第06話「彼女の夢」
食堂の床に寝転がってイビキをかき始めたウルザを見かねて、彼女を寝室に運ぶことにした。獣人は酒豪も多いと聞くが、彼女は少し近づくだけで強いアルコールの匂いがするほど身体中に染み込んでいた。まったく、どれほど飲んだのか。
「うぇええい」
「……重たいなぁ」
身長2メートル近い彼女を支えるのは困難だ。幸い、立って歩けないほどというわけでもなく、肩を貸して誘導するだけでウルザはよたよたと歩き出す。俺の首よりも太い腕は、そのまま締められれば抵抗すらできないまま骨を軽く折られてしまいそうだ。
内心戦々恐々としながらも、それが丹念に鍛え上げられた筋肉であることも分かる。負けた試合も数えれば、俺もかなりの場数を踏んできた。ウルザはそんな数多の剣闘士の中でも特に素晴らしい体の持ち主だ。
今日の試合も、俺が不意を打つような戦い方をしなければ数秒でけりが付いていただろう。
「ほら、入れ」
「うぉぉん」
本物の熊のような声を上げるウルザを連れて、寝室のドアを押し開ける。事前にドミナから宿舎の間取りを教わっていて助かった。
俺の個室とは違って、女剣闘士たちは十三人がまとめて一室に詰め込まれている。二段組のベッドが左右に八つずつ、合わせて十六。ぎっちりと詰め込まれている。収容人数だけで言えば三十人以上が入る計算だ。
〈ソルオリエンス〉の人員に比べればかなり余裕があるのは、この宿舎が貸家だからだろう。
「ウルザのベッドはどこだ?」
「一番奥ぅ」
どのベッドに寝かせても変わらないだろうが、とりあえず彼女の言葉を信じる。苦労して一番奥まで連れていくと、彼女はベッドに倒れ込むようにして寝転んだ。
このまま寝かせてやってもいいが、水も飲ませた方が明日に響かなくていいだろうか。
「――お前、なんであの時刺さなかった」
不意にはっきりとした声がして驚きながら振り返る。見れば、ベッドの陰から赤い瞳がこちらを見ていた。
「酔ってたんじゃないのか?」
「まだふわふわしてる」
……酔っていることは酔っているらしい。それでも、フェレスと共に帰ってきた時と比べれば幾分顔の赤みも引いている。どんだけ肝臓が強いのかと少し呆れてしまう回復の早さだ。
しかしウルザは、酔いのことなどどうでもいいとばかりに体を起こし、ベッドの縁に腰かけたままこちらを見据える。その目はまた同じことを問うていた。
先の試合。俺はウルザの懐に潜り込んだ。その時、迷わず剣を突き刺せば、いかに岩のように鍛えられた腹筋であろうと容易く貫けただろう。いかに体格や力で勝ろうとも、人も獣人も急所は変わらない。
「……あれは致命傷だろう」
だが、俺はそうしなかった。
腹を切り裂けば、腑まで傷つく。傷口が裂けて腸が溢れ出したり、便が漏れ出したり。なんにせよ、腹に傷を受けたら今後にも関わってくる。
しかしウルザはまだ憤ったままだ。
「隙を生んだのはアタシだ。そこを突かないでどうする」
「――人は殺したくない」
「剣闘士は命を賭けるもんだろ! アタシはあそこで死ぬ覚悟はできてる!」
勘弁してくれ、と思った。
たしかに剣闘士は命を賭ける危険な競技だ。かつて祖霊へと奉じる葬礼の儀式だった時から、剣闘士は幾度となく戦いのなかで命を落としてきた。内容が過激な時代には、弱腰な試合をした剣闘士が二人揃って殺されることもあったという。
だが、俺は――俺の中には平和な社会で暮らしていた日本人としての記憶もあるのだ。できることなら殺したくないと思うのは当然だろう。ウルザに覚悟があっても、俺にそんなものはない。
「甘えたこと抜かしやがって。これだから男は軟弱なんだ」
鼻息も荒く、憤慨するウルザ。この世界に生まれ落ちてから、耳にタコができるほど聞いてきた言葉だ。お前もか、という諦観のため息を吐いてしまう。
「そもそも、剣闘で人が死ぬ方が珍しいだろ」
剣闘士もタダではない。剣闘士団所属のプロもはもちろん、奴隷や囚人であっても育てるのには時間がかかる。武器や装備も用意しなければならないし、何より何か食わせなければ死ぬ。
奴隷は財産だ。それをみすみす捨てることができるのは、皇帝や貴族といった一部の金持ちだけだろう。だから、大抵の試合は戦った剣闘士たちが助命を受けて無事に終わるものだ。
「だからダメなんだ。剣闘は神聖な儀式なんだぞ。それなのに、最近は堕落した奴らばっかりで……」
まだ酔いは深いようで、ウルザはくどくどと管を巻き始める。まったく面倒臭い酔っ払いである。剣闘なんて、今では金を賭けて勝敗を予想する娯楽でしかない。神聖な儀式という建前は、もはや形骸化して久しい。
パンとサーカスとはよく言ったもので、周辺諸国から富を吸収して栄華を極めたこの帝国では皆が娯楽に飢えているのだ。
「ふん。これだから帝国も龍から見放されるんだ」
「龍?」
何気なく溢れた言葉に思わず反応する。そういえば、彼女はあの闘技場でも神龍がどうとか言っていた。
