懐かしい夢を見ていた。
まな板に包丁が当たる音と、ご飯の炊ける匂い、洗濯機が脱水する音をバックにモノクロのスクリーンに映る、無邪気に笑う小さな女の子。
あれ、私? あ、もう一人女の子がいる。あれは、雫?
夢だからなんでもアリなんだなぁ、私と雫が同じくらいの歳だなんて、ふふっ私の願望か。それにしても、可愛すぎるよ、小さな雫ちゃん。
「大変! 美佐さん。あ、寝てた?」
「あぁ、もうこんな時間」
恵さんの大きな声に起こされた私は、それでもさっきまで見ていた夢のせいか、穏やかだった。
「どうかしました?」
「あ、そうそう。これ、美佐さんのでしょ?」
そう言って差し出されたのは、紛れもなく私のスマホで。
「あれ、なんで?」
「お義母さんがーーあ、火を使わない家事は出来るだけやってもらってるんだけど、今日は洗濯を回してくれてーー」
全部言われなくてもわかってしまった。
「水没ですか?」
「そうみたい」
「あぁ……」
やってしまったか。
「ごめんなさい」
「はぁ、困ったな……でも、どうして恵さんが謝るんですか?」
「私が確認していれば」
「いえ、私が服に入れっぱなしにしていたから」
そういえば上着をダイニングに置きっぱなしにしていたなぁ、その中に入れてたのかも。まさか洗濯されるとは思わなかったけど。
「どうしよ、乾かしたら復活する? ドライヤーでやったらーー」
恵さんはかなり慌てている。
「あぁ、ドライヤーはやらない方がいいみたいです。乾燥剤、あります?」
「えぇ、持ってきますね」
「どうかなぁ、直るかな」
乾燥剤とスマホを一緒に袋に入れて閉じる。これでしばらくーー数日置いておく。これで復活したケースもあると聞くが、実際の所はわからない。
「島では修理も出来ないだろうし」
「でしょうね」
本島に送って修理となると、どれだけかかるだろう。
「うちのパソコンと電話、自由に使ってね」
「ありがとうございます。連絡しなきゃいけないのは、会社くらいなので大丈夫ですよ」
「そうなの?」
恵さんは何か言いたげだったけれど、それ以上は言わなかった。
私は雫の顔を思い浮かべてた。
確かに、雫にはそろそろ連絡しなきゃって思っていた。
思っていたからこそ、この水没はーーぶっちゃけ、少しだけホッとしたのだ。
だって、この状況で何を言う?
私自身、これからどうするべきか迷っているのに。
もしもこのまま、ここに居る事になったならーー別れる事になるのだろうか。
そうなるよなぁ。
彼女をこんなところに連れてこられる訳がないもん。私だって嫌なのに。
いっそ、全て捨てて駆け落ちでもしようか。
なんて、いつもそうだ。私は逃げてばかり。身勝手に生きてきた。
私が好き勝手生きていた時に、兄は家を家族を守っていたんだ。
母を見れば、ゆっくりとお茶をすすっていた。
今日は、恵さんは退院についての話があるとのことで病院へ行っている。
午後からは旅館の従業員である省さんが来てくれるそうなので、それまでは、また母と二人で過ごしている。もう一時も目を離さないと決めている。
さっきは、なんとかトイレへ誘導してーー便座に座るまでが一苦労だったけどーーなんとか汚染もなくトイレを済ますことが出来た。
そろそろお昼ご飯か。
「ねぇ、お昼は何が食べたい?」
母に聞いてみた。
「え、作ってくれるの?」
「大したものは作れないけど」
もしかしたら、あの頃のようにダメ出しされるんだろうか?
まぁ、それならそれでもいいけど。
「うどんがいいなぁ、お父さんがね、好きだったの」
「へぇ」
父がうどん好きだった記憶はないから、おじいちゃんの事かなぁ。
「お出汁は昆布でね」
「はいはい」
わかってるってば、まったく、昔と同じこと言うんだから。
「わぁ、美味しい」
「ほんと?」
「これならお父さんも文句言わないね」
「そうなんだ」
なんとなくわかってきた。
感情の起伏はあるけれど、基本的に否定しなければ怒ることはない。
〜〜しなさい、と強制すると、嫌だっていう感情が爆発することがあり、全く言うことを聞いてくれなくなる。
そうなってしまったら、何を言っても無駄だ。
まぁ、わかっていてもついイラッとしてしまうのだけど。
なかなか大変だなぁ。
「美佐ちゃん、元気だったか?」
「省さん! お元気そうで」
私が中学の頃から、働いていてくれる人。あの頃より……随分、おでこが広くなってた。
「美佐ちゃんも、べっぴんさんになって」
「美佐? あなた、美佐っていうの?」
母の声がした。
え、思い出したの?
