“橋落とし”のデミット。元は帝国の騎士階級にありながら、自ら剣闘士の道を選んだという変わり者。以前は帝国軍に所属し、そこでも一騎当千の活躍をしてみせた。その中でも特に有名な逸話は、帝国軍が辺境の蛮族たちに押され撤退を余儀なくされた時、殿を務めた彼女が堅牢な石の大橋を軽々と落とし、敵の侵攻を阻んだというもの。
それゆえ、彼女は剣闘士となった今もなお“橋落とし”の異名で称えられるのだ。
「ふははっ! 歴史ある炎龍闘祭の準決勝にも関わらず、こんな小息子が出てくるとは。炎龍の祭典も地に落ちたものだ」
準決勝ともなれば、会場はついに帝国最大の大闘技場へと移される。これまでとは観客の数も桁違いで、うだるような熱気がすり鉢型の巨大な器のなかで渦巻いている。
俺の前に対峙する“橋落とし”のデミットは周囲の歓声に満足げに頷きながらも、俺を睥睨して既に勝利を確信していた。
「こんな小息子で失礼したな。帰りたいなら後ろへどうぞ」
あの色欲を隠そうともしない下品な顔は見慣れている。俺を人間の男だからと、油断しきっている顔だ。
デミットは縦にも横にも大きい河馬獣人だ。その肌は灰褐色で、金の装飾をジャラジャラと付けている。南方の出身のようで、見た目は異国風の巨岩である。元々騎士階級の軍人らしいが、エクィアの方がよほど騎士然としている。
「ふはっ! オスがよくほざく。私がなぜ、軍から剣闘へ道を転じたか教えてやろう」
彼女の得物は巨大な棍棒。フォルティスのそれよりもはるかに重量がありそうな鉄塊だ。それをブンブンと振り回しながら、彼女は語る。
「こっちの方が、手っ取り早く遠慮なく、いくらでも自由にぶちのめせるからさ!」
俺の拳ほどもありそうな大きな歯が覗く。
軍属は彼女にとって堅苦しいものだったのだろう。上官の命令は絶対で、また実際に戦うより延々と歩き続けることの方が多い。
反面、剣闘士は闘技場で待ってさえいれば相手がくる。戦い方は自由で、勝てば賞金を得られる。デミットほどの強さであれば、一試合ごとのファイトマネーは騎士時代の年収を超えるはずだ。
「ますます騎士らしくないな」
「誇り高きが騎士の本領か? いいや、騎士ならば戦って勝ってこそだ!」
睨み合い、対峙する。
審判が俺たちに確認をとり、高く腕を掲げる。
「始めっ!」
土煙が舞い上がり、両者同時に走り出した。2メートルを超す巨女の突進は、その重さを欠片も感じさせないほど軽やかでありながら、足音は大地を揺らす。雌叫びを上げながら猛然と迫る姿は、猪獣人のそれに匹敵するだろう。
その体は胸と腰だけが薄い布で覆い隠されている。冷静に考えればかなり際どい格好なのだが、そうは見えないのは彼女の気迫が凄まじいものだからだろう。勇猛さは女性的な魅力を覆い隠して余りある。
デミットは完全かつ純粋なパワータイプ。ごろんとした体は突起が少なく、組み手に持ち込むことも難しく、分厚い皮膚は多少の衝撃をものともしない。正直に言えば、かなり分の悪い相手だ。
では、どう戦うべきか。
「ぬぁあああああっ! ふんっ!」
両手を広げてブルドーザーのように迫るデミット。俺はあえて彼女の方へと駆け寄り、前転。直後、彼女の腕が俺を捉えようと迫るが、すでにそこに俺の体はない。
「ちょこまかと!」
「捕まえられるもんならやってみな!」
ずささ、と砂に足を突き立てて勢いを殺し身を翻すデミットは、こめかみに青筋を立てている。見下している相手から煽られれば、プライドだけは高い彼女にはかなり効くだろう。
再び迫ってくる巨大な壁を、俺は再びすり抜ける。
「この日のために特訓したんだ。この程度余裕だよ」
