この物語は、『魔界の王』が『人間の少女』を妃にする為に、日々奮闘する物語である。
時は16世紀、安土・桃山時代。
1573年、織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡する。
そんな時代の日本で、『魔界の王』と『人間の少女』は出会った。
「やべえな、早く人間を見つけねえと…」
その日、人間界に降り立った魔界の王『オラン』は、深い森の中を彷徨い歩いていた。
紫がかった銀色の髪に、褐色の肌、深紅の瞳。背中には、コウモリに似た大きな二対の羽根。
年齢は人間で言うと、見た目20代前半くらいだろう。
本来、人間界に来た時は、人間を装う為に羽根を隠すのだが、今はそんな余裕がない。
長時間、人間界に留まっていた為に生命力が尽きかけ、このままでは魔界に帰る事すら出来ない。
(誰でもいい。生命力を奪えそうな人間の女……)
だが、こんな森の奥深くに降り立ってしまった為に、人間の気配は感じられない。
時刻は夜に近い。しかし悪魔であるオランは、暗い森の中でも夜目が利く。
オランが焦っているのは夜の闇ではなく、『人間を見付ける』という目的であった。
諦めかけた、その時だった。
「きゃっ…誰ですか!?」
オランが落としかけた視線を前に向けると、目の前に人間の少女が立っていた。
驚いて口を開けたまま、微動だにしない少女とは裏腹に、オランはニヤリと笑った。
こんなにも都合よく、目の前に『人間の女』が現れるとは。
オランが少女に近付こうとすると、少女の顔は驚きから恐怖へと移り変わって行く。
それも、そのはず。オランは悪魔の羽根を隠し忘れている為だ。
震える少女の口から、ようやく出た一言。
「あ…あ…コウモリの妖怪……ですか……?」
それを聞いたオランは、嬉しさに加えて、さらに楽しくなった。
「ヒャハハ!!面白ぇ女だ。あんた、名前は?」
「あ…アヤメです……」
「歳は?」
「17……で…ございます……」
アヤメは、答えないとオランに喰われるとでも思ったのだろう。震えながらも懸命だ。
栗毛色の肩にかかる長さの髪に、同色の瞳。特徴的な所はない、普通の少女だ。
「オレ様は魔王オラン。魔界一の悪魔だぜ」
「あくま…ですか?それは妖怪の一種ですか?」
この時代、すでにキリスト教は伝来していたが、村娘であるアヤメには『悪魔』よりも『妖怪』の方が馴染み深かった。
「何でもいいが魔王サマと呼べ。サマも付けろよ」
「は、はい……魔王様」
すでに、アヤメはオランの言いなり状態であった。
「よし、アヤメ。オレ様と契約しろ」
「は……はい?」
突然の意味不明な要望に、アヤメは訳も分からず、返事が疑問形になってしまった。
だが、返事など関係なかった。オランは、無理矢理にでもアヤメと『契約』を結ぶつもりだった。
恐怖で動けないアヤメにオランは眼前まで近付くと、アヤメを見下ろした。
そっと、褐色の両手で、アヤメの両頬を固定するように包んだ。
これは……誰が見ても間違いなく、『口付け』直前の動作だろう。
だがアヤメは、それを分かっていない。
オランの深紅の瞳に見つめられ、体が動かず、心まで束縛されたような錯覚に陥る。
……彼は魔法でも使っているのだろうか。
だがアヤメの顔は紅というよりは、青ざめている。
「私を…食べるのですか?」
真面目な顔をして言ったアヤメに、オランは思わず含み笑いをした。
「クク……喰わねえよ」
そうして、静かに、人知れず、暗く深い森の中で………
『契約』という名の口付けは、行われた。
そう。悪魔との契約は、『口付け』によって成立するのだ。
突然の事に、アヤメは今、オランに何をされたのか理解できない。呆然として自分を見失っていた。
「これで契約成立だ。とりあえず応急処置させてもらうぜ」
オランはそう言うと、放心状態のアヤメに構わずに、今度は全身でアヤメの体を抱きしめた。
突然の抱擁に、アヤメは一転して狼狽える。
「魔王様、な、何を……?」
オランは何をする訳でもなく、ただアヤメの体温を全身で感じるように静かに包み込んでいた。
少しして、ようやくアヤメは解放された。
『応急処置』と称した抱擁で、オランはアヤメの生命力を吸収したのだ。
魔界へ帰る魔法が使えるくらいの力を補う為に。
「人間界では生命力を消費するんでな。人間と契約して、その人間の生命力を吸収させてもらう」
淡々と説明するオランに、アヤメの恐怖感はさらに増して行く。
何だか、さっきから接吻だの抱擁だの、色々されてしまった挙げ句、もしかして……
「私……死ぬのですか?」
「死なねぇ程度だから問題ねえよ。だが、オレ様が人間界にいる時は側にいろ」
