「なんで、こんな……」
私は飛行機の中で、もう一度読み直していた。
知らなかったよ、こんなこと。
いったい、どういうつもりで?
私は腹を立てていた。
「みーちゃん、いらっしゃい」
スーツ姿の雫がドアを開けてくれた。
「急にごめんね」
「いいよ、私もさっき帰って来たばかりだから、今からご飯作るね。ちょっと待ってて」
雫は笑顔で上機嫌の様に見えた。
「手伝おうか?」
「いいよいいよ、疲れてるでしょ? あ、じゃぁ、お風呂入っててよ」
「そんな、悪いよ」
「その方が効率的だから」
雫は既に、冷蔵庫から材料を取り出し洗い始めている。その背中に語りかけた。
「効率って?」
「ごめんね、明日は朝早く行かなきゃいけないからさぁ。今夜は少しでもみーちゃんと一緒に過ごしたいから今のうちに入っちゃって」
ね? と、可愛くお願いされたら断れないや。
「簡単なものでごめんね」
「ううん、突然来ちゃったのに、ありがと」
雫はいつもの笑顔で「熱いから気をつけて」と、猫舌の私を気遣ってくれながら。
「何かあった? あ、私に会いたかったとか?」と続けた。
「あぁ、うん。思いがけず休みを貰えてね。大事な話もあるし」
そう言うと、熱々のドリアを口に入れようとしていた手が一瞬止まり、そして笑顔が消えた。それは一瞬だったけれど。
「ふぁ、熱っ! みーちゃんもう少し冷ました方がいいかも」
「あっ、温泉卵が入ってる。手が込んでるね」
「それがね、温玉って簡単に作れるんだよ」
「そうなの?」
「そういうグッズがあるの、お湯を入れて放っておくと出来上がってるという」
「へぇぇ」
やっぱり雫は楽しそうだった。
食事を終えて、私が片付けている間に雫はお風呂を済ませていた。
なるほど、効率的とはこういうことか。
「さてと、みーちゃん。聞きます、大事な話」
「これ、読ませてもらったよ」
雫から恵さんに送られてきた、履歴書とレポート。
「うん」
驚いていないから、恵さんから聞いたのか、最初から私が読むことは予想していたか。なら、話は早い。
「私は、雫に
顔色が変わった。眉間にシワが寄って明らかに不満顔だ。
「どうして?」
「大変だからだよ、雫に苦労はさせられない」
「私がやりたいって言っても? 私は、みーちゃんと働きたいんだよ」
「だからだよ」
「どういうこと?」
「雫には、本当にやりたい事をやって欲しいの。私に出会わなかったら旅館業なんてやろうと思わなかったでしょ?」
雫の目が大きく見開いた。
はぁぁ……と呆れたようなため息とともに。
「信じられない、そんなこと言うなんて」と、不機嫌を通り越して怒り出した。
なんで雫が怒るのよ!
「私に隠れてコソコソと恵さんと連絡なんかしてるし、私が反対するってわかってたんでしょ? だから外堀埋めるつもりだったんじゃないの?」
私だって怒ってるんだから。
「違うよ、私は……」
まだ何か言いたげな雫だったけど、その後は何も言わなかった。
お陰で少し冷静になった。
このままお互い感情的になって怒鳴りあっても、溝は深まるばかりだろう。
「もういいよ」と、時計を見て時間を確認した雫は「明日早いから、もう寝る」と言った。
「うん」
「うち、お客用の布団もソファもないから、一緒に寝るよ」
「ん、わかった」
ちょっと気まずいけど仕方ない。
「みーちゃん、奥ね」
「やっぱり私、床で寝ようか?」
寝室へ行ってベッドを見ると、やはりシングルで二人寝るには狭いように感じる。床には絨毯が敷いてあるので寝れないことはないと思って言ったのだけど。
「奥、行って!」
怖い顔で怒鳴られた。
ベッドに入り、壁際で横になるとすぐに雫も入ってきた。
入った瞬間から感じていた微かな雫の匂いに包まれ、雫を抱き寄せそうになったが、雫は私に背を向け眠りに入った。
まぁ、そうだよね。
「おやすみ」と囁いて、私も目を閉じた。
ふと目を覚ましたが、暗いからまだ夜中だと思う。
寝る時には背を向けていた雫が、寝返りでもしたのか今は私の腕の中にすっぽりと収まっている。スースーと寝息をたてる寝顔に愛しさが込み上げてくる。
あぁ、これだ。
私の譲れない思い、切に願うもの。
たとえ喧嘩したとしても、近くにいる安心感。
次に目が覚めた時には雫はもういなくて、慌てて起き出したらテーブルの上に朝食と手紙が置いてあった。
『今日は早く帰ってくるのでじっくり話し合いましょう。出掛けるなら下駄箱の上にある鍵を使ってください』
そうだね、昨夜は私の気持ちだけぶつけてしまって、雫の気持ちを聞いてあげられなかったな。余裕なさすぎたなぁ。
今夜はご飯でも作って待っていようか。よし、まずは買い出しだ。えっと材料買うために何があるか見ないとな。
「冷蔵庫開けまーす」
誰もいないけど、断って開けた。
足りないものをメモして閉じた。
ふと、壁に貼ってあるカレンダーが目に入った。猫の写真が付いた可愛いものだった。
出先でランチを済ませ、買い物を終えて帰宅した。時間があるので煮込み料理にするつもりだ。
「ただいまぁ」
「おかえり、早かったね」
予想よりも随分早かった。
「直帰して良いって言われたから、どこにも寄らずに帰ってきたの。あれ、いい匂い! 作ってくれてたの?」
「あと、もう少し煮込むつもり。こんなに早いとは思わなかったから。もしかして、また出掛ける?」
