特殊部隊もかくやという強襲を掛けてきた十数人の獣人女性たちの視線を釘付けにしたのは、ベッドに押し倒された俺でもそこに馬乗りになっているウルザでもなく、二段ベッドの上段から不機嫌そうな顔を覗かせている桃色の髪の女性だった。
「な、なんでリニカさんがこんなところにいるんスか」
集団の中から誰かが戸惑いの声を漏らした。
リニカというのは、この下半身が大蛇のものになった細長い女の名前だろう。屈強な剣闘士たちが揃いも揃って勢いを落としているところを見るに、身内ではあるが団内でも偉い立場にある人らしい。
ドミナから受けた簡単なレクチャーの内容を思い返し、そういえば一人出会っていないメンバーがいたことに気付く。
「もしかして、あんたが医者か?」
「そうよぉ。〈ソルオリエンス〉の腕利き名医リニカさんとは私のことよ」
その役職を言い当てると、リニカはニコリと笑って体を揺らす。俺の胸を弄っていた蛇の尻尾がしゅるりと滑り、赤を通り越して青い顔をしていたウルザの首からも離れる。そのまま慣れた動きで二段ベッドから降りてきた彼女と、ようやく真正面から顔を合わせる。
団長のドミナも蜘蛛の腹や三対の腕などなかなか特徴的な姿をしていたが、目の前に立つリニカもまたずいぶんと人型から離れている。上半身だけを見れば胸が大きくてセクシーなお姉さんといった様子だが、腰から下は薄桃色の鱗に覆われ、太い大蛇のそれに変わっている。全長はおそらく、五メートルを下らないだろう。とはいえ、その大半は床でとぐろを巻いているので、視点の高さとしては二メートルと少しと言った所だ。それでも十分デカい。
〈ソルオリエンス〉は十三人の剣闘士たちと俺を除けば、団長のドミナ、料理人のケナ、そして医師のリニカで全員だ。ようやく顔合わせが終わったということで、とりあえずリニカと軽く手を交わす。
「うぅぅん……」
その頃になってようやくウルザが頭を振りながら立ち上がる。酔いも酸欠も落ち着いたのか、顔色も良くなって思考も明瞭そうだ。彼女ははっと周囲の状況を確認すると、リニカの方をじっと睨んだ。
「盗み聞きなんて趣味が悪いじゃないか。アンタは専用の部屋があるだろ」
どうやら大部屋をあてられるのは剣闘士たちだけで、役職持ちはそれぞれに個室を与えられているらしい。ウルザは二段ベッドの上に潜んでいたリニカが俺たちの話に聞き耳を立てていたと思っているようだった。
しかし、詰め寄られた方は飄々とした様子で、文字通りのらりくらりと体を揺らす。半分蛇の形をしているからか、そんな動きも妙になめらかで踊っているようだ。
「失礼ねぇ。私が寝てるところにあなた達が来たんじゃないの」
「寝てただぁ?」
「この時間は窓から光が入ってきてあったかいのよぉ」
うふふん、と誇らしげに窓を指し示す。確かに夕食時――日没直前の時間帯はちょうど西方に向いた窓から暑いくらいの光が差し込んでくる。蛇獣人とはいえ流石に変温動物ということはないだろうが、日差しの中で寝るのが好きなのだろうか。
「おうおうウルザよ。部屋に男連れ込んで聞かれちゃマズいコトを話してたのか?」
「げっ」
ベッドの上段から枕を持ってきて窓のそばに向かうリニカと交代して一歩踏み出したのは、ドアを蹴破って入ってきた先輩方である。軽率な発言に今更気が付いたウルザは、思わず苦い顔をする。
「いや、そんなマズいコトって訳じゃ。ただそんな皆に聞かせるようなもんでもないっていうか」
「ほほーう? そりゃあ興味がそそられるなァ」
「おうおう、ちょっと面ァ貸せや」
「あたしらにもたっぷり愛の言葉を囁いてくれよ」
「そういうんじゃないって言ってるだろ!? ちょっ、掴むな。待って、ま――」
流石のウルザも同じような体格の女たちに掴まれたら逃げきれない。抵抗虚しくズルズルと引き摺られていく哀れな熊を、憐憫の目で見送った。ケナが食後にも軽い鍛錬の時間があると言っていたし、ちょっと予定が早まったくらいの話だろう。
「いやぁ、あの子らはいつも騒がしいけど、今日は一段と賑やかだったねぇ」
