの方を振り返ると、今までにない鋭い瞳で、キッと睨みつけた。
「もう、やめてよっ!!オランは黙ってて!!」
そのアヤメの叫びとも言える訴えに、オランは今までになく怯んだ。
今のは、アヤメだよな…?アヤメが言ったんだよな…?
信じられないようなアヤメの気迫に、オランの脳内には疑問しか浮かばない。
かと思うとアヤメは、次にはポロポロと大粒の涙を零し始めた。
「なんでぇ?リョウくん、なんでそんな事言うの〜?うぇ……ひっく……」
突然の大泣きに、リョウも目を丸くしている。
もはや、アヤメの独壇場である。
「だってボク、ジャマだもん…」
「邪魔じゃないよ、リョウくん、帰るなんて言わないでぇ……」
これでは、どちらが子供か分からない。
結婚して王妃となって、最近は大人びてきたと思っていたのに…
まだまだ未熟で不安定な年頃のアヤメの急変に、オランも追い付けない。
だが、ここは唯一の大人であるオランの出番だ。
「アヤメ、冷静になれ」
オランがアヤメの両肩を掴んで引き寄せ、強く言い聞かせる。
その真剣な眼差しを受けて、アヤメは一瞬にして涙を止めた。
「あのガキを魔界で預かる期間は決められていねえ。その意味が分かるか?」
「え……分かん…ない……」
「アイツが自分で帰りたいと言った時。その時が期限だ」
リョウは魔界で、天界とは違った空気に触れながら様々な事を学んでいる。
天使には、父も母もいない。
天界の王、つまり天王から生み出される存在だからだ。
魔界の王宮で暮らす毎日はリョウの心を満たし、温かい感情を育てた。
アヤメとオランは、姉と兄のようで……親のような存在でもある。
リョウの心が成長し、自ら天界に帰りたいと思った時。
その時が、リョウの独り立ちの時なのだ。
「アイツは大人になった。アヤメも大人になれ」
「うぅ……うん……でも……」
オランはまるで、リョウの父親のような口ぶりになっていた。
……いつかは、こういう時がくる。
頭で理解しようと思っても、感情が追い付かない。
アヤメは涙をグッとこらえて、リョウの方を向いた。
すると、リョウはすでに、何事もなかったような顏をしていた。
それどころか、アヤメに手を伸ばして『おねだり』を始めた。
「お姉ちゃん、だっこー!」
「え、うん、いいよ」
アヤメはベッドの上で、リョウを抱っこした。
もうすぐ天界に帰るガキの事だ、このくらい許してやろう…と、オランは黙っていた。
「お姉ちゃん、ちゅーして」
「え、うん、いい……」
「オォイッ!!!」
エスカレートするリョウの要望に、オランが思いっきりツッコんだ。
さすがに、それは黙っていられない。
「調子に乗ってんじゃねえぞ、ガキが!!」
「だって、お姉ちゃんとお兄ちゃん、いつもちゅーしてて、ずるい!」
「そうよね。魔界では一緒に寝る人とキスするのが習慣なのよね」
「ぐっ…!!」
珍しく、オランが押された。
まさか、アヤメに言いくるめられてしまうとは……。
しかも、その習慣はアヤメを『調教』する為の、オランの嘘である。
3人は毎日、同じベッドで寝ている。
そうなると、アヤメとリョウだけでなく、オランとリョウも毎日、寝る前と寝起きにキスをしなくてはならない事に…。
……それは避けたい。だが、今さら嘘とも言えない。
「それは、悪魔と人間にのみ適用される習慣だ」
苦しい言い訳であった。
「オラン、いいじゃない。キスは減るものじゃないし」
「減るんだよ、色々!!何かが!!」
オランは自分でも、アヤメに何を言っているのか分からなくなってきた。
その時、アヤメと、アヤメに抱かれているリョウが、同時にオランを責め立てた。
「オランのけち〜!!」
「お兄ちゃんのけち〜!!」
二人とも、子供だ。目の前に、子供が二人いる……。
一人は、オランの嫁であるはずだが……。
その時オランは、ある事に気付いた。
リョウは、大人になったのではない。単に『拗ねていた』だけであったと。
17歳のアヤメですら、こんなにも未熟で不安定な心なのだ。
幼児のリョウなら、なおさらであった。
オランの読みは、甘かった。
「さっさと天界に帰れ、このガキ!!」
「やーーだーー!!帰らない!!!」
「オラン、だめ!!……めっ!」
「…………」
「ごめんね、オランお兄ちゃんヒドいよね、こわかったね〜…」
「…………」
アヤメに『ヒドい人』扱いされた事よりも、『めっ!』の可愛さに思考が停止するオランであった。
……だが、ここは、気を取り直して。
大人であるオランが、ビシっと言ってやらねば…と、気合いを入れる。
「よし、説明してやる。テメエら、そこに座れ」
オランはビシっと二人を指差した。
真面目な顏で座れと言われても、ここはベッド上である。
素直なアヤメとリョウは、言われた通りにベッドの上で並んで正座をした。
オランはあぐらをかいて腕を組んで、まさに頑固オヤジの風貌だ。
「結婚してから最初の旅行は、夫婦二人で行く特別なモンなんだよ」
少し照れながらオランは言う。本当は堂々と言葉で言いたくなかったのだろう。
その言葉を聞いたアヤメは、あっ!と思い出した。
「結婚したら、最初にする特別な事……あの時みたい……」
何を思い出したのか、アヤメは膝の上に両手を乗せてモジモジと身じろぎをしている。
オラン以上に照れながら、顏を朱に染めて口ごもっている。
アヤメにとって『結婚初夜』は、一生忘れられないほどの熱い夜であった。
同時に、今度の外出が特別な意味を持つ事を知って、アヤメの心は喜びに満ち溢れた。
「そう言ってくれればいいのに、もう、オランったら……好き」
「くっ…わざわざ言わせるな!」
「ふふ、嬉しい……オラン、大好きよ」
「当然だ、何度でも言え」
リョウはラブラブな二人を見て、素直に納得したようだ。
決して、自分が邪魔者扱いをされていた訳じゃない。
そして、二人に嫉妬をしていた訳でもない。
もっと二人がラブラブになれるように協力したいと、前向きな明るさを取り戻した。
誰かの役に立ちたい、それがリョウの行動理念なのだ。
「うん、分かった!ボク、お留守番してるね」
「リョウくん……!!」
アヤメは感極まって、リョウをぎゅ〜っと抱きしめた。
小さなリョウの頭は、アヤメの柔らかい胸の谷間に埋まってしまっている。
「リョウくん、ありがとう!また今度、一緒に海に行こうね〜!」
「うん!ボク待ってる!!」
「コラ、ガキ!!どこに顏埋めてんだ!!離れろ、代われ!!」
「え〜、オランだって、いつも埋めてるのに……」
「お兄ちゃんばっかり、ずるい〜!」
「あぁ〜!!うるせえ、うるせえ!!命令だ、代われと言ったら代われ!!」
魔王をも振り回し掻き乱す、人間の少女と天使の子供。
アヤメもリョウも、すっかり魔界に染まってしまったせいか……
二人は天使の姿を持つ悪魔、『小悪魔』に違いない。