「ううん、もう出ないけど、なんで?」
雫はスーツを脱ぎかけている。
「いや、あの……今日って忘年会じゃないの?」
「ん? あぁ、そうだね」
やっぱりそうだった、カレンダーにメモ書きしてあったから気になっていた。
「いいの?」
雫は部屋着に着替え手洗いも終えてから、私の方を向いた。
「みーちゃん、昨日から何なの?」
「え?」
まただ、また雫の機嫌を損ねる事を言ってしまったらしい。
「私を何だと思ってるの?」
「へ?」
何って、雫は私の……
「みーちゃんは私のことをーー恋人が来てるのに、会社の忘年会に出るとでも思ってるわけ?」
「いや、そんなことは……でも仕事の付き合いも大事ーー」
「みーちゃんよりも大事なものなんてないから」
そう言い切った雫は、悲しそうな目をしていて「昨日だってあんなことーー」言いかけて、また口を閉じた。
「何?」
「もういいよ」
「嫌だよ、話してよ雫の気持ち」
「昨日、みーちゃんが言ったこと。もし出会わなかったらってやつ」
「うん?」
「たとえ仮定だとしても、私は、みーちゃんに出会わなかったら、なんて考えたくもないし。逆に、みーちゃんがね。私に出会ってなかったら、なんて考えていたとしたら。めちゃくちゃ悲しくて、泣きたくなる」
「あ……ごめん。そう言うつもりじゃなかったんだけど」
その時、ちょうど炊飯器からご飯が炊けた合図の音がした。
「みーちゃん……」
切羽詰まった雫の声音に想像してしまう。
『みーちゃん、別れようか』と続くのではないか、と。
「みーちゃん、ご飯食べよ」
「はっ、うん、食べよう」
良かった。
「うわ、なにこの豚の角煮、柔らかーーとろけるみたい」
「美味しい?」
「うん、とっても。みーちゃん、ありがとね。昨日、あんな態度取ったのに、こんな美味しい料理作ってくれるなんて。さっきも、ごめんね」
「ううん、あれは私が全面的に悪い。雫を傷つけるようなこと言うなんて、どうかしてた。
「ちょっと、みーちゃん! そこ最後のところ、なんで小さな声になってんの、もう」
あぁ、完全に呆れられたかも。もういいや、こうなったら全部言ってしまおう。
「違うの、本当はね。クリスマスにプロポーズをしようと思ってたの、そのためにあの人を施設に入所する手続きもするはずだったの、それが出来なくなってーー」
「ちょっと待って、それどういうこと? 尚美さんを施設にって、なんでよ」
「だって、じゃないと雫に苦労させるから」
「みーちゃん、全然わかってないよ」
「何がよ」
「はぁもう、とりあえずご飯食べて、それからゆっくり話そ」
やっぱり何かが食い違っているようだった。
「じゃあ何? みーちゃんは私に、旅館の仕事はさせない、尚美さんの介護もさせない、でなければプロポーズは出来ないと、そう思ってるということ?」
「端的に言えばそうなるかな」
雫は、もう何度目かになる大きな溜息を吐き、頭を抱えて黙り込んだ。
せっかく淹れたコーヒーが冷めてしまうんじゃないかと心配になるほどに。
「知らなかったな、そんな風に思ってたなんて」
雫の言葉に、思わず「あっ」と声が出たため、不思議そうに雫がこちらを見た。
「私もそう思ってた。雫のレポート読んだ時」
「私たち、本音を言い合えてなかったかもしれない」雫は静かにそう言った。
例えば毎日話をしたとしても、距離が離れている分、無難な会話しかしていなかったり。もしも踏み込んで相手を傷つけてしまったなら、取り返しがつかない事態にもなりかねないから、少しの遠慮がうまれるのだろう。それが積み重なって、いつしか本音を隠すようになっていた。決して嘘ではない、ただ言わなくてもいいかと思ってしまう。お互いにーーそして意見がすれ違う。
「みーちゃん、確認だけさせて。もしも一緒に暮らすとしたら、私にどうして欲しい? 家にいてみーちゃんの帰りを待つ主婦のような?」
「そんな風には思ってないよ、雫がやりたい事ーー仕事でも趣味でもーーやって欲しい。私はただ近くにいたい、そばにいて、雫の夢や希望を叶えられればいいなと思う」
雫は大きく頷いた。
「みーちゃん、私もね。みーちゃんに言ってないことがあるの、聞いてくれる?」
「う、うん」
そんなことを改まって言われると、怖くなるけど。何を聞かされても、雫を想う気持ちはブレない……はずだから頷いて見せた。
「私、四月に異動になったでしょ? あれ、左遷みたいなものだったの。だけど異動先の上司が面白い人でね。そこで自分のために時間を使っていいって、夢のためにたとえば資格の勉強もしていいって。私ね、みーちゃんと一緒にあの旅館で働くのが夢なんだ。だから、そのために勉強した。履歴書の備考欄に書いてあったでしょ? それにね、介護の勉強もしたよ。まぁこれは、上司が趣味で介護保険の勉強してたから便乗したことだし、机上の勉強と実際に行うのは別物かもしれないけどね。夏に尚美さんと会って思ったの。尚美さんとも一緒に働けないかなぁって。もちろん、体調が良い時にだけね、詳しいことはレポートに書いたから読んでみてよ。
ねぇみーちゃん、私の夢、叶えてくれますか?」
「はい、約束します」
「ありがとう」
満面の笑みの雫につられて、私も心から笑うことが出来た。