オランの願望と野望。それに応えるように……
純粋無垢であったアヤメは、着実にオランの期待通りの変化を遂げつつあった。
ある朝、アヤメがベッドの上で目を覚ますと、隣に誰もいなかった。
半分寝惚けながら、しばらく放心していたが、ハッと我に返った。
自分の隣が空洞。それだけで、堪え難い違和感と不安感に襲われた。
起き上がって広いベッドの上を見回すが、オランがいない。
いつも一緒に寝て、一緒に起きていたのに。
(うそ……やだ……)
次の瞬間、アヤメが感じたのは、焦燥感にも似た衝撃と衝動。
オランがいない。たった、それだけの事なのに。
(……オラン、どこ!?)
慌てて布団から抜け出てベッドから下りると、目の前を塞ぐカーテンを開けて寝室から飛び出した。
その先は、いつもオランが腰掛けている豪華な椅子のある、あの部屋に直結している。
オランは、いつものように、あの椅子に腰掛けていた。
そのすぐ隣には、ディアもいる。
アヤメが裸足のまま、息を切らして部屋の入り口に立ち、二人を交互に見た。
「よぉ、アヤメ。なんだ、寝間着のままじゃねえか」
「おはようございます。アヤメ様」
オランとディアは、いつもの調子だった。
しかし、いつもの調子でないのは、アヤメの方だった。
まるで、鬼気迫るような顔をしているのだ。
何事かとオランが問う前に、アヤメが早歩きでオランの前へと歩み寄る。
そして、椅子に腰掛けたままのオランの正面で、身を屈めた。
「良かった、居て………おはよう、オラン」
そう言うと、少し躊躇うようにして目を伏せ、一瞬だけ恥じらった。
「朝のキス……しなきゃ」
そう言った次には、自然な流れで……オランに口付けたのだ。
すぐ横にディアもいるのに、人目も気にしない。むしろ視界に入っていないようだった。
これは、おそらく……まだ半分、寝惚けているのだろう。
ここまで一言もしゃべる間もないオランとディアは、ただ成り行きを静観している。
オランからスッと離れるとアヤメの表情が一変、安心したかのように柔らかく微笑んだ。
「着替えてくるね」
そう言って、今度は静かにゆっくり歩いて寝室に戻って行った。
アヤメの一連の行動の後、その場が、しばらく静寂に包まれた。
少ししてようやく、ディアが静かに口を開いた。
「魔王サマ、アヤメ様に一体何を教え込ませているのですか?」
「一般常識だぜ。なかなか物覚えがいいだろ。アレは完全にオレ様の虜だな」
「私には単なる調教にしか見えませんが」
ディアは感心せずに、冷ややかな視線をオランに向けた。
「可愛い女だ、ククッ……」
オランは満足そうにして笑っている。
その日のアヤメは少し寝坊して、たまたまオランと一緒に起きれなかっただけの事。
『朝、起きたら必ずキスをする』という、オランが教えた嘘の習慣。
今やアヤメは、それを実行しなければ不安になって、落ち着かない。
自然と、心と体がオランを求めるようになってしまったのだ。
アヤメの中では、オランとの『口付け』の行為は、日課という日常になってしまっていた。
そうなるようにアヤメに教え込んだのは、オラン自身だ。
しかし、口付けの瞬間の恥じらいの表情は変わらずな所が、オランをどこまでも煽る。
純粋無垢なアヤメは、そんな毎日の積み重ねで、着実にオランの思い通りの色に染め上げられていく。
アヤメが王妃になる頃には、一体どんな変貌を遂げてしまうのか。
ディアは、これからの魔界を背負う未来の夫婦に、一抹の不安を覚えた。
その日の一番明るい時間、オランはアヤメを中庭へと連れ出した。
寝室からも繋がっているテラスに出ると階段があり、そこを下りて行くと、城の中庭へと辿り着く。
オランに手を引かれてアヤメが中庭の前に立った瞬間、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
一面が、紫色の一色だった。
そこに広がるのは、先が見えない程の紫色の花で埋め尽くされた花畑だった。
アヤメは、その色を見ただけで、それが何の花であるか分かった。
「これって、
嬉しくなって、満面の笑顔でオランを振り返る。
「ああ。アヤメの名前と同じ花だ」
「大好きな花よ、嬉しい…!!もしかして、私の為に?」
「当然だろ。正確には、
アヤメが花畑の中心に向かって伸びた道を歩いて行き、オランがその後を続く。
真ん中まで辿り着くと、二人の周囲は
二人と、
それを見計らってか、オランが背後からアヤメの腰に両腕を回した。
アヤメはふっと力を抜いて、オランに体を預けた。
本当は、
その優しさと、一緒に居る時間の心地よさ。そう、何よりも好きなのは……
「ありがとう、オラン。……好き」
「あぁ?聞こえねえなぁ〜」
「いじわる」
好きなのは、すでに知っている。アヤメの心は完璧に見通しているつもりだ。
オランは、こんな事では満足しない。
オランの本当の野望は、アヤメの口から『愛』という言葉を言わせる事なのだ。
『好き』は『愛』を知らなくても言える言葉。
オランが欲しいのは、『愛』を知った上での『好き』なのだ。
だが、『愛』の意味だけは、直接、言葉では教えてやらない。
オランはアヤメを自分の方に向かせた。
それが何を意味するのか、さすがのアヤメでも分かるようになってきた。
「オラン、今、お昼だけど……」
朝と夜のキス以外にも習慣があるのだろうか?と、空気すら読めないアヤメの思考は今も純粋だ。
「アヤメ、『キス』に時間や回数の制限は無いんだぜ」
「ふふっ…なんだか、それって贅沢ね」
アヤメの発想と感覚は、相変わらず予測が出来い独特なものだった。
アヤメは少し顔を赤らめて、視線を逸らした。
いつも、そうだ。オランはこの表情が見たくて、愛しくて、焦らしたくなる。
だから、意地悪なオランは、すぐにはしない。
アヤメの方が焦れったい、と思うまで待ってやるのだ。
だが……その待ち時間が、仇となった。
焦れったくなってしまった人物が他にも、もう一人いた。
「魔王サマ、仕事のお時間です」
突如、聞こえた誰かの声に、二人は同時に後ろを振り返った。
いつの間にか、二人の背後にはディアが立っていたのだ。
わざと気配を消していたのか、オランですら気付かなかった。
「お昼の休憩にしては長過ぎます。お戻り下さい」
いつものように無感情で淡々と言うディアを、オランは睨みつける。
アヤメは恥ずかしさのあまり、背中を向けてしまっている。
「テメエ……今、どれだけの重い罪を犯したか分かってんのか?」
「分かりませんね。なんせ私は獣ですから」
魔王と張り合えるのは、何者も恐れはしない、この魔獣くらいだろう。
この魔獣にも少々、調教が必要かもしれない。
それは、アヤメへの想いで埋め尽くされた、魔王の心の象徴。
白い
いつかは、この庭園のように紫の