「雫ちゃん、お散歩行きましょ」
「はぁい、ちょっと待ってて、確認してきまーす」
越してきて一週間。仕事を少しずつ覚えつつ、空いた時間は尚美さんと過ごす事が多い。お世話というより、一緒にぼーっとしたり遊んだりしている。今日はお散歩のお誘いだ。
まだ不慣れなので、みーちゃんに聞きにいく。
「尚美さんとお散歩してきてもいい?」
「そうだね、さっき雪かきしたから行ってもいいよ。転ばないようにね」
「うん、転んじゃうと大変だもんね気を付けるよ」
骨折なんかしたら大変なことになる。
「いや、雫の事を心配してるんだよ。あの人は慣れてるから大丈夫だと思うし」
「えっ、あ、私?」
クスクスと笑いながら、みーちゃんは仕事に戻っていった。
「はぁ、寒い寒い。尚美さん、手を洗いましょう」
帰った後は手洗いとトイレを済ます。リハビリパンツという薄手の履くタイプのオムツはしているが、そこに漏らすことなくトイレで出来た。
みーちゃんに伝えたら、「凄い凄い」と褒めてくれた。いや、私じゃなくて尚美さんを褒めてあげてよ。
「ん、今日も美味しい、雫さん料理上手よね、やっぱり厨房にも入ってもらおうよ」
「もう、恵さん、褒め上手なんだから」
「ほんとよ、本気で思ってるよ! 料理が美味しいって、旅館としてもアピールポイント高いでしょ?」
「確かに、そうだねぇ」
みーちゃんも頷いている。
「一通り仕事を覚えて、慣れてきたら入ってもらおうか」
仕事仕様のみーちゃんの表情にも慣れてきた。これはこれで悪くないーーいや、好きだなぁなんて見つめていたら目が合って、小首を傾げられた。
「あ、これ……」
と言う恵さんの声に食卓に目を戻せば、かぼちゃの煮物を食べたところだった。みーちゃんも一口食べる。
「この味付け……」
「やっぱり分かる? 今日のかぼちゃは尚美さんが作ったの」
私は素直に種明かしをした。
「懐かしい味だ」
恵さんは微笑みながら食べてくれたけど、みーちゃんは黙ったまま……それでも完食していた。
部屋に戻っても、みーちゃんは何か考え事をしているみたいだった。
「もしかして、怒ってる? 勝手なことしてごめん」
「え、何?」
「尚美さんと一緒に料理したこと、先に言っておけば良かったよね」
「ううん、違うよ。怒ってるわけじゃないよ、ただまぁ何というか……複雑な心境ではあるかな」
一緒に暮らすからこそ、お互いに思った事を言い合える関係でいたい。
私は次の言葉を待った。
私が不安そうにしていたためか、みーちゃんはハッとして「雫に対してじゃないよ」と、手を握って安心させてくれた。
「雫が来てくれて、私はもちろん恵さんも他の人も喜んでる。そして一番が、あの人ね。今までは無理だろうとか危ないからとか言って、何もさせてなかったんだなぁって、反省してたところ。介護は自立支援だって言われた事があったの。自分で出来ることは時間がかかってもやってもらうべきなんだろうね、本当は私がそれをやらなきゃいけなかったんだなぁって、雫を見ててそう思ったの」
「みーちゃんは、他にも忙しいでしょ、やれる人がやればいいんじゃない? 私で良いなら任せてよ」
「ありがとう、一緒にやっていこう」
みーちゃんは笑顔で言った。
「雫さーん、そろそろいいわよ」
恵さんの声が聞こえたので、みーちゃんを連れて部屋を出た。
「うわ、今日はまたたくさんのウサギだねぇ」
みーちゃんが驚いている。
満月の今日は、以前と同じく尚美さんの部屋でお月見だ。
「ふふふ、半分以上尚美さんの作品でーす」
「そうなんだ」
尚美さんは、わかっているのかいないのか、ニコニコしている。
今はまだ寒いので、窓ガラス越しのお月見だけど、今夜は雲もなくよく見えている。
「あれ? さっきは満月だったのに」
みーちゃんがまた驚いた声を上げた。
「あ、もう欠けてきた?」
恵さんは全く驚いていない。
「もしかして、知らなかったの? 今日は皆既月食なんだよ、みーちゃん!」
「えっ」
「みーちゃん? あなた、みーちゃんなの?」
ふいに尚美さんが大きな声を出したので、三人が一斉に振り向く。
尚美さんは、しっかりとみーちゃんの方を向いていた。
「みーちゃん、大きくなって」
「お、かあさん? わかるの?」
「みーちゃんの、おもかげ……あるわねぇ、確かに」
「えっ、嘘、だって、みーちゃんなんて呼ばれてたことなんて……あったか、幼稚園の頃か?」
みーちゃんは放心状態で、ほとんど独り言のようなつぶやきだった。
***
すっかり忘れていた。私の事を「みーちゃん」なんて呼んでいた時期があったこと。あの頃は……そうだ、確かに笑っていた。私も、あの人も。
まいったなぁ。
***
「みーちゃんの、小さい頃はどんなでした?」
私は好奇心も相まって尚美さんに聞く。
「可愛かったわよぉ、でもお転婆でねぇ、よく転んでたわよ。今でも膝小僧に傷跡があるんじゃないかしら?」
「……ある」
「あの時は、私の胸で大泣きしててねぇ」
「……そこは忘れてくれてもいいのに」
ふふ。
ふふふ。
みーちゃんの目にはキラリと光るものがあって。
恵さんも二人の会話に半分泣きながら笑っていた。
私は、みーちゃんの手をそっと握る。
「あら、月が赤いわよ」
いつの間にか皆既月食がすすんでいた。
「寒いけど、少しだけ窓開けましょう」
肉眼で見上げる、赤い月。
「綺麗ですねぇ」
「それは、ここでみんなで見るからよ」
最後の、尚美さんの言葉に胸が熱くなった。
翌日には、尚美さんはまた元に戻っていた。私が「みーちゃん」と呼んでも反応することもなかった。
ケアマネさん曰く、時々何かの具合で記憶が繋がることがある、らしい。
みーちゃんも「接触不良みたいなもの?」なんて言ってたけれど。
あの夜以来、みーちゃんが尚美さんのことを「あの人」と呼ぶことはなくなったから、私は嬉しくなっていた。
夢にまで見た、みーちゃんとの暮らしは、まだ始まったばかり。
これからの生活が、楽しみで仕方ない。
楽しい事ばかりじゃないかもしれないし、辛いことや悲しいことだってあるかもしれないけれど。
将来、あの縁側でお茶を飲みながら振り返る思い出を、これから二人で作っていくのだから。
ワンナイトではなく、一生の愛を。
「雫、ここにいたの? 悪いけど、茶わん蒸し作ってくれる?」
「はぁい」
【了】