スーツを脱いだら、ピンクの一片が床に落ちた。今年は暖冬だったためか、すでに散り始めた桜の花びらだった。
「雫、おかえり」
「ただいま、みーちゃん」
「声が疲れてるよ? 新しい部署、大変なの?」
「ううん、初日だから気疲れかな」
「そっか、ゆっくり休んでね」
「ん、ありがとう」
距離は離れていても、こうやって声が聞ける。目を閉じて耳を澄ませば、すぐ隣に居るような気持ちになれる。
「じゃ、切ろうか?」
「待って、もう少し……声聴いていたい」
「わかった」
みーちゃんは、今日あった出来事を話してくれた。
「そっか、まだ春休みだから学生さんたちが多いんだね」
「こっちは、これからゆっくりと春になっていくよ」
みーちゃんの住む地方は、桜の蕾はまだ膨らんでもいないらしい。
四月一日、私は営業四課へ異動となった。
「ここの噂聞いてる?」
「あ……少しだけ」
「どこかのドラマみたいで笑えるでしょ」
と言いながら、本当に楽しそうに笑っている上司。
「なんでか、すぐ辞めちゃうんだよねぇ。私の下につくとさ」
ケラケラと笑う仕草は、気にしている風でもなくーー本心はわからないがーー
「都市伝説みたいですね」
私も気にしていない
「部長代理、それで私は何をすれば良いですか?」
出社時に持っていたコーヒーを飲み終えた頃合いを見計らって、上司に尋ねた。
「そうねぇ、ここの仕事の噂は聞いてる?」
「いえ」
配属された部下が長続きしない人材の墓場という、たぶん誰かが面白半分に流した噂しか私は知らない。具体的な仕事内容は聞いていない。この部屋を見る限り普通の営業職ではないと思う。
こじんまりした部屋で、デスクとパソコンと内線電話があるだけ。なにより、静かなのだ。
「
「え、そうなんですか?」
「だから、クレームがなければ仕事はないし、逆に休日でも苦情がくれば出勤になったり」
「あぁ」
その仕事内容ならば、長続きしないのも無理はないのかも。って、私にそんな重要な仕事が出来るのか?
「大丈夫よ、そういうのは
「何か……」
「まぁ、今日は初日だしのんびりして? 内線が鳴らなければ仕事ないから。好きなことしてーー」
言い終わらないうちに、その内線から音が響いた。
「はい、営業四課です」
電話番くらいなら、私にも出来る。
「え、はいーーはい、あれ小林さん? えーーーーはい、代わります」
「部長代理、経理課からです」
「あら」
経理課からの電話を終えた部長代理は、綺麗な顔をしかめていた。
そこをなんとか、とか、なんでだめなの? とか電話口で懇願していたから、大方察しはついたけれど。
「大丈夫ですか?」と尋ねてみた。
「あの経理の子、融通利かないのよね」
「そうなんですか?」
普段の小林さんは温和だと思うけど、仕事に関しては厳しいのかもしれない。
「知り合い?」
「えぇまぁ、同期なので」
「じゃ、一緒に来てくれる?」
「あ、はい」
「あれ、大石さんどうしたの?」
年度末はバタバタしていて、顔を合わせるのはあの悩みを聞いてもらった日以来の小林さんは、仕事モードの真面目顔だ。
「営業四課の岡林部長代理の代理で来ました」
一瞬の沈黙の後、ふふっと笑って「早口言葉みたいだね」と言った。
その後すぐにまた仕事モードに戻って「あの領収書は落ちませんよ」と割と大きめの声で言ったーーまるで扉の向こうの本人に聞こえるようにーーさすが探偵志望の小林さん、察しがいい。
「なんとかならないの?」私は小声で囁く。
「こんなの無理でしょ」と小林さんも小声で領収書を見せてくれた。
「チェア……椅子? へ、嘘、五万?」
部長代理の座ってた椅子を思い出してみた。なんだか車の座席みたいな形の、確かに座り心地は良さそうだけど、こんなにするんだ。
「無理ですよー」
いつの間にか私の後ろまでやってきた部長代理に向かって、小林さんは毅然とした態度だった。
「仕方ないわね」
部長代理は、落ちなかった領収書を手にして「帰るわよ」と踵を返した。
「お役に立てなくてすみません」
「え? まぁ無理よね」
そうですよね、私の実力なんてこんなもん。バリバリの営業部員だったら交渉は得意なのかもしれないけれど、いかんせん営業部初日だし。
「あの経理の子、どれだけ仲が良くても例えば恋人でも、絶対通さないタイプよね」
あ、私の力不足ってことじゃなく、小林さんが強固ってこと?
