一瞬で血の気がひいた。
どこへ行ったの? さっきまでスヤスヤ寝ていたのに、目を離している間にいなくなるなんて。
家の中を探した。トイレ、お風呂、押し入れから納戸まで。
いない。
旅館の方の客室も見て回ったけど、どこにもいない。
「嘘でしょ」
玄関に行ったら、ドアが少し開いていて。
「出て行った?」
スマホを握りしめたまま、慌てて飛び出した。門を出て左右を見渡すが姿は見えない。どっちだ? 商店街方面かバス停方面か。
迷ってる暇はない。左、バス停方面へ走った。交差点では目を凝らして周りを見渡す。いない……こっちじゃなかった?
家の前まで戻った時、スマホに着信が入った。恵さんからだった。
そうだ、お母さんが行きそうな場所を恵さんなら知ってるかも、なんで気付かなかったんだろう。
「もしもし、恵さん。お母さんがーー」
「やっぱり勝手に出ちゃったんですね」
「え?」
「今、お魚屋さんから連絡が入ってね、お義母さんがお店にいるから引き留めてるって」
「魚辰さん? そこにいるの?」
「そうみたいです。行けそうですか?」
「すぐ行きます」
「魚辰さんも、お義母さんの状況はわかってるので、美佐さん落ち着いてね。私も早目に帰ります」
通話を切ってすぐに向かった。
昔ながらの商店街だから、私の記憶にもある。昔から家とも取引があるはずだ。足は自然と早足になり、息も上がる。
「お母さん」
ドア越しに店内が見えた。ちょこんと椅子に座って、熱心に何かを見つめる母の姿。
良かった……無事で。
「あれ、美佐ちゃんか? 久しぶりじゃないかぁ」
お店に入ると、店主ののほほんとした声がした。
「はい、母がご迷惑をおかけして」
「大丈夫だよ、直接ウチに来たみたいだな。この辺りの人はメグちゃんから事情聞かされてるから、みんなで見守ろうって言ってる」
「すみません」
そんな大袈裟な事になってるの? 申し訳なさと恥ずかしさで、居た堪れなくなる。
「母は、おかしな事してませんか?」
「なんか、今日は魚料理を食べさせたいって言ってたよ」
店主は、そんな恐縮するなよって付け加え、母の方を向いた。
店の奥では店員が作業をしている様子を、目を輝かせながら覗き込んでいる母がいた。近づいていくと店員が顔を上げた。
「あれ、大ちゃん?」
兄の同級生の大輝くん。お店、継いだんだ。
「おぉ」
「何してるの?」
「お任せでお弁当を頼まれてさ。定番だけど今の時期はやっぱりコレだから」と言い、ちょうど詰め終わったらしい袋を持ち上げた。
「帰ろ」
拒否されたらどうしようと、恐る恐る母に問いかければ。
「はーい」
素直に応じられて、ほっとした。
「あ、慌てて来ちゃったからお財布持ってないんだけど」
「いいよ、ツケとく。それより、聡志に……よろしくな」
大ちゃんに見送られ、二人で家へと歩いた。
家へ着いて程なくして、恵さんも帰ってきた。
「ごめんなさい、私が目を離したばっかりに」
「仕方ないですよ、初めてだったんだし。でも、今までは外に出て行くことはなかったのに。何か対策が必要かもしれないなぁ」
無口になった恵さんは何か考えているようだった。
正直、疲れた。私はたった数時間一緒にいただけなのに体力的にも精神的にもグッタリだ。
これを一日中、さらに毎日って考えると、やってられない。
兄が「解放」という言葉を使ったのも納得だ。
大切な人にこんな事させられない。
「あ、ご飯どうしよう。私ったら買ってくるって言ったのに」
しばらくの沈黙の後、唐突に思い出したように恵さんが言う。
「それなら、お弁当がありますよ。お母さんが魚辰さんで頼んでいて……」
「あぁ、それで」
恵さんは納得したような表情をした。
「それでって?」
「今日、ちょうどケアマネさんと話してたの。私たちには不思議な行動に見えても、本人にはちゃんと理由があるんだって。お義母さんは美佐さんのことを気に入ってるもの。なんだか妬けちゃうな」
「えっ、そんなことないでしょ。私なんて絶対嫌われてる。今は忘れてるだけで」
「だって美佐さんのためのお弁当でしょ?」
「え?」
あぁ、そういえば。お魚が好きかとか聞かれたっけ。え、私のため?
当の母を見れば、いそいそとテーブルにお弁当を広げている。
「食べましょうか」
「はい」
久しぶりに食べたウニ丼は、最高に美味しかった。
そして、その夜もまた、あっという間に眠りに落ち、泥のように眠った。
眠りに落ちる前の一瞬、明日こそ雫に連絡しようと思っていた。