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第38話 サクラ サク頃・1

 仕事帰り、少しだけ遠回りした小さな公園の、一本の桜の木を見上げる。

「はぁぁ」

 綺麗だねって言い合える人は隣にいないから、シャッターを切った。


 お風呂上がり、冷蔵庫を開けて中を覗く。

「何もないや」

 明日は休みなので、買い出しに行こう。今日は冷凍のお肉を解凍して、生姜焼きにでもしようかな。


「雫っ」

 愛しい人が私の名前を呼ぶ。

「ごめん、また遅くなっちゃった。寝てたよね?」

「ううん、大丈夫。明日はお休みだし、寝てないし」

 ちょっとウトウトしてただけだし。

「綺麗だね」

「え?」

 自分の格好を確認する。いつもの部屋着、髪には寝ぐせが付いている。

「そっちは桜が満開なんだね」

「あぁ」

 私じゃなかった、そりゃそうか。

 夕方、撮った写真を送ったんだった。

「うん、綺麗だったよ」

 一緒にお花見行きたいなぁ。


「ねぇ雫、そっちの天気どう?」

「えっ、今?」

「そう」

「雨は降ってないみたいだけど」

 カーテンを開けて、外を見れば「あっ」と声が漏れた。

「月、見える?」

「うん、満月だ」

「眩しいくらい」


 一緒にお花見が出来なくても、私は幸せなんだと思う。

 離れていても、同じ月を見て綺麗だねって言い合える人がいるから。


「幸せだよ」

「ん、どうした?」

「思ったことを口にしてみた」

「ふふ、雫ってば、可愛いんだから」

「へへ」

 たぶん二人とも、同じように頬を染めているんだろうな。





「今日は、遅かったの?」

「うん、ちょっと同僚とご飯食べてた。少しだけお酒も飲んでた。ごめんね」

 帰宅してお風呂に入っていた時に、みーちゃんからの着信があったので慌てて折り返したのだ。

「謝らなくてもいいのに。楽しかった?」

「そうだね、唯一、職場の愚痴を言える相手だから」

「そっか、そういうお友達がいるのはいいね」

 なんとなく、みーちゃんの声が元気ない気がした。

「みーちゃん、疲れてる?」

 みーちゃんが忙しくしている間に飲んでたことが申し訳なくなってくる。

「違うよ、雫が仕事で嫌なことがあっても、私じゃ何にも力になれないから、その子に感謝してる」

 仕事で嫌なこと。そのフレーズで思い出していた。

『君には期待していたのに、残念だ』という上司の言葉を。

「雫、何かあった?」

 黙り込んだ私を心配する、みーちゃんの声。これ以上心配させるわけにはいかない。だけど隠したり嘘をつくのも絶対しちゃいけない事だから。

「今日ね、上司と面談があってね」

「うん」

「もしかしたら部署が変わるかもしれない」

「そうなんだ」

「また決まったら、報告するね」

 嘘は言ってないし、明るい声で言えたから褒めて欲しい。

『ウジウジしてても仕方ないよ、ポジティブにいこう』と言った小林さんのアドバイスのお陰でもある。





「久しぶりだね、アルコールは、どうする?」

「一杯だけ」

「あ、珍しい。なんかあったね?」

「うん。実は……」

「あ、待って。推理したい! まぁ、まずは乾杯」

 頼んだカシスグレープフルーツを一口飲む。甘いな。

 小林さんは、また探偵よろしく私の表情を読もうとしていた。

「恋人との関係ーーでは、なさそうだなぁ。ってことは職場……人間関係?」

「今日、課長に呼ばれてね」

「うん」

「また新しいプロジェクトが始まるからって、打診されて」

「うん」

「でも、今回は長くなるみたいで」

「どのくらい」

「2年くらいって」

「ふむ」

「その頃には、私退職したいって」

「言ったの?」

「うん」

「バカ正直に?」

「だって……急に辞めたら迷惑かけるし」

「それで、何て言ってた?」

「上に報告するって」

「ほぉ」

「どうなると思う?」

「うーん、私が会社の上層部だったら、近いうちに辞めるってわかってる社員は要らないかなぁ」

「はぁ……そうだよね」

「まぁでも、それでクビには出来ないからさ。あっても窓際に異動とか?」

 はぁぁ。大きなため息を吐いた。

「撤回するつもりはないんでしょ?」

「それは、もちろん」

 みーちゃんが迎えに来てくれると約束してくれたから、私は待ってると答えたから。その時が来たら大切な人の手を、躊躇なく取りたい。

 一方で、縁あって入ったこの会社には愛着もあるし、快く休職させてくれた恩も感じているから、たとえ短い期間であってもしっかり仕事はしていきたいと思っているのだけどーーやっぱり迷惑なんだろうか。