「よくご存知なんですか?」
「いいえ、これから知りたい人のうちの一人だわ」
領収書は落ちなかったのに、何故だか満面の笑みを浮かべていた。
「さてと」と、部長代理は椅子に勢いをつけて座って、肘掛けを撫でた。
「私は少し勉強するわ」とパソコンを立ち上げていた。
「はい」
返事はしたものの、私はやることがない。
デスクにパソコンが備え付けてあるので、立ち上げてみる。新着のメールもないし。何をするべきか、考えてみるが思いつかない。これが閑職というものか。
「部長代理、お茶でも入れましょうか?」
あまりに暇を持て余して、声をかけた。
「大石さんが飲みたいなら、一緒に入れてもらおうかな」
その返しに、一瞬どういうことかと戸惑った。
「私のためだけに入れなくてもいいからね、大昔のOLじゃないんだから」と続いたので、あぁ部長代理はそういう人なんだとーーそういう経験があるのかないのかは知らないけれどーー昔はお茶汲みやコピー取りは女性社員の仕事という固定観念があったそうで、そういう考え方が嫌いなんだと思った。
「お茶入れるは好きですし、私もいただくので入れますね」
「ん、ありがとう」
給湯室へ行くと、一通り揃っている。
「部長代理、お好みは?」
「ホットコーヒー、ブラックで」
「了解しました」
「世の中に法律って、いっぱいあるんだね」
一息つきながら、世間話のように部長代理が話し出した。
「法律?」
六法全書をイメージした。確かに分厚いな。もちろん読んだことはないが。
「旅館業法ってのもあるでしょ?」
「あ……ありますね」
先日の私の発言を覚えているようだ。
「今ね、介護保険法を読んでるんだけどね」
「はぁ」
「これが、難しいというより、何言ってるかわかんないんだよね。まぁ、それが面白いんだけど」
「何かの資格を取る予定なんですか?」
「ううん、ただの暇つぶし」
「へっ?」
「いや、ほんとはね。資格取るのが趣味みたいなもんだから、介護支援専門員の試験を受けようとしたの。でも受験資格が要るんだって。それが介護福祉士として五年間介護職で働かなきゃいけなくてね、介護福祉士になるにも試験があってね……だからまぁ、資格は諦めたんだけど」
「介護……?」
会社は介護とは特に関係ないはず。今後関わる予定でもあるのか?
「直接仕事には関係ないけど、いろんな知識があるといろいろ役立つからね。あ、介護支援専門員ってのは、いわゆるケアマネジャーね」
「あっ、あぁ」
みーちゃんの話に出てきたような気がする。
「わかる?」
「なんとなくですが」
「まぁ、とにかく、空いてる時間は好きなことしてていいよ、勉強でも趣味でも」
上司がこんなんだから、と、部長代理は柔らかく笑った。
午後、総務課に呼ばれた部長代理は三十分ほどして、書類を持ち帰ってきた。
「大石さん、これ記入しといてくれる?」
「はい」
私の異動に関する書類だった。
それからまた静かな時間が過ぎ、終業時間の少し前に連絡が入った。
取引先でのトラブルがあったようで、部長代理が対処にあたるという。
「これからですか?」
「私は終わったらそのまま直帰するから、大石さんも時間になったら帰ってね」
「私もご一緒したら……迷惑ですか?」
「そうね、たぶん遅くなると思うから、私一人の方がいいわ」
「……わかりました」
新しい部署の初日は、なんとなく、どんよりとした気分で終わった。