アヤメの『成長』は目を見張るものがあった。
オランが何も言わずとも、自主的に動くようになったのだ。
それが、まるで『自然の摂理』であるかのように。
朝、オランが目を覚ますと、自分の胸元に触れる温かい存在に気付いた。
アヤメがオランに包まれるようにして、身を丸めていた。
しかもアヤメは先に起きていて、至近距離でオランの顔を見つめている。
アヤメは『朝、起きたら必ずキスをする』という習慣を教え込まれている。
その為、先に目が覚めてしまっても、こうやってオランが起きるのを待っているのだ。
まだ眠いけど寝ないように、重くなる瞼に抵抗して頑張っている。
その、いじらしい姿がとても可愛い……オランはそう思うが、再び瞼が閉じかける。
二度寝しそうなオランに気付くと、アヤメは顔を少し起こして悪戯っぽく笑った。
「おらん、だ〜め〜…起きたらキス…しないと……ね?」
アヤメは顔にかかる邪魔な自分の髪を手で除けると、さらに顔を接近させて、口付けの体勢に入る。
まだ眠いオランの思考能力は鈍っているが、それはアヤメも同じだった。
アヤメも実は、半分寝惚けた状態なのだ。
「おはよう、オラン……すき」
いつもよりも余分な一言を最後に添えて囁いてから、唇をそっと重ねた。
薄れる意識の中でも、オランはアヤメの柔らかく温かい感触を堪能する。
(やべえ……可愛すぎるじゃねえかコイツ……)
この『半分寝惚けた状態』のアヤメが、一日の中でも最高に可愛いのだ。
「ふふ…オラン起きた?…じゃ、抱いて…」
アヤメの言う『抱いて』は、『抱きしめて』の意味である。
キスで満足したのか、アヤメは嬉しそうに微笑み、再びオランの胸板に顔を埋めた。
ここまで、オランは一度も『自主的に』動いてはいない。アヤメの欲求に身を任せただけだ。
普段は無欲で何でも恥じらう純粋なアヤメが、ただひたすらに自分を求めてくるという快感。
ここまで大胆にアヤメが動けるのは、眠気によって邪魔な羞恥心が捨て去られている為。
まさにオランの願望が反映された姿だ。
もう、このままアヤメの目が完全には覚めなければ良いのに。
そうとまで思ってしまうオラン自身は、逆に目が覚めてしまった。
邪魔な布団を退けると、アヤメに覆い被さった。
「ん……もう一回キスするの……?」
そう言ってアヤメは首を傾げるが、オランの首の後ろに両腕を回して、すでに受け入れる体勢だ。
「あまりに可愛いんでな、ご褒美だ」
「ほんと?……嬉しい……」
そうして、今度はオランの方から口付けようと顔を近付けた。
紫の髪、褐色の肌、深紅の瞳。視界に映る何もかもが愛しい彼に身を任せた瞬間。
ポンッ☆
天井付近から、軽い爆発音がした。
すぐその後に、ドサッ!!と大きな衝撃音が室内に響いた。
「ぐぉっ……!?」
天井から落下してきた大きな何かが、アヤメに覆い被さるオランの背中に直撃した。
オランの体の下にはアヤメがいる為、押し潰すまいと両腕で踏ん張り、何とか耐えた。
「えっ!?オラン、どうしたの!?」
何も見えないアヤメは、何が起こったのか分からない。だが、衝撃で完全に目が覚めたようだ。
「何か乗ってやがるな……」
オランは、背中に重さと生温さと違和感を感じていた。
背中に何かが乗っている。いや、天井から落下してきて、背中に着地したまま動いていないのだ。
「アヤメ、オレ様の背中の上を見ろ」
「あ、うん……」
