「出てこいよ。じゃなきゃ、コイツが死ぬぜ?」
死神の少年は足元に倒れている男を、まるで人質に取ったような口ぶりで言う。
魂を抜かれた村人の男は、仰向けに倒れたままピクリとも動かない。
アヤメは恐る恐る木々の隙間から出て歩み寄ると、少年の前に立った。
きっと、逃げられない……アヤメの本能が、そう感じさせていた。
「あの……あなた……は?」
「見りゃ分かんだろ、死神だ」
見た目は10歳ほどの少年だが、射抜くような目を向けられたアヤメは静かに怯える。
「へぇ………」
アヤメを見た死神は何かに感心するような声を出した。
そして、嬉々とした顔で口の端を吊り上げた。
「お前の魂、見た事ねぇ色だ」
「え?」
アヤメは何の事を言われたのか分からずに、立ちすくんでいる。
どうやら死神には、人間の魂が見えるらしい。
「純白の魂、美味そうだなァ?」
その笑みは、アヤメを極上の獲物として捉えているようだった。
死神は手に持っていた魂の球体を、仰向けに倒れている男の胸元めがけて放り投げて落とした。
魂は、男の胸の中に吸い込まれるようにして消えていった。
「その人……無事…なの……?」
アヤメは自分の事よりも、その村人の身を案じて死神に問いかけた。
「あぁ?コイツか。魂を一口かじったくらいで死なねえよ」
もはや、死神の興味はアヤメの方に向けられているようだ。
死神は鎌を構えると、その鋭い刃先をアヤメに向けた。
「代わりにお前の魂を食わせろ」
もはやアヤメを人間ではなく『極上の魂』としか見ていない。
アヤメは震える足で一歩下がった。
「い、いや………」
死神に魂を喰われる事、それは人間にとっては『死』。
だが、逃げる事も出来ない……成す術もない。
死神がアヤメに狙いを定め、その大きな鎌を振り上げた。
(オラン、助けて……!!)
アヤメが両手を胸の前で重ねて握りしめた瞬間。
「……なんだっ!?」
死神は驚きに目を見張り、鎌を引いた。
アヤメの指先が光輝き、激しい閃光となって死神の正面に放たれた。
その光は衝撃波となり、死神を数メートル先まで弾き飛ばした。
その勢いで、後方の木に激しく背中を打ち付けられた。
「ぐぅっ……!!」
死神は激痛に顔を歪めながら地面に倒れた。
「え……?」
アヤメは何が起こったのか分からず、光源である自分の指先を見る。
光を放ったのは左手の薬指。婚約指輪だ。
(指輪が……守ってくれた!?)
この指輪にはオランの魔力が込められていて、アヤメを危険から守る。
その事を思い出したアヤメは、今、ここに居ない愛しい人の事を思って涙を浮かべた。
しかし、次にアヤメが取った行動は、死神にすら予測の出来ない事だった。
背中の痛みで、木にもたれて座り込んでいる死神の前に立ったのだ。
すでに死神を臆する様子もない。
「大丈夫?怪我……してない?」
アヤメが顔を覗き込む。死神は驚きの目で、その優しい瞳を見上げた。
だが、次の瞬間。
「……来るな!!近寄るんじゃねえっ!!」
威嚇というよりは、何かを恐れているような拒絶だった。
アヤメは不思議に思ったが、数歩後ろに下がって距離を取った。
「それを……近付けんなっ…!!」
死神が指差す方向を見ると、それはアヤメの指輪の事だった。
指輪の赤い宝石は、まだ微かに発光している。
「それは……オレの……生命力を吸収する……」
「えっ!?そうなの!?どうしようっ……」
ここまで弱っている死神を、これ以上追い詰める事はしたくない。
危険から守る為の指輪の力なのだろうが、アヤメにとっては不本意だった。
アヤメは指輪にもう片方の手を乗せて、力を抑え込むように念じた。
(この人は敵じゃない、大丈夫、もう大丈夫……)
アヤメの想いが通じたのか、指輪の光は収まり、何の反応も示さなくなった。
アヤメは、ほっとして息を吐くと、再び死神に歩み寄った。
死神は、背中の痛みと生命力が尽きかけた事により、息を荒くしている。
アヤメは膝を折って座り、死神と視線を合わせる。
