可愛らしい鳥のさえずりが聞こえる。
静かだからこそ良く響く控えめな足音やドアを開け閉めする音。
人々が動き始めた物音がする。
朝の気配にベッドの上で薄っすらと目を開けたトレーシーは、見慣れない天井をぼんやりと見上げた。
カーテンの隙間からこぼれる光。
光が照らしだす小さな部屋。
(……ああ、そうよ。昨日、私はダウジャン伯爵家を出たのだったわ……)
トレーシーは大きな伸びをしながら上半身を起こした。
「ん~、ノンストレス!」
ここは王城。
部屋は小さくとも安全だ。
勢いで家を出て来たものの後悔はない。
前々から考えていた事だったからだ。
目覚めて一番に感じたのは、実家への未練が微塵もない自分だった。
トレーシーは、自分でも驚くほど爽やかに朝を迎えていた。
ここまで綺麗サッパリと生家を切り捨てられるとは。
「ああ、スッキリした。出てくる日にちを決めていたわけではないけれど。良いタイミングを見つけられて良かったわ。あの家で私だけがお邪魔虫扱いだったもの」
若い女性が一人で暮らすというのは外聞の良いものではないが、王城へ奉公に上がるというのなら話は別だ。
魔法省の職員なら仕事として十分であるし、良い部屋もあてがって貰った。
小さな頃から一緒で慣れているとはいえ、相性の悪い家族に合わせて生活するというのはストレスが溜まる。
ましてや、トレーシーには自活力があるのだ。
いくらあそこがトレーシーの物なのだから、と、言われていても我慢には限度がある。
「いえ。そもそも最初から我慢する必要なんて無かったわ。時間が勿体無い」
健康に恵まれず出産に耐えきれなかった母の年齢を、トレーシーは後もう少しで追い越す。
気落ちした祖父母が亡くなるのも早かった。
長生きをした曾祖母でさえ、100歳を超えられなかったのだ。
人生は、思っているよりも短いかもしれない。
「だったら、迷っている時間すら惜しいわ。私にはやりたいこともあるのだし」
魔道具を作るのも、魔法薬を作るのも好き。
新しいものを開発するのは、もっと好き。
魔法陣に囲まれて新しい術式を工夫するのも楽しいし、それを魔道具に組み込んで新しいモノを生み出すのも楽しくてたまらない。
もう移動の時間を気にする必要もないから、思い切り仕事が出来る。
とてもワクワクする新しい冒険に出掛けるような気分をトレーシーは味わっていた。
「それにしても……私ってば、実家に思い入れ無さすぎでしょ? こんなことなら、もっと早く出てくれば良かったかしら?」
などと呟きながら、軽く洗浄魔法で全身をサッパリさせた。
「あー、普段使う物くらいは出しておかないと……」
普段使う物も仕舞ったままだった魔法収納庫を開けて、必要な物を取り出していく。
「んー……普段着とローブくらいは、クローゼットに入れておいた方がいいかなぁ? でも白のローブは祭典とか、特別な時にしか着ないから……コッチは仕舞ったままでいいかな」
カジュアルなワンピースを数点、替えのパジャマ、普段使いの青いローブをクローゼットに並べてみる。
「これでいいか」
トレーシーはクローゼットの中を見ながら満足気に頷いた。
「今日はコレを着ましょう」
山吹色のカジュアルなワンピースを手に取り、パジャマから着替えた。
その上からスポッとローブを羽織る。
青と山吹色の組み合わせは派手だが、ワンピースはローブの下に殆ど隠れてしまうので程よいアクセントになっていた。
再び魔法収納庫を覗いて、普段使いの道具類を吟味する。
「あら? 持ち物は少ないと思っていたけど……魔道具だけでも割と数があったわね。んんー……出しておくと邪魔だけど、使った方が改善案のヒントが得られるのよねぇ~」
悩みつつも魔道具の中から両手に収まる程度の小さな箱を一つ、手に取った。
両手に収まる程度の小さな箱型の道具を机の上に置き、その前に座る。
上蓋部分を立てると、小さな鏡が現れた。
トレーシーは鏡を覗き込み呟く。
「んー。今日はトップを緩く三つ編みにしたハーフアップにしようかな」
鏡の右上に手を置いて目をつぶる。
するとキラキラした光が線を描いて現れた。
それは髪の上をチカチカと光りながら滑るように素早く動いていく。
光がスッと消えた時には、赤茶色の長い髪はトップを緩く三つ編みにしたハーフアップに整えられていた。
「うん。こんなもんよね。化粧はしないから、これで終了、と」
魔道具を使ってサッサと身支度を整えたトレーシーは、朝食を摂るために食堂へと向かったのだった。