「雫、声聞くの久しぶりだね。やっぱり安心するね」
「そうだね、それで大丈夫なの? お母さんは」
「うん、もう熱も下がったし。季節の変わり目は体調を崩しやすいんだって。雫も体には気をつけてね」
「ん、わかってる」
四月も半ばになり、あちらも春めいてきているらしい。ここ数日は電話で話すことが出来ない代わりに、メッセージのやり取りをしていて、みーちゃんからは桜の蕾が膨らんでいる写真が送られてきた。
「あと二週間もしたら桜が見頃になるよ、ねぇその頃にまた会えないかなぁ?」
思いがけない、みーちゃんの言葉に一気に心が躍った。
「いいの? ゴールデンウィークは忙しいでしょ?」
「ん、だから雫にこっちに来てもらわないといけないんだけど」
「それは大丈夫だよ、連休だし」
嬉しい……もうそれだけで嫌なこと全部忘れられる。
「じゃぁ予定空けといてね」
もちろん、私の予定は全てみーちゃんに捧げるから。
営業四課に来て二週間ほどが経つ。
定時に出社し定時に退社する、規則正しい生活。ゆっくり流れる時間。否、遅すぎる。まだこんな時間なの? って何度思ったことか。
やることといえば、電話対応くらい。
「はい、営業四課ーーはい、お待ちくださいーー部長代理、広報からです」
「いないって言って」
またか。
「申し訳ございません、ただいま席を外しておりましてーーはい、よろしくお願いします」
私の視線に気付いた部長代理は肩をすくめた。
一度理由を尋ねたところ「苦手なのよ」と言ったきりだ。相手が苦手なのか、仕事が苦手なのかは分からないが、それでいいのか? 仕事だよね?
「嫌なことからは逃げたっていいのよ、どうせ大した用じゃないし」
私の気持ちを見透かしたように言い放った。
「はい、営業四課ですーーはい、お待ちくださいーー部長代理、秘書課からです」
「はい、代わりました岡林ですーーえ、社長が? わかりました伺います」
通話を切った後、部長代理は動かなかった。通話前と同じようにパソコンで動画を見ている。
「部長代理、行かなくていいんですか?」
「これ見終わったら行く」
マイペース過ぎる上司に、私はどう対処すればいいんだろうーーいや放っておけばいいのか。
「へぇ、楽しそうだね」
「全然楽しくないよ、もう」
また、小林さんに愚痴を溢している。こんな話出来るの、小林さんくらいしか思いつかないからだ。
「噂どおりと言うか、それ以上と言うか。興味深い人だね、岡林さん」
「それはそうだけど」
「何が不満なの? 残業もないし、パラハラがあるわけでもないし」
「仕事がない」
「は? 最高じゃん」
「じゃないよ、もう辞めたい」
私の言葉を聞いて、小林さんは眉を寄せた。
「暇な時は何してるの?」
「とりあえず英語の勉強をしてる。TOEIC受けようと思って」
「いいんじゃない? それでお給料も貰えるんだから、辞めたら勿体ないよ」
「でも……ないんだよ」
「なにが?」
「やりがいというか、充実感みたいなものが」
「そっか、去年までが充実してたもんね。大石さんは真面目だなぁ」
「小林さんほどじゃないよ、部長代理も認めてたよ」
「えっ、何、私のことが話題に?」
珍しく、小林さんが焦っている。
「うん、まぁ。褒めてた……よ」
それは……とか、光栄です……とか小さな声でモゴモゴ言ってる。
小林さんでもこんな顔するんだなぁ。
「仮にね」
少し落ち着いた小林さんは、いつものように話し出した。
「仮に、仕事を辞めたらどうするの? 恋人の元に押しかけるの?」
「そんなこと出来ないよ、迷惑はかけたくないし」
「ふぅん」
「それに、逃げたくない。負けたみたいで嫌だし」
「ふふ、負けず嫌いか」
「辞めたいけど辞めたくない、矛盾だぁ」
「そうだねぇ、人生矛盾だらけだね」
「小林さん、本当に同い年?」
なんで、人生悟ってる風なんだろう。
スマホが一度震えた。
「あっ、写真だ」
「なに、恋人さんから?」
「うん、もうすぐ桜が開花するみたい」
「あぁ、いいなぁ。そういうやり取り、してみたい。よし、私も頑張って恋人作ろ」
「あ、今日電話くれるみたいだからそろそろ帰るね」
「うわっ、私の宣言は華麗にスルーか。じゃ、最後に一言だけいい?」
「うん」
「上司に気持ち伝えたほうがいいよ、あの人ならちゃんと聞いてくれると思うからーーたぶんだけど」
「ん、そうだね」
頼れる友達に感謝して家路を急いだ。
「おはようございます」
「おはよ、お、昨日はよく眠れたみたいだね」
「えっ」
「あれ、違う? スッキリした顔してるからそうだと思ったけど。あれこれセクハラか?」
昨日は、小林さんに愚痴を溢しスッキリし。さらに、みーちゃんと話が出来たから気持ちが晴れやかだけど、そんなにわかりやすいんだろうか。
「顔に出やすいんでしょうか」
「ん、良いことあったって書いてある」
「すみません、引き締めます」
両手を頬に当ててみる。
「いいよいいよ、そのままのほうが可愛い、あ、これもセクハラ?」
コンプライアンス、難しいなぁと呟いてジャケットを脱いだ部長代理。
「あ、そうだ。今日はお昼前に社外に出るから」
「はい。部長代理、私もご一緒してよろしいですか?」
「え?」
「少しずつ、仕事を覚えたいんです」
「あぁ、そう。わかったわ、今日は社長も一緒だけどいいわよね?」
「へ、社長?」
「これも仕事だから、覚えようね」
にっこりと笑う部長代理に対し、私の笑顔は引き攣っていた。
「えぇぇ、それで、どうだったの?」
「緊張し過ぎて覚えてない」
連日になってしまったが、誰かに聞いてもらいたくて小林さんを誘った。
社長と秘書さん、部長代理に私は、取引先の会社の常務らと会食をした。
「高そうな料理だったけど、全く味がしなかったよ」
事前に、部長代理に私の名刺を渡された。
「人脈作りも大切だから、名刺交換はすること」と念を押された。
出掛ける前に玄関で社長と合流した時のこと。
「部下を連れてくるなんて珍しいな」
「えぇ、秘蔵っ子なんです」
なんて、部長代理が言うから。
「へぇ」と興味を持たれて、顔を覗き込まれてしまった。
何か言わなきゃってテンパった私は、名刺を差し出して「大石です」と言ってしまって。
「マジで〜面白い! それで社長の名刺持ってるんだぁ」
「社長秘書さんもノリで名刺交換してくれて」
私としては恥ずかしいけど、場が和んで良かったじゃないと部長代理は喜んでいた。小林さんにも大ウケだ。
「営業って、そういうもんじゃない? 恥をかきながら成長していくんだよ、知らんけど」と。
それから、少しずつ部長代理と一緒に行動することが増えた。
クレームに対して謝ったり、ミス後のフォローをしたり、時にはクレームと称して呼び出しておきながら、食事をしたり、思いがけず契約に至ることもある。
私の知らない、不思議な世界だった。