後に残されたのは俺とリニカだけ。二度寝に入ったかと思った彼女だが、ちょうど太陽が建物に隠れてしまったこともあり枕を手放していた。
彼女はザリザリと床を這うようにして歩き出し、部屋を出る手前でこちらへ振り返った。
「そうだ、改めて挨拶しておいた方がいいかなぁ。私はリニカ、見ての通り蛇獣人のお医者さんね。鍛錬でも日々の生活でも、怪我したり体調が悪くなったら気軽に相談してちょうだい。普段は宿舎の日当たりのいいところにいるし、試合もちゃんと医務室で控えてるからねぇ」
「分かった。これからよろしく」
体が資本の剣闘士稼業、今後彼女の世話になることも多いだろう。巷には金をぶん取ることに執心するヤブ医者も多いと聞くが、流石にドミナの信任を受けているなら問題ないだろう。
ひとけの無くなった大部屋を見渡し、俺も出口へと向かう。なんだかんだあって、まだ自分の夕食を摂れていない。せっかく腕によりを掛けて唐揚げなんて手の込んだものを作ったのだから、多少冷めていても楽しまなければ――。
「ちょっとそこのお兄さん?」
「おわっ!?」
だが、食堂へ向かおうとした俺は暗がりから現れた影に進路を阻まれる。凄みのある声に驚きながら見上げると、六本の腕がなめらかに動いて左右に広がる。
「このドアは誰がどうしたのかしらねぇ?」
細い目がなお細くなり、糸のようだ。わずかな隙間から見える紫紺の瞳の光は鋭い。それを見て、俺はドミナが青筋を立てていることに気が付いた。
この宿舎は〈ソルオリエンス〉が借りている貸家だ。その大部屋を仕切る木のドアが、無惨にも木っ端微塵に砕け散らばっている。更に蝶番も捩じ切れており、ただ張り合わせただけでは直らないことは明らかだった。
つまり、弁償案件である。
「……俺じゃない」
「ふぅん?」
蛇に睨まれたカエルというのはこういう気持ちなのだろうか。それなりに死線もくぐって来ているはずなのに、足がすくんで動けない。
ドミナはたっぷり十秒以上俺を見つめ、ようやく視線を外す。それだけでまるで深く刺さっていた杭が抜けたような解放感だ。
「ウィリウス、一つだけこの剣闘士団の規則を教えておくわ」
冷たいナイフのような声が降りかかる。俺は背筋を伸ばして拝聴する。
「仕事に関わることなら金は出すけど、そうでないなら自分で支払うこと。経費に認められないものは、一セルティスたりとも出さないからね」
「……分かった」
一セルティスを笑う者は一セルティスに泣く。小規模な剣闘士団ということもあり、〈ソルオリエンス〉の財務状況はそこまで余裕があるものでもないのだろう。団長として財務も取り仕切るドミナの言葉は鬼気迫るものがあった。
そういえば、俺も晴れて職業剣闘士になったということは、今後の試合ではファイトマネーが支払われると思っていいのだろうか。
それに気付いて、ちょうどいい機会だと団長に尋ねると、彼女は少し呆れたような顔をして頷いた。
「当然でしょう? 試合に出るだけでも多少の金は出るし、賭けが白熱すればするだけ取り分も増える。もちろん、試合に勝てば更に増えるわ」
庶民から貴族まで多くの者が熱狂する娯楽ということもあり、剣闘士自体も結果さえ出せればかなりの高給取りになれる。もちろん、負けが続けば配当金も減るし、死んだらもちろん、怪我をしても稼ぎは大きく目減りするが。
そもそも、俺が奴隷剣闘士から解放奴隷になれたのも、三十勝のファイトマネーを全額、元の主人に身代金として納めたからだったはずだ。三十勝も重ねれば、身分すら買えるというわけだ。
とはいえ、今の俺は一文無しであることには違いない。壊す気はないが今のままでドアを破ろうものなら、今度はドミナの下で奴隷生活に逆戻り。早いところ自由に使える金を手に入れておきたい思いが湧いてきた。
「ちなみに、俺の次の試合は決まってたりするのか?」
少し期待を込めて尋ねると、団長は困ったように柳眉を寄せる。しかし、すぐに何か思い出したのか、口元に笑みを浮かべてそっと囁くように言った。