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第3話『天王降臨』

魔界での初めての夜が明け、アヤメは目を覚ました。

すると、目の前にオランの顔があり、バッチリと目が合ってしまった。

そうだった。オランと一緒に寝ていたのであった。しかも彼は、先に目覚めていた。

オランが黙っていたので、アヤメは思い切って口を開いた。


「あ、おはようござ……おはよう、オラン」


敬語が抜けない辿々しいアヤメの口調すら、オランにとっては最高に面白かった。


「おはよう、アヤメ。挨拶はそれだけか?」


オランは上半身だけ起こし、アヤメを見下ろした。


「え?どういう意味?」

「魔界ではな、一緒に寝たヤツとは、朝の挨拶に口付けをするモンなんだ」

「えっ!?そ、そうなの…!!?」


もちろん、そんな事は嘘であり、オランの冗談なのだが、アヤメは信じきっている。


「ホラ、早くしろ」


自分からは口付けず、アヤメに口付けさせるこの行為は、悪魔らしい悪戯だ。

魔界に来たのだから、魔界の習慣に合わせなければ……と、アヤメは意を決した。

オランには『契約』の時に口付けをされたが、自らするのとでは、また違う。

ゆっくりと顔を近付けるが、どうしても、あともう少しから先に進めないでいる。

目を開けているから、緊張するんだ。オランの深紅の瞳に魅入られてしまうんだ。

そう思ったアヤメは目を閉じたが、その瞬間。


「目は閉じるな」


眼前で聞こえたオランの強い口調に、アヤメはハッと驚いて瞬時に目を開けた。

痺れを切らしたオランは仕方ねえとばかりに、アヤメの唇に、そっと触れるだけの口付けをした。

本来なら、この程度で済ませたくはないのだが。

この程度の事で顔を真っ赤にしているアヤメを見てしまうと、今はまだこれが限界のようだ。


「まぁ、いいぜ。お楽しみは、これからだ」







着替え終わって自室から出た二人は、城の長い廊下を並んで歩く。

アヤメが着ているのは、人間界の時と同じ着物だ。

この方が落ち着くから、というアヤメの要望で、今後は同じような着物を誂えてくれるという。


「いいか、オレ様の側を離れるなよ」

「うん。このお城、大きいから迷子になったら大変だもの」

「そうじゃねえよ」


アヤメは真面目に答えたつもりだが、どこか返答がズレていた。


「人間は、魔界では体力を消耗するからな。その指輪の効果で防いではいるが」


アヤメは、自分の左手の薬指に嵌められた指輪を見つめた。

昨晩、オランが婚約指輪としてくれた、赤い宝石の指輪だ。

この指輪には魔力が込められていて、アヤメの体力の消耗を防いでいるという。


「その指輪の魔力は、オレ様から離れると効果が薄れる。だから離れるな」

「あっ、そういう事ね……ありがとう」


アヤメは純粋に、オランの優しさが嬉しくて感謝した。

人間は、魔界では体力を消耗する。

悪魔は、人間界では生命力を消費する。

アヤメとオランは、どちらの世界に居ようとも、お互いが離れられない存在となった。


(常に一緒……これが、妃になるという事なのかしら?)


