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第39話 サクラ サク頃・2

 スーツを脱いだら、ピンクの一片が床に落ちた。今年は暖冬だったためか、すでに散り始めた桜の花びらだった。


「雫、おかえり」

「ただいま、みーちゃん」

「声が疲れてるよ? 新しい部署、大変なの?」

「ううん、初日だから気疲れかな」

「そっか、ゆっくり休んでね」

「ん、ありがとう」

 距離は離れていても、こうやって声が聞ける。目を閉じて耳を澄ませば、すぐ隣に居るような気持ちになれる。

「じゃ、切ろうか?」

「待って、もう少し……声聴いていたい」

「わかった」

 みーちゃんは、今日あった出来事を話してくれた。

「そっか、まだ春休みだから学生さんたちが多いんだね」

「こっちは、これからゆっくりと春になっていくよ」

 みーちゃんの住む地方は、桜の蕾はまだ膨らんでもいないらしい。





 四月一日、私は営業四課へ異動となった。

 くだんの部長代理と私だけ。


「ここの噂聞いてる?」

「あ……少しだけ」

「どこかのドラマみたいで笑えるでしょ」

 と言いながら、本当に楽しそうに笑っている上司。

「なんでか、すぐ辞めちゃうんだよねぇ。私の下につくとさ」

 ケラケラと笑う仕草は、気にしている風でもなくーー本心はわからないがーー

「都市伝説みたいですね」

 私も気にしていないていで返した。


「部長代理、それで私は何をすれば良いですか?」

 出社時に持っていたコーヒーを飲み終えた頃合いを見計らって、上司に尋ねた。


「そうねぇ、ここの仕事の噂は聞いてる?」

「いえ」

 配属された部下が長続きしない人材の墓場という、たぶん誰かが面白半分に流した噂しか私は知らない。具体的な仕事内容は聞いていない。この部屋を見る限り普通の営業職ではないと思う。

 こじんまりした部屋で、デスクとパソコンと内線電話があるだけ。なにより、静かなのだ。


営業四課うちの仕事は、一言でいえばクレーム処理ね」

「え、そうなんですか?」

「だから、クレームがなければ仕事はないし、逆に休日でも苦情がくれば出勤になったり」

「あぁ」

 その仕事内容ならば、長続きしないのも無理はないのかも。って、私にそんな重要な仕事が出来るのか?

「大丈夫よ、そういうのは上司わたしの仕事だし、貴女には……補佐的な何かをしてもらおうかしら」

「何か……」

「まぁ、今日は初日だしのんびりして? 内線が鳴らなければ仕事ないから。好きなことしてーー」

 言い終わらないうちに、その内線から音が響いた。

「はい、営業四課です」

 電話番くらいなら、私にも出来る。

「え、はいーーはい、あれ小林さん? えーーーーはい、代わります」

「部長代理、経理課からです」

「あら」



 経理課からの電話を終えた部長代理は、綺麗な顔をしかめていた。

 そこをなんとか、とか、なんでだめなの? とか電話口で懇願していたから、大方察しはついたけれど。


「大丈夫ですか?」と尋ねてみた。

「あの経理の子、融通利かないのよね」

「そうなんですか?」

 普段の小林さんは温和だと思うけど、仕事に関しては厳しいのかもしれない。

「知り合い?」

「えぇまぁ、同期なので」

「じゃ、一緒に来てくれる?」

「あ、はい」



「あれ、大石さんどうしたの?」

 年度末はバタバタしていて、顔を合わせるのはあの悩みを聞いてもらった日以来の小林さんは、仕事モードの真面目顔だ。

「営業四課の岡林部長代理の代理で来ました」

 一瞬の沈黙の後、ふふっと笑って「早口言葉みたいだね」と言った。

 その後すぐにまた仕事モードに戻って「あの領収書は落ちませんよ」と割と大きめの声で言ったーーまるで扉の向こうの本人に聞こえるようにーーさすが探偵志望の小林さん、察しがいい。