ウルザやカウダといった〈ソルオリエンス〉のパワータイプ。体も大きく動きも速い彼女たちに協力してもらって、俺は鍛錬を積み重ねてきた。
やったのはシンプルな尻尾取りだ。尻尾がない俺は腰巻きに紐を挟んでウルザたちにはそれを狙ってもらった。巨躯の獣人はそれだけで強大なアドバンテージを持つが、何度も彼女たちに尻尾を取られながら、気付いたことがある。巨躯は巨躯ゆえに隙間も多い。冷静に動きを見定めれば、俺の小柄な体ならすり抜けるようにして相手の背後に回り込むことすらできる。
「取った!」
「ひぃっ!?」
パシンッ、と汗で湿った肌を叩く音。しまった、意識が尻尾取りに寄ってしまったせいで、デミットの尻を叩いてしまった。彼女の短い鞭のような尻尾がビュンビュンと揺れる。
背筋を反らせて振り返った彼女は、顔を真っ赤にして目を吊り上げていた。
「こ、このヒトオス!」
「いや、すまん。目の前に尻があったからつい」
「なぁっ!? こ、こ、この淫乱め! 試合中に誘ってるのか!?」
「そういうわけじゃ――」
問答無用、と雌叫びを上げてデミットが迫り来る。
「いくら軍属で身分も収入も高くてもなぁ! 私のような醜女には誰も見向きしないのだぞ! それをお前、舐めやがって!」
「知らねえよ!」
こいつ、剣闘士に転職した本当の理由はそこにあるんじゃないのか。
男日照りで出会いの可能性すらない、遠征続きの軍属。対して、剣闘士ならば観衆からの喝采を浴び、若い男からも褒めそやされる。
「お前も私が河馬獣人だからと! 汚い汗を流すからと馬鹿にするのか!」
「してないだろうが!」
ぶんぶんと振り回される鉄棍棒に、もはや理性はない。湯気が立つほどに加熱した彼女の首筋からは、赤い汗が滲み出ている。全身に汗が浮き出した姿は、まるで返り血で真っ赤に染まったようだ。
「うぉあああああああっ!」
鉄棍棒をまともに受け止めれば、腕ごと持っていかれる。ギリギリで避けながら、少しずつデミットへと近づく。
「デミット!」
「っ!」
彼女の太い手首を掴む。大きな頭に比べて小さくつぶらな瞳をじっと覗き込む。彼女は虚を突かれたように動きを止めた。
「あんたは醜くなんかない。その棒術、洗練されてる。実戦の中で磨かれてきた技がある」
「な、にを」
「俺は異国の出身だ。故郷と家族は、帝国軍に殺された」
彼女の体が動揺に揺れる。俺の種族、来歴、知らないわけではないだろう。それでも、本人から直接告げられると、無視できない。
「しかし、兵士を憎んでるわけじゃない。正直、帝国にも憎悪はそこまで抱いていない。そういうのは全部、奴隷の首輪と一緒に置いてきた」
奴隷剣闘士に堕ちた時は、自分の身を呪ったものだ。どうして俺がこんな目に遭わなければならないのかと。平和な日本で暮らした記憶があるだけに、余計に苦しみは強かった。
けれど、戦いの中で知った。自分の体ひとつで、俺はあの地獄から脱することもできるのだ。そして、こうして数万の観衆に応援されながら、偉大な英雌と戦うことができるのだと。
「俺は俺の道を、俺の力だけで進むことができるこの世界が好きだ。自分の力だけで進んでる、あんたが好きだよ」
「っ! おま、それはどういう――」
デミットも、ウルザも、ドミナも、トリクスも。この弱肉強食の世界で生きている。彼女たちは例外なく、自分を何よりも強く信じているのだ。
「俺とお前、どっちの方が強いか。どっちの方が自分を信じてるか。決着をつけよう」
重戦士がごくりと喉を鳴らした。
彼女もまた、闘争が好きなのだ。血湧き肉躍る戦いが、肉を切らせて骨を断つような激戦が、血で血を洗うかのような混戦が。自分というものの存在価値を、最も強く感じられる、この舞台が。