アヤメを見返す死神の瞳は、先程までの鋭さは皆無で……弱々しかった。
「ねえ、どうすれば、あなたが元気になれる?」
アヤメが優しく問いかけた。本気で死神を助けたい一心なのだろう。
「……魂か…生命力……」
死神の小さな呟きを聞くと、アヤメは少し顔を伏せて何かを考えた。
そして、決心したように顔を上げた。
「魂は無理だけど、生命力なら私のをあげる」
「………!!」
死神は力のない目をしながらも、驚きを隠せない様子だった。
「大丈夫よ。だって私、悪魔にも生命力をあげた事があるの」
それは、オランの事を言っていた。
悪魔のオランは、人間界では契約者であるアヤメの生命力を吸収しながら活動する。
「………いいのか?」
先程まで魂を強引に奪い取ろうとしていた死神が、今度は念を押す。
「うん、いいよ。あ、でも死なない程度でお願いね」
ただ純粋に相手を思いやる、温かい微笑み。
人から恐れられる自分に、こんな笑顔を向ける人間は初めてだと死神は思った。
「分かった」
一言の後、引き付けられるようにして、死神はアヤメに両手を伸ばした。
オランの時は、アヤメを強く抱き締める『抱擁』によって生命力を吸収した。
きっと今回も同じだろうと思って、アヤメは死神に身を任せるつもりだった。
………だが。
死神が伸ばした両手が、アヤメの頬を包んだ。
次の瞬間、躊躇いもなく……アヤメに口付けたのだ。
「…………っ!?」
アヤメは驚いて目を見開くが、死神が離れる様子はない。
死神が人間の生命力を吸収する方法は『口移し』なのだ。
しばらく、そのまま時が流れた。
満足するまで生命力を吸収したのだろう。
ようやく、アヤメから離れた死神は、目の前で満足そうに舌舐めずりをした。
硬直していたアヤメはハッとして、自分の口元を手で押さえた。
(どうしよう……オラン以外の人と……キスしちゃった……)
相手が子供とはいえ、それは耐えきれない程の衝撃と罪悪感となった。
だが死神は、今度は子供らしい明るい笑顔をアヤメに向けた。
アヤメの生命力を吸収して、すっかり元気になったようだ。
「お前、気に入ったぜ。オレ様のモノになれ」
アヤメは困惑を忘れて、思わずプっと吹き出して笑ってしまった。
良く捉えれば、それはプロポーズ。だが、相変わらず人をモノ扱いだ。
「ごめんね。私にはもう、結婚を約束している人がいるの」
オランの事を想いながら、左手の婚約指輪にそっと手を添えた。
それでも死神は不満そうな顔はしない。全く気にしていない様子で言う。
「なら、お前が次に生まれ変わった時は、オレ様のモノだ」
なんと、来世の約束をしてきたのだ。気が早い、とでも言うのか。
そんな遠い未来の事なんて、アヤメには何も想像が出来ない。
「ありがとう。でも……」
何度、生まれ変わってもオランと結ばれたい。
だが、その言葉を言い終える前に、死神が言葉を繋げた。
「オレ様はグリア。死神グリアだ。覚えておけよ」
そう言えば、お互い名前を名乗っていなかった。
「私はアヤメ。よろしくね、グリアくん」
アヤメの優しい微笑みに、死神は少し照れながら笑顔を返した。
「アヤメ。来世では、オレ様が守ってやるからな!」
もう来世でアヤメと結ばれる気でいるらしい死神は、堂々と宣言した。
すっかり打ち解けた死神とアヤメ。
元々、アヤメは悪魔だろうが獣だろうが惹き付けてしまう不思議な少女だ。
先程、死神に魂を抜かれて倒れている男は命に別状はなく、自然と目覚めるらしい。
アヤメが魔界から来た事を説明すると、死神が魔界へ帰る方法を提案してくれた。
「空間移動の魔法なら、お前が使えばいい」
「え?私、魔法なんて使えないよ?」
すると、死神はアヤメの左手の指輪を指差した。
「それに念じてみろ。オレ様も手伝ってやる」
アヤメの生命力を存分に吸収した死神には、力が漲っているようだった。
死神が言うに、その指輪の魔力を制御できれば、アヤメにも魔法は使えるらしい。
(私が…オランやリョウくんみたいに魔法を…?)