「なんとかならないの?」私は小声で囁く。

「こんなの無理でしょ」と小林さんも小声で領収書を見せてくれた。

「チェア……椅子? へ、嘘、五万?」

 部長代理の座ってた椅子を思い出してみた。なんだか車の座席みたいな形の、確かに座り心地は良さそうだけど、こんなにするんだ。

「無理ですよー」

 いつの間にか私の後ろまでやってきた部長代理に向かって、小林さんは毅然とした態度だった。

「仕方ないわね」

 部長代理は、落ちなかった領収書を手にして「帰るわよ」と踵を返した。


「お役に立てなくてすみません」

「え? まぁ無理よね」

 そうですよね、私の実力なんてこんなもん。バリバリの営業部員だったら交渉は得意なのかもしれないけれど、いかんせん営業部初日だし。

「あの経理の子、どれだけ仲が良くても例えば恋人でも、絶対通さないタイプよね」

 あ、私の力不足ってことじゃなく、小林さんが強固ってこと?

「よくご存知なんですか?」

「いいえ、これから知りたい人のうちの一人だわ」

 領収書は落ちなかったのに、何故だか満面の笑みを浮かべていた。




「さてと」と、部長代理は椅子に勢いをつけて座って、肘掛けを撫でた。

「私は少し勉強するわ」とパソコンを立ち上げていた。

「はい」

 返事はしたものの、私はやることがない。

 デスクにパソコンが備え付けてあるので、立ち上げてみる。新着のメールもないし。何をするべきか、考えてみるが思いつかない。これが閑職というものか。


「部長代理、お茶でも入れましょうか?」

 あまりに暇を持て余して、声をかけた。

「大石さんが飲みたいなら、一緒に入れてもらおうかな」

 その返しに、一瞬どういうことかと戸惑った。

「私のためだけに入れなくてもいいからね、大昔のOLじゃないんだから」と続いたので、あぁ部長代理はそういう人なんだとーーそういう経験があるのかないのかは知らないけれどーー昔はお茶汲みやコピー取りは女性社員の仕事という固定観念があったそうで、そういう考え方が嫌いなんだと思った。


「お茶入れるは好きですし、私もいただくので入れますね」

「ん、ありがとう」

 給湯室へ行くと、一通り揃っている。

「部長代理、お好みは?」

「ホットコーヒー、ブラックで」

「了解しました」


「世の中に法律って、いっぱいあるんだね」

 一息つきながら、世間話のように部長代理が話し出した。

「法律?」

 六法全書をイメージした。確かに分厚いな。もちろん読んだことはないが。

「旅館業法ってのもあるでしょ?」

「あ……ありますね」

 先日の私の発言を覚えているようだ。

「今ね、介護保険法を読んでるんだけどね」

「はぁ」

「これが、難しいというより、何言ってるかわかんないんだよね。まぁ、それが面白いんだけど」

「何かの資格を取る予定なんですか?」

「ううん、ただの暇つぶし」

「へっ?」

「いや、ほんとはね。資格取るのが趣味みたいなもんだから、介護支援専門員の試験を受けようとしたの。でも受験資格が要るんだって。それが介護福祉士として五年間介護職で働かなきゃいけなくてね、介護福祉士になるにも試験があってね……だからまぁ、資格は諦めたんだけど」

「介護……?」

 会社は介護とは特に関係ないはず。今後関わる予定でもあるのか?

「直接仕事には関係ないけど、いろんな知識があるといろいろ役立つからね。あ、介護支援専門員ってのは、いわゆるケアマネジャーね」

「あっ、あぁ」

 みーちゃんの話に出てきたような気がする。

「わかる?」

「なんとなくですが」

「まぁ、とにかく、空いてる時間は好きなことしてていいよ、勉強でも趣味でも」

 上司がこんなんだから、と、部長代理は柔らかく笑った。



 午後、総務課に呼ばれた部長代理は三十分ほどして、書類を持ち帰ってきた。

「大石さん、これ記入しといてくれる?」

「はい」

 私の異動に関する書類だった。

 それからまた静かな時間が過ぎ、終業時間の少し前に連絡が入った。


 取引先でのトラブルがあったようで、部長代理が対処にあたるという。

「これからですか?」

「私は終わったらそのまま直帰するから、大石さんも時間になったら帰ってね」

「私もご一緒したら……迷惑ですか?」

「そうね、たぶん遅くなると思うから、私一人の方がいいわ」

「……わかりました」


 新しい部署の初日は、なんとなく、どんよりとした気分で終わった。




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