疑問符を頭に浮かべる俺に気付いたウルザは、信じられないといった様子で眉を上げた。
「神龍だよ。我らが大いなる母君だ。剣闘は元々、祖霊に捧ぐ葬礼となる前から神龍に奉じられてきたって習わなかったのか」
「残念ながら学校に通ったこともないんでな」
とはいえ全く知らないというわけではない。驚いたのは、ウルザが古い神話のことを平然と語ったからだ。
神龍とは太古の昔、天地開闢の時代に地上へ降り立った万物の主だ。それは己の身を五つに分け、それぞれに自然のひとつを任せることにした。炎龍、水龍、土龍といった具合に。
俺のような人間も、ウルザのような獣人も、その系譜を辿れば全て神龍へと行きつくと言われている。森羅万象の根源が、神龍なのだ。
「お前も炎龍闘祭は知ってるだろ? まさか、それも知らないのか?」
「…………帝都の大闘技場で開かれる試合だろ」
必死に記憶を掘り返し、なんとかそれらしいものを見つけ出す。地方都市で奴隷剣闘士やっていた奴が覚えていたのは奇跡みたいなものだ。たしか、以前隣の牢に入っていた剣闘士が言っていた気がする。
帝国の中枢たる帝都の、世界の七不思議すら霞むほどと謳われる壮麗な一大建築物。それこそが大闘技場だ。十年の月日と大量の人員を投入して作られたその舞台で、五年に一度剣闘の大祭が開かれる。
帝都の大神殿に座する神龍の一柱たる炎龍へと闘技を捧げる炎龍闘祭である。
「炎龍闘祭で頂点に立てば、最強の証明になる。アタシは今度の祭りでそこを目指すつもりだ」
ウルザの目は輝いていた。
最強という称号は、この世界の女ならば一度は憧れるものなのだろう。剣闘士の頂点に立ち、神龍に認められる。これほどの栄誉はないと彼女は力説した。
「それならなおさら、こんな所で死ぬわけにはいないんじゃないか?」
「ここで死ぬなら、器じゃなかったってことだよ」
調子に乗っているのか達観しているのか、よく分からない奴だ。
「でも、ウルザは俺に負けたんだよな」
「なっ!? それは――。次は絶対勝つから問題ないんだ!」
ぼそっと呟いたのもしっかり聞こえていたらしい。ウルザは丸いクマ耳をプルプルと震わせて立ち上がる。二段ベッドの底板に頭をぶつけて大きな音がするが、意に介する様子はない。
「お前なんか、アタシが本気になれば力づくで押し倒せるんだからな! 泣いても叫んでも容赦しないぞ!」
「弱いなんとかほどよく吠えるって言うよなぁ」
「こ、この野郎。舐めやがって!」
ちょっと煽るだけでウルザは面白いくらいに反応する。もともと真面目で剣闘士の伝統を重んじる奴だ。それにしても耐性が無さすぎる気もするが、生来の性格なのだろうか。
考えに意識を向けていると、強引に腕を掴まれベッドに押し倒される。彼女の黒い鼻先が間近に迫る。
「ど、どうだ! 逃げられないだろ」
「そうだな」
「ゆゆゆ、油断しやがって。アタシだって女なんだぞ? お、おらぁ!」
何やら威勢のいいことを放っているが、それにしては動きがぎこちない。俺の腰に跨ってはいるものの、そこからどうしたらいいか分からないような様子だ。勢いで押し倒したのはいいもののその先を考えていないのは明らかだった。
とはいえ、力で圧倒的に負けているのは事実。このまま行くところまで行ってしまう可能性はなきにしもあらず。アルコールが回って上気したウルザは汗ばんでいて艶やかだ。俺の腕をベッドに押しつけたまま、ごくりと生唾を飲み込んでいる。
「ん、んん……」
ウルザは何やら意を決した様子でぎゅっと目を閉じる。
その時、彼女の背後からしゅるりと長い影が落ちてきた。窓から差し込む夕陽が反射して、ピンクがかったなめらかな鱗が光る。それが巨大な蛇の尻尾であると理解したその時、それが勢いよく熊の首に絡みついた。
「んぎぎぎぎっ!?」
「全くぅ。人がせっかく寝てたのに、邪魔しないでよぉ」
ギシギシと二段ベッドの上部が軋み、ひょっこりと女の顔が飛び出した。眠たげな瞼の下からは無機質な細長い瞳孔が覗いている。太く立派な蛇の尻尾がしゅるりと動き、俺の頬を強く撫でた。
「あらぁ? あらあらあら、男の子じゃないのぉ」
ベッドの上からぶら下がる女の顔がにやりと笑う。獲物を前にした捕食者のような鋭い眼光に、今度こそ本能が警鐘を鳴らし始める。
蛇の尻尾が体を這い、胸を撫でる。体を包む服の下にまで滑り込んできて、ペタペタと舐めるように触れてきた。
ウルザに助けを求めようとしたその時。
「ウルザァァアッ!」
「てめぇ、抜け駆けしやがったか!」
「ざっけんなコラー!」
薄い木のドアが儚く砕け散り、逞しい巨女たちが勢いよく傾れ込んでくる。筋肉密度が一気に高まり、同時に張り詰めた空気が弛緩する。怒気を孕んだ剣闘士たちは首の締まったウルザと、尻尾で胸を撫でられている俺を見て、きょとんとする。
そして、二段ベッドの上部に目を向けて、一斉に口をへの字に曲げるのだった。