アヤメは、顔を少し起こして横にずらすと、オランの背中を見て確認する。
そこに見えたのは……
「んー…なんか…小さい子供がいる……」
「あぁ?」
予想外な返答に、オランは気の抜けた声を出した。
その拍子に、オランの背中に居るそれがポテッ☆と柔らかいベッドの上に落ちた。
オランとアヤメは同時に起き上がり、ベッドに落ちた存在に目を向ける。
そこに居たのは、3〜4歳くらいの男の子だった。
透き通るような水色の瞳と髪。褐色肌の悪魔とは正反対の色白な肌をしていた。
ただ沈黙して子供を見つめる魔王と少女。
一体これが、どういう状況なのか誰にも分からない。
突然、アヤメが嬉しそうな声を上げた。
「かわいい〜〜!!」
「いや、そうじゃねえだろ」
すかさずオランがツッコむが、アヤメは聞いちゃいない。
何の疑問も持たずに興味津々で子供の方に近寄る。
「私はアヤメって言うの。あなたのお名前はなんて言うの?」
子供は、アヤメのように純粋無垢で邪気のない瞳を大きく開きいた。
「ボク、リョウだよ」
「リョウくんって言うのね………ん?」
アヤメは、ある事に気付いて、オランの方を振り返る。
「オラン、この子羽根があるよ、白い羽根」
リョウの背中には、白くて小さい、フワフワした羽根が生えていた。
「この子、鳥さんかなぁ?」
一人で想像を膨らませるアヤメに、オランは溜め息をついた。
今、問うべきは名前やら何やらでなく、この子供が何者で、なぜ天井から降ってきたのか。
何よりも、アヤメとの朝の時間、一番いい所を台無しにされたのだ。
テンション高めのアヤメとは裏腹に、オランは少々腹を立てている。
「いや、どう見ても天使だろ、このガキ」
「てんし?なにそれ、妖怪の一種?」
悪魔や天使に馴染みのない村娘のアヤメは、人外を何でも妖怪だと思ってしまう傾向がある。
リョウはベッドの上を這うように移動して、オランの背中に回った。
そして、心配そうにしてオランの背中を見回す。
「ごめんね、お兄ちゃん、痛かった?」
リョウは、オランの背中に落下した事を謝ったのだ。
リョウはオランの大きな背中に向かって、小さな両手を広げた。
「いたいの、とんでけー」
それが呪文なのか、そう唱えた直後に、リョウの手から光が溢れ出た。
「えっ!?リョウくんの手、光ってるよ!?」
アヤメが驚きの声を上げるが、同じくオランも驚いた様子だった。
背中に感じる温かい癒しの力。
「これは…回復魔法?こんなガキが使えるはずは……」
力を使って疲れたのか、リョウは突然、ポテッ☆とオランの後ろで倒れた。
「リョウくん、大丈夫!?」
アヤメは急いでリョウを抱き上げる。
リョウばかりを心配するアヤメを見て、オランは不機嫌極まりない。
「まったく面倒だぜ。天界に連絡してやるから、とっとと帰りやがれ」
すると、リョウがハッとして顔を上げた。ぎゅっとアヤメにしがみついている。
「やーーだーー!!」
大きな瞳に涙を一杯浮かべて突然、駄々っ子になった。さすがのオランも怯んだ。
「ヤダじゃねえよ、さっさと離れろ、このガキ……」
「や〜だ〜!!帰らない!!」
「オラン、だめ!!ごめんね、こわかったね〜……」
あの従順なアヤメが、オランを強く制止した。しかも『こわい人』呼ばわりされて、オランはさらに怯んだ。
まったく、女っていうのは子供の前だと、こうも強気になるのだろうか?
