その佇まいは威風堂々。真紅のマントに身を包み、燃えるような赤髪を風に靡かせている。体格では勝るはずのデミットたちですら小さく見えるほどの圧倒的存在感。俺は、トリクスがそれほどの覇気を宿していたことに驚いていた。
だが何よりも驚いているのはリーシスだ。俺を舞台から引き摺り下ろそうと満を辞して立ち上がったその矢先、まさか皇帝の娘が立ちはだかるとは。彼女はあんぐりと口を開け、呆然と立ち尽くしている。
「先ほどから聞いておればベチャベチャと。嘘八百を並べたておって。リーシス、お前こそ、ここが神聖なる場であることを忘れてるわけではなかろうな」
「ぐっ、そのようなことは……」
獅子の威圧の後退るリーシスだったが、直後に勢いを取り戻す。
「こちらには揺るがぬ証拠があるのですよ。その男は過去の対戦相手も誑かし、己の実力を偽って勝利を手に入れたのです」
「戯けっ!」
トリクスは眼光鋭く一喝する。だがリーシスも百戦錬磨の元老院議員だ。臆することなく懐から一枚の書状を取り出して、広げてみせた。
「これこそがその証拠! “怪力”のフォルティスや“神速”のエクィア、その他多くの対戦者たちが試合の後、アモア神殿へと足を運んでいるのですよ!」
「なっ――」
その言葉にトリクスが絶句し、会場が騒然となる。予想だにしない展開に興味津々と顔を突き出していた観客たちが一斉にざわついたのだ。
「なあ、アモア神殿ってなんだ?」
「ええっ!? お前、知らないのか……」
聞き慣れない名前が出てきて、俺だけついていけていない。仕方がないので、近くにいたリーシスの手先である隊長に尋ねてみると、彼女はぎょっとして耳を立てた。
「あ、アモア神殿って言ったらアレだよ。ほら、愛の男神を祀る神殿だ」
「愛の男神?」
「恋愛相談とか縁結びとかそういうことを願いにいくところさ」
「はぁ」
この隊長、案外いろいろ教えてくれる。とはいえ、よく分からないな。俺の過去の対戦相手が愛の男神の神殿に足を運んだくらいで、どうして俺が罰されなければならないのだろう。
「なんできょとんとしてるんだよ。アレはお前の対戦相手が試合の後にアモア神殿に行った証拠。つまり、お前に誑かされたことの証明なんだぞ」
「なんでそうなるんだよ!?」
あまりにも論理が飛躍しすぎてびっくりする。これだから古代世界は。
要は俺が彼女たちを誘惑し、彼女たちはそれに屈してしまった。そんな自分を恥じ、懺悔するため、愛の男神へと誓願に行ったと。そう言う感じのことだと隊長は教えてくれた。教えてくれた上で、なお分からないが。
ていうか、神殿を訪れたという記録は個人情報なんじゃないか? この世界では個人情報という概念もないのだろうか。
「待てぇええええええいっ!」
「貴様、貴様ぁああああああっ!」
――と、思った直後。客席から悲鳴のような声が上がり、立ち上がった人影が勢いよく舞台へと飛び降りてきた。その姿を見て、俺はまたしても驚いてしまった。
「フォルティス、エクィア!? どうしてここに!?」
顔面に焦燥やら怒りやらと様々な感情を浮かべた剣闘士たち。鼠獣人の“怪力”フォルティスと馬獣人の“神速”エクィアである。トーナメントで敗退した彼女たちは武装を解き、一般的な私服姿でなかなか新鮮だが、そんなことを言っている場合ではない。
「ち、違うのだウィリウス! これは別に、お前との相性を占ってもらうために行ったわけではなく。あ、いや、アレが私の体のサイズに合うかどうかと言われたら……。ってそうじゃなくて!」
「私はただたまたま偶然神殿の前を通りがかっただけで、特に目的もなく入っただけだ! ま、まあ私もそろそろそういうことを考える歳ではあるが、全くもって、関係ないというか」
試合の時よりもずいぶんと流暢に捲し立てる二人。どうやら、二人がアモア神殿に足を運んだことは事実らしいが、一応隠しておきたい個人情報であることも間違いないようだ。
「ふん、これであなたもお分かりでしょう。この女たちは魔性の男に籠絡され、力を失ってしまったのですよ! まさか、あなたまでウィリウスの毒牙にかかっているとか?」
後半は観客には聞こえぬよう囁くように。リーシスは勝利を確信した笑みで語りかける。
状況証拠は揃ってしまった。客席にも疑念が波紋のように広がっている。俺がなぜ、体格でも膂力でもはるかに勝るフォルティスたちに勝てたのか。そこにリーシスが安易な理由を掲げてしまった。たとえそれが間違っていても、観衆は分かりやすければ受け入れてしまう。
「リーシス、彼女たちを侮辱することはやめろ」