アヤメには、婚約指輪の意味も、結婚の意味も、まだ理解できていなかった。





大きな食堂、大きなテーブルで二人は朝食を食べた。

お米のご飯が当然のアヤメにはパンやサラダの洋風な朝食は珍しいのだが、逆にそれを楽しんでいた。


「昨日の夜もそうだったけど『あくま』の食事って、人間と変わらないのね。想像と違って面白いわ」

「どんな想像だ?オレ様が何を食うと思った?」

「生肉とか……生き血とか?」

「だから、喰わねえよ」


何度同じツッコミをした事か。

アヤメの発想は面白くて聞いてて飽きないのだが、純粋な上に真面目なのでツッコミにくい。

ふとオランは、テーブルの横に立って二人の食事を見守っていたディアに向かって話し掛けた。


「ディア、これからの予定は?」

「はい。定例会議です。本日は天界から天王様がお見えになります」

「天王か……面倒くせえ」


不真面目なオランは、相手が誰でも、王としての仕事自体が面倒なのであった。

聞き慣れない言葉に、アヤメが不思議に思って聞いた。


「あの……天王って誰?」

「あぁ?簡単に言えば、天界の王だ」

「てんかい?」


アヤメは、さらに混乱した。天国の事だろうか?と、また勝手に想像を膨らませてみる。


「アヤメ、あんたも一緒に会議に出ろ」

「え?そんな偉い人が来る話し合いの場に、私が居ていいの?」

「いいんだよ。居て当然だろ、王の婚約者だぜ」


どこか、ポカンとして理解してない表情のアヤメを察したディアが、そっと付け加える。


「許嫁、って事ですよ。アヤメ様」

「……いいなづけ……」


アヤメは、その言葉で急に実感が湧いて、恥ずかしくなった。

『妃にする』とは言われたものの、それは遠い未来の事のように感じていた。

ようやくアヤメは、いずれオランと結婚するという自分の立場を実感したのであった。





シンプルな内装の広い会議室の真ん中に、大きなテーブル。

オランとアヤメは、そこに並んで座っている。

そのすぐ横には、書類や手帳などを手に持ったディアが立っていた。

しばらくすると、会議室の扉が開いた。

使用人の女性に案内されて入って来たのは、天界の王。

長いアクアブルーの髪と瞳。女性と見間違える程に中性的で、秀麗な顔立ちをしていた。

年齢は推測出来ないが、オランと同じく、見た目20代くらいだろうか。


「よく来たな、天王」

「お邪魔する、魔王」


魔王と天王の挨拶は、たった一言の素っ気ないものだった。

お互い、余計な挨拶や面倒な礼儀などは、必要としない仲なのだ。

天王は、オランの隣に座る少女の存在に気が付いた。


「……おや。初めてお目に掛かる。私は天界の王・ラフェル。以後、お見知り置きを」


アヤメは天王に視線を向けられて、ドキッとした。

挨拶も忘れて、天王の美しさと神々しさに見とれてしまっていたのだ。

アヤメは慌てて席を立った。


「は、初めまして、私は…魔王……じゃない、オラン……」

「そこは『魔王』だ」

「魔王様の……いいなづけ?……の」

「婚約者、だ」

「魔王様の婚約者のアヤメです……!」


隣から聞こえて来るオランの助言で、何とか言い切ったアヤメ。

オランは笑い出しそうになるのを我慢して、目の前に着席した天王に向かって堂々とした態度で一言。


「ま、そういう事だ」


だが天王は微笑み一つなく、冷たい程に落ち着いている。


「どういう事かは知らぬが、魔王が婚約したとは驚いた。見た所、人間のようだが」


そう言う天王は無表情なので、驚いた顔をしている様には見えない。


「まぁ、決まったばかりなんでな。いい女だろ?」


そう言って、オランはアヤメに目配せするが、アヤメは頬を紅くして俯いてしまった。

オランは、婚約者を自慢したいのではない。ただ、アヤメの反応を楽しんでいるだけなのだ。


「では改めて、婚礼の儀には祝いを贈らせてもらおう」


天王が、一応の礼儀を口にすると、その話はここで終わった。



そこから先の魔王と天王の会議の内容は、難しく聞き慣れない言葉ばかりで、よく理解はできなかった。

ただ、魔界と天界は協定を結んでいて、敵対はしていない、という事は分かった。

時々、ディアが発言の内容をメモしていた。議事録だろうか。

会議の最後、席から立つ時に、天王は相変わらずの無表情で、オランに告げた。


「人間は長くは生きられぬ。承知の上か?」


アヤメは、その言葉が自分の事を言っているのだと気付いた。

急に、場の空気が重くなるのを感じた。

だがオランだけは、いつもの調子を崩さなかった。


「決まってんだろ。問題ねえよ」







アヤメはその後もずっと、不安に似た心のモヤモヤを抱えていた。

問題ないと言われても、どういう根拠で、どういう理屈なのか、何も解らない。

その日の就寝前に、アヤメは思い切ってオランに疑問を伝えてみた。


「その……悪魔の寿命って、どのくらいなの?」


オランが、その質問の真意に気付かない訳も無い。だが平然と答える。


「さあな。数万年、って所か」


気の遠くなるような時間をサラっと言われて、アヤメは言葉が返せなかった。


………私は、そんなに長くは生きられない。


例え結婚しても、一緒に居られる時間は、寿命の長い悪魔にとっては一瞬の事なのだろう。

ずっと沈んだ表情のアヤメの不安を拭おうと、オランがアヤメの左手を取った。

その白く小さく細い薬指には、婚約指輪の赤い宝石が光っていた。


「この指輪には、人間の寿命を悪魔と同等にする効果もあるんだぜ」

「えっ…そうなの!?」

「あぁ、だから外すなって言ってんだよ」


オランが嘘や冗談を言っていないのは、真剣な眼差しから伝わる。

オランを信じ切っているアヤメの心は、不安から安心へとすぐに移り変わって行った。


「なんだか、すごいのね、この指輪。色んな力があって」


体力の消耗を防いだり、寿命を延ばしたり。

だがオランにとっては、その指輪の本来の意味は『婚約の証』である。




しかしオランはここで1つ、本当の『嘘』をついた。

寿命を延ばす事は、例え王でも、神でも、不可能なのだ。

指輪の魔力で、この先何年生きようと、アヤメは『姿だけ』は少女のままで、ずっと変わらない。

だが……寿命は、人間と変わらないのだ。




「それよりもアヤメ、寝る前に必ず、する事を教えてやろう」

「え?そんな事があるの?」

「あぁ。魔界ではな、一緒に寝るヤツとは、寝る前に口付けをするモンなんだ」

「そ、そんな事、昨晩は言ってなかったけど……?」


朝、起きたら口付けして、夜、寝る時も口付けするのだろうか?

さすがのアヤメも冗談に気付くと思いきや、すぐに信じてしまう純粋さが面白い。


「あとな、口付けは『キス』とも言うんだぜ。いい響きだろ?」

「きす……?お魚の名前みたい」


相変わらずの天然な発想に、オランは笑わずにいられない。


「さぁ、アヤメ。寝る前のキスだ。もう出来るよな?」

「う、うん……」


オランには、ある野望があった。

アヤメを、自分なしでは夜も寝られずに、朝も起きられないように……


「お休みなさい、オラン」


ずっと、自分から離れられないように……

自分なしでは、生きられないように……


「よく出来たな、上出来だ」


あらゆる手段を使って、その心と体に教え込ませてやる。


「だが、まだまだ……だな」


命令ではなく、自分の意志で、アヤメの口から『愛している』と言わせてやる。





完璧に、自分に溺れさせてやる。







だが、オランは気付いていなかった。

オラン自身が、すでにアヤメに『溺れてしまっている』という事に。





従順な婚約者に動かされているのは、魔王自身なのだ。

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