初めてだらけの状況と乙女心の不可解さに、オランは反論する術がなかった。
どうやら、リョウはアヤメから離れたくないらしい。
アヤメの手にかかれば、扱いの難しい魔獣も子供も簡単に懐いてしまうのだ。
……もちろん魔王も、である。
「……………え?」
ディアは、驚きに目を見開いたまま固まってしまった。
それも、そのはず。
寝室から出て来たオランとアヤメが、小さな子供を連れて来たからだ。
ディアの目には、その姿がまるで、子連れの親子のように見えた。
「えぇ…と……いつの間に、お世継ぎを産まれたのでしょうか……?」
ディアの口からやっと出た言葉が、これだった。
冗談を言わない真面目なディアが、思わず冗談みたいな事を言ってしまう程に衝撃だったのだ。
しかし、リョウは色白で水色の瞳。褐色で赤い瞳のオランの子供に見間違えるはずはない。
ディアの勘違いが、オランの不満を増幅させた。
「違ぇよ。この天使のガキが、勝手に天井から降って来たんだよ」
「はぁ……天使ですか……」
そうは言うものの、ディアはオランの説明では全く要領を得なかった。
そんなディアに構わず、アヤメは勝手にリョウにディアを紹介し始める。
「リョウくん、このお兄ちゃんは、ディアさん」
「でぃあさん?」
「あっ、違う、『ディアお兄ちゃん』よ」
「ディアお兄ちゃん!!」
キラキラとした瞳を向けられ、ディアもつられて笑顔を返す。
魔獣の心すら浄化する、アヤメとリョウの癒しの効果は凄まじい。二人まとめて天使のようだ。
アヤメは、リョウに構うのが楽しくて仕方がないようだった。
「ディアさん、この子、羽根があるのよ。ほら見て、可愛い〜」
アヤメは、まるで自分の子供のようにリョウの背中を見せて自慢した。
「羽根ならオレ様にだって、ある」
「私にも一応、ありますね」
オランとディアが、なぜか同時に対抗してきた。
オランは普段の生活では羽根を魔法で消していて、ディアは魔獣の姿の時だけ羽根がある。
「オランの羽根は『黒くてツルツル』だけど、リョウくんのは『白くてフワフワ』なの」
「なんだよ、『白くてフワフワ』してりゃいいってモンなのか?」
「魔王サマ、大人気ないです」
リョウを可愛がっているアヤメに完全に嫉妬しているオランだった。
アヤメは、オランの羽根を最初に見た時は『コウモリの妖怪』と勘違いしたのに、この扱いの差は一体何なのか。
ようやく冷静さを取り戻したディアが、いつもの有能な側近の顔になった。
「とにかく、すぐに天王様に連絡を入れますね」
天王とは、天界の王・ラフェルの事である。
ディアは、3人を残して退室した。
アヤメは屈むと、小さいリョウの目線の高さと同じ位置で優しく話かける。
「リョウくんは、どうやって、ここに来たの?」
オランが話かけると怖がってしまうので、アヤメが代わりに色々と話を聞き出すつもりなのだ。
「まほーの勉強してたら、ポンってなったの」
リョウの言葉の意味が分からなくて、アヤメは顔を上げて頭上のオランに視線を向けた。
「オラン、どういう意味?」
「魔法の勉強をしてた、か……空間移動の魔法だな」
オランがアヤメを人間界から魔界に連れ帰った時に使った魔法も、空間移動の魔法であった。
「さっきの回復魔法といい、ガキが使えるレベルの魔法じゃねえ。コイツ一体……」
オランが考え込んでいると、アヤメがさらにリョウに問いかける。
「じゃあ、リョウくんは、なんでここに来たの?」
しかしリョウは『分からない』という風に首を傾げた。
「ボク、キレイな場所に行きたいーって思ったの」
リョウがそう念じて空間移動の魔法を使ったら、魔界に来てしまったのだろう。
しかも何故か、オランとアヤメの愛の巣とも言えるベッドの上に。
野生の魔物も徘徊する魔界が、天界よりも綺麗な場所かと問われると疑問だ。
突然、リョウが弾ける笑顔でアヤメに両手を伸ばした。