「いくぞ、デミット!」
「――うぉおおおおおおおおおっ!」
距離を取り、仕切り直し。再び、走り出す。
両者、衝突。
――その直前。
「そ、そこまでっ!」
俺の剣とデミットの棍棒が硬い音を奏でる間際に、審判が異例の声を発した。予想外のことに、俺もデミットも目を丸くしながら動きを止める。剣闘士の試合を止めることなど、そうあってはならないことだ。
いったい、何を理由に止めたのか。客席も大きくざわつく中、純白のトーガを纏った大柄な女性が、ゆっくりとこちらへやってきた。
くすんだオレンジ色の髪に、琥珀色の瞳。年齢を感じさせる皺を刻みながら、衰えた様子は一切ない。むしろ、今が全盛と言っても疑うことはないだろう。彼女が何者なのか、名乗られずとも理解した。
「リーシス・ユリウス・パトレス」
元老院議員の虎獣人は俺に侮蔑の目を向けた。
「神聖なる炎龍闘祭のため、参集せし皆の衆! 今、この場にて看過しかねる大罪が犯されている!」
俺たちに、ではなく観衆に向けて、リーシスは声を張り上げる。
「この男――そもそも男が聖域を汚すことままならぬが、あまつさえこの男は勇猛たる闘士たちをたぶらかし、その甘言にて戦意を削ぎ、この儀礼を侮辱した!」
「おい。何を言ってるんだ」
あまりにも大それた放言だった。怒りを抑えることができず、老女へと向かう。しかし彼女はこちらを見下して鼻で笑う。
「何をしたか、自分がよく分かっているでしょう。お前はいつも必要以上に相手に密着し、淫らに体を交わらせ、誘惑していた。耳元で毒蜜のような言葉を囁き、意識を乱した。過去の対戦相手からも、証言は上がっているのよ」
「は?」
まったく予想外の言いがかりに思わず頓狂な声がでる。一体、誰がそんなことを言ったのか分からない。
「お前が何をしたのか、詳しいことは牢で聞きましょう。――こいつを捕らえろ!」
リーシスの一言で、いつぞやの隊長たちが飛んでくる。俺はあっという間に捕縛され、そのままずるずると引きずられていく。
あまりにも予期せぬ展開に、会場が混乱に陥っていた。デミットも怒りを露わにしているが、武装した象獣人や犀獣人たちに取り囲まれ、身動きが取れないでいる。
炎龍闘祭の準決勝という大舞台で、対戦者の一人が捕縛されるという事態。あまりにも、奇妙な展開だった。だが、相手は元老院議員の中でも最年長の実力者ということもあり、誰もが表立って抗議の声を上げることができない。
大闘技場は混迷を極めたまま、幕を下ろす。――かと思われた。
「待てぇえええええええいっ!」
その時、客席の一角から朗々と響き渡る大声があった。客席がざわつくなか、巨体が勢いよく階段を駆け下り、そのままの勢いで舞台へと飛び降りる。奴隷や男が立つ客席から、平民女性の席、騎士階級、貴族、そして元老院議員たちが座る最上級の席すら蹴散らす勢いで、一直線に飛び出してきた。
「と、トリクス!?」
ほっかむりを剥ぐようにして払いとり、その鮮やかな赤髪が風にたなびく。
地響きと共に砂に飛び降り、牙を剥いて険しい憤怒の形相を浮かべるのは、誰であろう、あのトリクスだった。
「なっ、なぜ――」
その姿を認めたリーシスが恐れ慄く。彼女ほどの立場の者が、なぜそれほどにたじろいでいるのか。
「なぜここに、皇太子殿下が!」
唾を飛ばして絶叫する虎獣人に、トリクスは泰然として対峙する。
彼女は否定しない。つまり――。
「と、トリクスって……」
彼女は自称“そこそこ偉い貴族”どころの騒ぎではない。現皇帝――“鉄拳皇帝”ベスティア・パトリア・レギナの娘なのだった。