「まぁ、でもさ。閑職の方が自分の時間が出来ていいんじゃない? スキルアップの勉強とかさ」

 左遷前提でも、なぜかポジティブな小林さん。

「他人事だと思ってない?」

「他人事だもの」と、陽気に笑う小林さんを見ていたら、少しだけ心が軽くなったのを感じた。




 翌日は、部長代理に呼ばれた。

「あっ、おつかれさまです」

 部屋に入ると、そこに居たのは『変わり者』と社内でも評判の、営業部長代理だった。

「はい、かけて」

 机の上には白い紙が一枚置いてあって、隣にはクレヨンや色鉛筆がある。

「え……」

「そう、絵よ」

「はい?」

「絵を書いて欲しいの、タイトルはそうね『十年後の私』で」

 言い切ってる。拒否権は……なさそうだ。

 なんだ? 心理テストみたいな何かか? 

 部長代理を見れば、ニッコリと笑っている。全くと言って何を考えているかわからない。歳は、みーちゃんよりも少し上くらいか、意志の強そうな眉でキツいイメージだが、口角の上がった唇がバランスを取っていて、控えめに言って綺麗だと思う。変な噂も聞いたことがあるが、女性でこの地位にいるのだから仕事も出来るのだろう。

「あ、見てたら書けないかしら? 少し席を外すわね」

 そう言って、颯爽と出て行った。


 二十分程経った頃、飲み物を持って部長代理が部屋に入ってきた。

「どぉ? 出来たかしら?」

「あの、まだ」

 なかなか描き始められなくて、今はまだ半分程度の仕上がりだ。

「そう、出来上がったら声かけてね。はい、コレどうぞ」

「ありがとうございます」

 そう言って、顔を上げた時にはすでに、部長代理は奥のデスクに座りパソコンを立ち上げていた。

 もらった缶を見ると「コーンスープ?」不思議な人だ。


「部長代理、書けました」

 十五分後、なんとか完成させ報告をした。

「おう、どれどれーーうわっ、へーー」

 下手クソって言いたげな顔をした。いや、言いかけたよね? そりゃ上手くはないけど、いきなり書けって言われたらそうなるよね?

 憮然としていたら「あぁ、ごめん」と、小さく謝られた。

「えっと、では。説明してもらおうかな。ここは、どこ?」

「北海道です」

「なるほど、この白いのは雪か。これは? 富士山っぽいけど?」

「利尻富士」

「あぁ……そういえばそんな山あったわね。へぇ、なかなかやるじゃない」

「この、ゴミみたいなちっちゃいのは? 人?」

「えぇ、まぁ」

「ふぅん」

「絵心なくて、すみません」

 さっきから、頬がヒクヒクしてるのは、笑いを堪えているのに違いない。

「ううん、大丈夫よ。これが人だってわかったんだもん、上等よ」

 いやいや、馬鹿にしているじゃないかーーでも。

 それほど悪い気はしない。むしろ、もう少しこの人と話してみたい。そう思ってしまう雰囲気の人だった。


「それじゃあ、話してくれる? 貴女が将来やりたいこと」

 えっと、やっぱりそういう話だよね。

 素直に話してもいいのだろうか、今日初めてまともに話したこの女性に。

 視線を合わせれば、なんださっきまでのは営業スマイルだったのか、今は驚くくらいの無表情で。これが素なのかと思ったら逆に話してもいいような気がしてきた。

「旅館業です」

 思わず口にした言葉。ずっと私の中でもぼんやりと考えていたこと。まだ誰にも話したことがないもの。

「……なるほど」

 その後たっぷりの沈黙の後。

「合格、四月から私の下で働いてもらうからよろしく」と言い放ち、また笑顔になった。

 拒否権は……ないんだろう。


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