「お姉ちゃん、だっこー!」
「え?うん、いいよ」
「おいコラ、ガキ!!調子に乗んじゃ…」
場が混沌とし始めたその時、ディアが再び部屋に入ってきた。
「魔王サマ。天界に連絡をして、天王様からのお返事を頂いたのですが…」
「で、どうした」
「丁度良いので、勉強がてら、しばらく魔界でリョウ様を預かって欲しいとの事です」
「あぁ〜〜〜!!?」
思いっきり不満の声を上げるオランだったが、アヤメとリョウは同時に喜びの声を上げた。
「やったー!」
「やた〜〜」
もはや、どちらがアヤメで、どちらがリョウの声なのか分からない。
「あと、リョウ様は将来の天王様の側近候補だそうで、丁重に扱って欲しいとの言付けが…」
すでにディアの口からは、リョウは『様』付けになってしまっている。
リョウが幼いながらも高度な魔法を使えるのは、すでに将来を期待されている優秀な天使だからだ。
天王は、魔界をリョウの留学先とか、ホームステイ先とか、そういう軽い考えでいるのだろう。
いや、年齢的に『保育先』だろうか…。
そう言われると責任問題で目を離す訳にもいかないし、リョウもすっかりアヤメに懐いてしまった。
国交問題とプライドを天秤にかけているようなものだ。
「………後ほど、天界に諸経費を請求しますか?」
ディアが現実的な問題を問いかけると、オランは静かな怒りをこめて答えた。
「それだけじゃ済まさねぇ」
その日の夜の『寝る前のキス』は難関となった。
いつもは二人だけのベッドに、リョウも一緒に寝るからだ。
オランは朝から納得のいかない事ばかりで不満が最高潮に達している。
「ガキは別で寝かせろよ」
オランと向かい合うアヤメはベッドの上に座り、リョウを膝の上に乗せて抱っこしている。
何故オランが不満な顔をしているのか、アヤメには分からない。
「う〜ん、でも離れると泣いちゃって、眠れないんだって」
アヤメは、リョウの事に関しては頑に意見し、自分の主張を通すようだ。それは母性なのか。
「母性ならオレ様との子供で発揮しろよ…」
「え、なにそれ?」
聞こえてないのか天然なのか、オランの不満すら見事に流される。
空気の読めないリョウは、アヤメの膝の上でニコニコしている。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん、おやすみなさーい」
「うん。おやすみなさい、リョウくん」
「さっさと寝ろ、ガキ」
素っ気ない挨拶を返すと、オランは口を閉ざし、何も言わずに待つ。
アヤメが、次に取る行動を。
アヤメはリョウを自分の方に向かせて、後ろ頭に手を添えて優しく抱きしめた。
リョウの視界を遮る為だ。
やはり従順なアヤメは、オランの期待を裏切らない。
アヤメはリョウを抱いたまま前屈みになり、正面からオランに顔を近付ける。
「おやすみ、オラン」
「それだけか?」
アヤメがどうするかは、分かっている。
アヤメはどうするかを、分かっている。
彼女に全てを仕込んだのは、オランなのだから。
でも、この想いだけは、決して仕組まれたものではない。
だからこそアヤメは、こうやって今夜も、たった一瞬の行為に恥じる。
少し照れながら、朝にも見た、あの『最高に可愛い』微笑みで囁く。
「……好き……」
「それでいい」
そうして、キスという名の『日課』は今夜も交わされる。
その一瞬の甘い感触で、オランの一日の不満も全てが浄化されて消えて行く。
それは回復魔法にも勝る、アヤメだけの癒しの力。
半分寝惚けた朝のアヤメは、一日の中でも最高に可愛い。
寝る前に恥じらう夜のアヤメも、一日の中で最高に可愛い。
オランの一日は、彼女への愛しさで埋め尽くされ、満たされている。
結局の所、魔王オランも天使リョウも、『純粋で綺麗な心』を持つアヤメに引き寄せられたのだ。
こうして、人間の少女と、天使の子供と、悪魔の大人の同居生活が始まった。