だが、その時。厳かな声が一言。たったそれだけで大闘技場は水を打ったように静まり返った。
声の主はトリクスだ。彼女はそれまでの激しさを隠しながらも、威圧だけはより膨らんでいる。彼女が本気の憤怒を、ギリギリまで抑え込もうとしていることは明白だった。彼女が身に纏う太い鎖が、じゃらりと揺れる。
「彼女たちが剣闘士であること、誇り高き戦士であることを忘れたか。炎龍闘祭に参加する全ての戦士たちは一人の例外なく、日夜鍛錬に励み、己の技を磨き続けた。そこに一切の油断や慢心、ましてや情欲に揺れる杜撰さなど、あろうはずがない!」
その一喝は力を帯びていた。誰よりも剣闘を愛する彼女だからこそ、その言葉には力がこもっていた。俺の戦いぶりを観てきた彼女は、そこには力と力、技と技がぶつかり合う純粋な剣闘を見出してきた。
リーシスの主張は、彼女のそれを疑うことに他ならない。
「私からも言わせてもらおう。過去に二度、ウィリウスと戦い、そして二度負けた。しかし、だからこそはっきりと断言する。ウィリウスは私よりも強い!」
フォルティスが高らかに言い切る。剣闘士が自ら力量の差を認めるという事態に、静まり返っていた観客たちがどよめく。
「私も同じだ。むしろ彼は逆境の中でも屈することなく、果敢に挑むほどの力を持っている。――誰かが〈アダマス〉に賄賂の提案をしてきたとしてもな」
「っ!」
エクィアの鋭い眼光は、元老院席に座る一人の貴族へと向けられる。あまりにもあからさまに怯え、肩を跳ね上げる女性に、周囲がさらにざわついた。
「我々は正々堂々と戦い、そして負けた。それに疑義を突き付けるのは、我らへの侮辱、ひいては炎龍への誹りと取っても、おかしくはないぞ」
フォルティスの小さな体がリーシスを圧倒していた。明らかな怒気を孕んだ声は低く響き、今にも虎の喉笛に食い付かんという気迫に満ちている。
正々堂々と行った真剣勝負を疑うことは、剣闘士全体を敵に回すことと同じだった。エクィアも、デミットも、見るものが竦み上がるような怒りの表情だ。
「――うちのウィリウスの実力がそんなに不安なら、決勝で白黒付けましょう」
その時、新たな声が登場する。通路の暗がりから現れたのは、優雅に煙管を傾ける、細身の蜘蛛虫人。我らが〈ソルオリエンス〉の団長ドミナだ。彼女は背後に誰かを連れている。
「ちょうど準決勝が終わったので、連れてきましたよ。――ウィリウスの次の相手」
「そうか、やっぱり勝ったか」
ドミナの背後から現れた巨熊。隆起した筋肉に血管が浮き出し、大斧に乾いた血がついている。想像を絶するような激戦を制したのだろう。
「ウルザ!」
俺と同じく、トーナメントを駆け上がってきた剣闘士。彼女は俺が最もよく知る人物でもある。剣闘士ウルザ。その戦いぶりからついた二つ名は――“豪傑”。
「そんな、許可できるわけがないでしょう!」
声を張り上げるリーシス。まだ勢いは我にありと、証拠を掲げて叫ぶ。
だが、そんな彼女の頭上から烈火の如き声があがった。
「その試合、余が認めるっ」
「なぁっ!?」
リーシスが引き攣った声を発する。振り返った彼女の眼前に立つのは、真紅のマントを身に纏う獅子獣人。だが、トリクスよりも更に大きく、また圧倒的だ。
「べ、ベスティア様――!」
「げぇっ、母上!?」
ベスティア・パトリア・レギナ。
広大な版図を有する帝国の主であり、権力構造の頂点。勇猛な武人としても知られ、“鉄拳皇帝”とも称される。そんな国の最重要人物が、舞台にまで降りてきていた。
「リーシスが疑う気持ちも分からぬわけではない。しかし、そこの男が誇りを持って戦っていることもまた明白。剣闘士が決着をつけるのであれば、その方法はひとつしかなかろう」
皇帝がちらりと俺を一瞥し、ニヤリと笑う。
「戦え。己の力と技と、肉体の全てを投じて、どちらがより強いかを確かめよ。炎龍が審判を下したその時、結論は固まるだろう」
有無を言わせぬ強い言葉。それはもはや提案などという気弱なものではなく、確定事項だった。神前にて戦い、決着をつけよと、鉄拳皇帝はそう言ったのだ。
「それと、トリクス。お前には教師を付けていたはずだが? なぜここにいる?」
「う、うぐぅ……。そ、それは、ええと」
「久々に、直々に説教をしてやらねばならぬようだな。来い」
「ひえぇ」
いつも偉そうなトリクスも、実母には敵わないらしい。今までの威風堂々とした佇まいはすっかり鳴りをひそめ、しゅんと尻尾を垂らしながらトボトボと母親の後に着いていく。
そんな少し情けない光景を最後に、俺の決勝進出は決定したのだった。