悪魔は人間と『契約』し、『契約者』となった人間の生命力を吸収する。
近くに居るだけで、自動的に契約者の生命力を吸収できるのだ。
アヤメが側に居れば、オランは生命力を維持しながら、人間界を自由に動き回れる。
「その代わり、契約者の願いを叶えてやる規則なんでな。あんたの願いを言え」
「そんな……突然言われても……出ません」
「まぁ、そうだな」
純粋で、無欲な少女なのだろう。オランは、アヤメのそんな所も気に入った。
とりあえず今回は『契約者』を得る事が出来ただけでも良しとしよう、とオランは思った。
森の中なので気付かなかったが、近くにアヤメの住む村が存在していたらしい。
オランはアヤメの住み処を確認すると、その日は魔界に帰って行った。
本来なら、人間と契約している間は魔界に帰れない、という悪魔のルールもあるのだが。
それに関してだけは、自由奔放な魔王は全く従う気がなかった。
場所は変わって、ここは魔界。
オランは人間界から戻ると、自室の豪華な椅子に腰掛けた。
椅子だけではない。ベッドも、部屋の内装全てが光輝く金属や宝石で装飾されていた。
部屋の中には、もう一人、青年がいた。
見た目年齢は19歳ほどで、淡いブルーグリーンの髪、黄色の瞳、まるで女性のような綺麗な顔立ちをしている。
彼は、クールで大人しい性格の魔獣・ディアだ。
魔獣とは言っても普段は人間の姿をしていて、魔王の側近・男性秘書の役割をしている。
「魔王サマ、今日はどちらへお出かけでしたか?」
静かなディアの口調には、微かな怒りが込められている。
「まぁ聞けよ、ディア。人間界で女と契約を結んだぜ」
「人間界…そうですか、人間界で仕事をサボっておられたのですね」
ディアが怒るのも無理はない。
オランが魔界の仕事をサボってどこかへ遊びに出掛けると、その仕事は全てディアに任される。
ディアの日々の苦労は半端なモノじゃないだろう。
だがオランは悪びれた様子もなく、むしろ堂々として偉そうだ。
「人間と契約を結ぶのも悪魔の仕事じゃねえか?」
「屁理屈ですね」
ディアは魔王に従順で、立場も年齢も下ではあるが、臆せずに言いたい事はハッキリ言う。
人間と契約を結ぶという事は、今後も人間界に行っては自由に動き回る、という意味なのだ。
魔王の遊びと逃走の場が、人間界にまで広がった。
数日後、オランはやはり、魔界を抜け出して人間界へと遊びに出掛けた。
契約者となった、あの女……アヤメの事も少々気になる。
以前と同じ森の中に降り立つと背中の羽根を消して、歩き始めた。
契約者であるアヤメの気配を辿って歩けば、すぐに彼女の住む村に辿り着く。
だが、すぐに……その必要はなくなった。
まるで初めて出会ったあの時のように、目の前にアヤメがいたのだ。
まるで、オランが来るのを待っていたかのように。
「魔王様……ここに来れば、会えると思ってました」
以前とは違って、アヤメはオランを怖がりはせず、微笑みかけてきた。だが、どこか悲しそうだ。
オランは瞬時に、アヤメの表情から違和感を感じ取った。
「何か言いたそうだな。言えよ。前にも言ったが、オレ様はあんたの願いを何でも叶えてやる」
だが、その次にアヤメの口から出されたのは、衝撃の一言だった。
「私……生贄になりました」
さすがのオランも予測出来ずに一瞬、言葉が出なかった。
「あぁ?なんだそりゃ?何の生贄だぁ?」
「魔王様の、です」
「?」
オランにはアヤメの言う事が理解できない。
その後のアヤメの説明をまとめると、こうだ。
『オランが以前、人間界に降り立った時に、他の村人にも姿を見られていた』
『コウモリの妖怪が村を狙っているという噂が広まる』
『妖怪の気を鎮める為に、生贄を捧げようという結論に至る』
「それで?なんで、あんたが生贄なんだ?」
「それは多分…身寄りが無いので、都合が良いのでしょう。そうなりますよね」
アヤメはすでに両親を亡くしていて、村の誰かを頼って生きるしかなかった。
「魔王様…私の願い事です。どうか叶えて下さい」
アヤメは涙を浮かべながら、意を決して、オランを見上げた。
「私は、魔王様の生贄です。魔王様のお好きな様にして下さい」
願い事のはずが、全ての権利はオランに委ねられている。
これでは、願い事としてカウントできないだろう。
だが、オランがその時に感じたのは、驚きでも困惑でも無かった。
「ククッ……いいんじゃねえ?それ」
これ以上に都合が良い事があるだろうか、と。
アヤメがオランの生贄として捧げられたその日。
オランは、アヤメを魔界へと連れ帰った。
『アヤメは、コウモリの妖怪の手に渡った』と、村人の誰もが思うだろう。
ここから、『人間の少女』が『魔王の妃』となるべく奮闘する日々が始まっていく。