半信半疑だったが、オランが込めてくれた魔力と死神の助けがあれば……出来る気がした。
『空間移動』の魔法は、元はと言えば3〜4歳のリョウが使った魔法だ。
条件さえ揃えば、難しくない魔法なのかもしれない。
「絶対に出来る。オレ様に任せろ!」
「うん、そうよね」
アヤメが左手の手の平を差し出すと、そっと死神が手を重ねた。
すると『空間移動』の魔法が発動し、アヤメの全身が光に包まれる。
「アヤメ、また会おうな!約束だぜ!」
「グリアくん、どうもありがとう。またね」
そうして、アヤメは『空間移動』の魔法で魔界に帰る事が出来た。
『魔界に戻りたい』と強く念じた上に、今回は行き先がハッキリしている。
魔法は成功し、見事に城の自室のベッドの上に着地した。
これで、何事もなかったように取り繕う事は出来るだろう。
だが……アヤメはオランに全てを隠すつもりはなかった。
いや、隠せない。隠し事など決して出来ない。
しばらく放心したようにベッドで座っていると、寝室の扉が開いた。
「あっ、お姉ちゃん、お帰りなさーい。お兄ちゃんには会えた?」
リョウが笑顔で歩み寄って来て、曇りのない綺麗な水色の瞳で見上げた。
アヤメは顏を俯かせ、肩で呼吸をして、小さく喘いだ。
膝の上に、ポロポロと涙の粒が落ちていく。
「お姉ちゃん……?」
リョウが心配して、顏を覗き込んで来る。
「リョウくんの、せいじゃ……ない…よ」
オランに『ばか』と言っておいて……『ばか』なのは自分だ。
自力では何も出来ないくせに、自分勝手な事ばかりして……
リョウの力を借りて、オランの力に守られて、死神の力も借りて……
味わった恐怖も罪悪感も、全ては自業自得だ。
オランが好きだからこそ、会いに行くのではない。
オランが好きだからこそ、待つべきだったのに。
アヤメはその後、オランが帰ってくる深夜まで、大人しく待っていた。
オランは予定通り、深夜に帰宅した。
自室の扉を開けると、アヤメが寝間着姿でベッドに腰掛けていた。
オランが居なかったのだから、深夜でもアヤメが眠れないのは当然だ。
リョウは大きなベッドの端で布団を被り、すでに熟睡している。
アヤメは力なく、扉の前に立つオランの顔に視線を向けた。
「帰ったぜ、アヤメ」
見れば分かる事だが、あえて声を掛けてみた。
だが、アヤメの反応はない。泣き腫らしたような虚ろな目をしていた。
……おかしい。
ほぼ丸一日離れていたのだから、アヤメはすぐに飛びついてくるはずなのに。
「……何かあったのか?」
オランはベッドの前に歩み寄ると膝をついて、アヤメと同じ高さの目線で問いかける。
「……ごめんなさい……」
アヤメの口から出たのは、突然の謝罪の言葉だった。
オランと目を合わす事にすら消極的で、どこか視点が定まらない。
オランが真剣な眼差しで再度問う。
「謝るような事をしたのか?」
問い詰める形ではなく、遠回しに聞き出そうとした。
「オランに会いたくて、人間界に行っちゃって、死神に出会って……」
途切れ途切れではあるが、アヤメは懸命に言葉を繋げる。
今日、起きた出来事、自分の行いを隠す事なく全て説明しようと口を動かす。
目には涙が溢れていて、今にも零れ落ちそうだ。
察しのいいオランは、アヤメがリョウの魔法で人間界に飛ばされた所までは予測が出来た。
思う事は色々あるが、オランは何も返さずにアヤメが言い終えるのを待った。
「死神に……キスされて……」
何よりもアヤメが罪悪感を感じている事を口にした瞬間。
それはオランも同じだった。その言葉に、一瞬にして血相を変えた。
「………なんだと?」
低く放たれたオランの一言に、アヤメは怯えて言葉を詰まらせた。
その死神が子供であったという説明が抜けている。
だが、それを言った所で状況に大差はない。
「ごめんなさい。私はオランの物なのに……」
オランはアヤメを見て、ハッと我を取り戻して憎悪の感情を抑えた。
勝手な行動や死神への嫉妬よりも、哀しさに近い感情が込み上げてきた。