「そう、私の名前は美佐だよ」
これで思い出してくれたなら、そう願っていた。
「いい名前だね、私ね、美佐って名前好きなの」
「そう……なの?」
「うん、大好き」
ニコニコして上機嫌だ。
思い出したわけではなかった。ただ、名前が好きだと言っただけ。それでも、なんだか自分が肯定されたような気はした。名前の由来なんて聞いたことがなかったけれど、可愛がられた記憶もないけれど、好きだと言う名前を付けられたという事実は確かなようで。
「週末に退院することになりました」
病院から戻ってきた恵さんが報告してくれた。
「おぉ、良くなったんだね」
省さんが喜んでいるけれど。
「いえ、病院にいてももう治療は出来ないので家で過ごす事にしたんです。先生からはあと2ヶ月から3ヶ月と言われて、聡志さんも家で過ごす事を望んで。何かあれば在宅医の先生が往診してくださるそうで、あと息が苦しくなった時のために酸素ボンベも準備してくれるって」
「そんな……まだ若いのに」
省さんは、俺が代わってやりたいと呟いた。
少し離れた場所にいる母は、聞こえていないのか聞こえていてもわからないのか無表情だった。
「あ、美佐さん。夕方、ケアマネさんが家に来てくれるので、会っていただけますか?」
「はい、もちろん。それはいいですけど」
私が会っても何を話せばいいのやら、そんな気持ちを察したのか詳しく説明してくれた。
「お義母さんのこれからの事を話したいのだけど、聡志さんは入院中だし私一人では決められなくて。美佐さんが帰省中だってこと話したら、まずは挨拶だけでもって言われて」
「はぁ」
やっぱり血の繋がった家族の意見とかが欲しいのかな、今まで疎遠だったのに?
母は静かになったと思ったら、ウトウトしていた。
岩崎と名乗ったケアマネージャーは、私よりも少し歳上のように見えた。ハキハキとした物言いが少し高圧的に感じたけれど、決断力はありそうでいかにも【出来る女】って感じだ。
「よろしくお願いします」
「大変な時にお邪魔してすみません、でもお会い出来て良かったです」
「いえ、ずっと疎遠にしていたので母の事はよくわからないんですけど。この数日、驚くことばかりで」
「そうですよね、少しお母さまのことお話しても?」
「是非、聞きたいです」
プロの意見を。
ケアマネは一瞬口元を綻ばせ、それでも真剣に母の状況の説明をしてくれた。
要介護認定を受けたばかりであり、結果はまだ出ていない。自立して歩行出来ているので、介護度は高くないだろう。おそらく要介護2あたりではないか。
家業のことと家族の負担を考えたら、週末のショートステイ(短期入所)や平日のデイサービスを組み合わせるのが良いのではないか、など。
「施設への入所は出来ないんですか?」
ケアマネが来るまでの時間に、少しだけパソコンで調べていたので、ショートステイやデイサービスの言葉の意味はなんとなくわかる。旅館が忙しい土日は、施設に預ける方がいいというのは、それはそうだろうなと思う。
ただ、これからさらに歳を取り認知症が悪化したり、他の病気も発症したりすることも多いに考えられるわけで。もしも昼夜問わず歩き回られたら、どうにもならないと思う。
「そうですねぇ……この島には特養--特別養護老人ホームが一ヶ所あります。ただ、ここは要介護3以上じゃないと難しくて、さらに待機されている方がかなりいるので現時点では難しいでしょうね。もう一つの老健の方に申し込んでおくことも出来ますが、こちらも入るまでには半年以上かかるでしょうね。あとは、本島の方で探せば有料老人ホームとかサ高住--サービス付き高齢者住宅などもありますので、費用はかかりますが可能ではありますね」
「はぁ、そうなんですね」
本島となれば、面会に行くのも大変で、下手したら預けっぱなしになる可能性もあるのか。
「そういうお話が出ていますか?」
「いえ、そういうわけでは。でも家の事を考えると……」
「娘さんは、えっと確か東京にお住まいでしたよね?」
「えぇ、まぁ」
そうだけど、でも。
少し離れている場所で遊んでいる母と、それを見守る恵さんを見た。
そうか、遠くに住んで関係なく過ごしてきた娘には口出しなんて出来ないのか。
でも。
ケアマネを正面から見つめた。
「私、こっちへ戻ってこようと思ってます。決めました。出来るだけ早いうちに帰ってきます。なので……よろしくお願いします」
深々と頭を下げた。