それは何よりも、目の前のアヤメが泣き崩れてしまう姿を見たくない、という本心だった。
そっとアヤメの体を抱いてやると、アヤメは背中に両腕を回して抱き返してきた。
「物とか言うんじゃねえよ」
「………うん」
「待たせて悪かったな」
「…うん、待ったんだから……」
優しくしてやれば、一転して強気に返してくるアヤメに意表を突かれる。
本当に反省したのか?これは、まだ反抗期なのだろうか?という疑問が尽きない。
いや、むしろ反抗期ならば、仕方がない。
それは成長過程の一環であるのだから。
「ねえ……キスしていい?」
首を傾げて可愛い『おねだり』をするアヤメを拒めるはずもない。
何にしても、一日を耐えたご褒美だけは、与えてやらなくては。
「思う存分しな」
「うん」
そうして、アヤメは唇をそっと触れるようにして口付けた。
どこか申し訳なさそうで控えめな触れ方に、オランは物足りなさを感じた。
この反抗期の少女は、反省はしてないが罪悪感は感じているらしい。
その瞬間にオランの中で生じたのは、今までにない破壊衝動。
死神に奪われた唇の感触など、記憶ごと消し去るほどにアヤメを壊してやりたい。
アヤメの心、身体、記憶、全てを自分だけで満たして、染めて、埋め尽くして、支配したい。
オランの方から、グっと体を押し付けた。
ベッドに座っているアヤメの上半身は背中から押し倒されて、オランを受け止める体勢になった。
アヤメはオランの背中に回した両腕にさらに力を込めて引き寄せた。
目を閉じながら深く長く、角度を変えては何度も唇を味わう。
しばらく、アヤメの気が済むまで、このまま口付けさせてやろうと思った。
だが……しばらくすると、アヤメの呼吸のリズムが変化した。
吐息とは違う。妙に規則正しいリズムだ。
不思議に思って唇を離して見ると、アヤメが寝息を立てている事に気付いた。
オランは呟いた。
「大した女だな……」
呆れるというよりは、感心した。
まさか、キスの最中に眠るとは……。
心地よかったのか、物足りなかったのか。反抗期の乙女心は理解が出来ない。
すっかり衝動は消え失せた。さすがに無防備で眠る少女を壊す気になんてなれない。
時刻は、すでに真夜中。
だが何時であろうとも、アヤメはオランが居なければ眠れない。
アヤメがオランに触れた途端に眠気に襲われたという事は、これも調教の成果を示している。
アヤメの左手を手に取る。
思った通りだ。薬指の指輪の魔力が尽きかけている。
今日はずっとオランから離れていた上に、アヤメを死神から守る為に魔力を放出したせいだ。
人間は、魔界では著しく体力を消耗する。
それを防ぐ為の指輪の魔力が弱まったせいで、アヤメの体力が激しく消耗したのだろう。
結局は、疲れ切って眠ってしまったのである。
その温かい手を優しく握って持ち上げると、オランは自身の魔力を注ぐ為に指輪に口付けた。
それが終わるとアヤメを抱き上げ、布団の中に入れて寝かせてやった。
オランはアヤメの寝顔を見つめながら思った。
アヤメはすでに、自分なしでは生きられない。
それは最初から自分が望んだ事であり、アヤメは抗う事なく自分の意思で応えた。
だが今後も日常の中で、アヤメが一人で耐えなければならない事態は起こる。
アヤメから目を離す事は出来ない。成長途中の心も感情も不安定で予測不能だ。
せめてもの救いは、悪魔の寿命が数万年と長い事。
自分はアヤメよりも先に死ぬ事はない。
アヤメを残して逝く事は決してない。
だが……人間の寿命は、あまりにも短すぎる。
この時から、オランの中には、ある決意があった。
アヤメが何度生まれ変わろうと、何度でも巡り会い、何度でも結ばれる。
その為なら、どんな代償でも払う覚悟がある。
アヤメの心と身体、そして魂さえも……輪廻という鎖で縛ろうとしていた。
「おはよう、オラン。好き……」
いつもの朝。愛しいその微笑みを、何度でも永遠に迎えられるように。
『魂の輪廻』の儀式は、すでに始まっていた。