その夜は、ベッドに横になって秒で寝た。いろんな事がありすぎた日を振り返る間もなく眠りに落ちたのだった。
そして翌日、恵さんは午前中に家事を済ませ、午後から出掛けて行った。
「三時ごろに、おやつと水分補給をしたらお昼寝する事が多いです。あとトイレは行く時と忘れちゃう時があるので、時々声をかけた方がいいかな。
「はい、行ってらっしゃい」
少し心配そうな恵さんを送り出した。
「お客さーん、夕べはよく眠れました?」
母は私を『お客』認定したようで何かと笑顔で声をかけてくる。
「はい、ぐっすりと」
「それは良かった」
ニコニコとする様は、営業用というよりは本物の笑顔のようで。
皮肉なものだ。私が子供の頃は、こんな笑顔なんて見たことがない。いつも眉間に皺を寄せて怒っていたイメージだ。私の出来が悪いせいだと思って、頑張って料理を作ったり、成績を上げた時だって「やれば出来るじゃない」と言う程度だった。
「お客さん、お昼ごはんは美味しかった?」
「はい、とっても。この辺りはお魚が美味しいですね」
昔、まだ私がここに居る頃、お客がよく言っていた言葉だ。それは都会に出てから、私も実感していた。
「お魚好きなんですね」
母は嬉しそうにしていた。
「お客さん、ずっとここにいるの?」
母の部屋に居座る私を不思議に思ったようで、笑顔が消えていた。
何て言えばいいんだろう。
「えっと、一緒に……遊びませんか?」
不信がられるだろうか。
母の顔が一瞬で、ぱぁっと明るくなった。
「いいね、何する? トランプ? オセロ?」
よく見ると、部屋の片隅に何種類かのカードゲームや絵本なんかが置いてある。認知症が酷くならないために置いてあるのだろうか、なんとなく頭の体操になるような気もするし。
子供の頃に、母とこういう遊びをした記憶は……ある訳ない。
本当に、何の因果だろうか。
母が嬉しそうに準備したのは、オセロだった。あぁ、簡単なもので良かった。適当に置いて、白を黒にひっくり返して、を繰り返して。あれ、いつの間にか真っ白?
「やった! 私の勝ちね」
「つよっ」
「もう一回やる?」
「やります」
今度は本気でやってやる。
「やったぁ、また勝った」
嘘でしょ、なんで負けるんだろ。
「悔しい」
「ふふ、もう一度やってあげてもいいよ」
上から目線の母の言葉に、悔しいんだけど、ほんの少しだけ楽しいなって思ってしまって、気付けば一時間程経っていた。
「あ、トイレ」
オセロゲームに夢中になっていて、時間を忘れていた。
「お客さん、トイレ行きたいの?」
「あ、私じゃなくて……えっと」
「いいよ、一緒に行ってあげる」
「へ、あぁはい。お願いします」
トイレへ行くよう声をかけると拒否することもある、その時は無理に連れて行かない方がいいーー暴れるからと、恵さんが言っていたので、自分から行くと言ってくれてラッキーだと思った。行ってしまえばなんとかなるだろう。
「はい、ここがトイレね」
「おかあーーおかみさん、先にどうぞ」
「いえいえ、私はいいのよ」
「そんなこと言わず、どうぞ、ん?」
体を触った瞬間、気付いてしまったのだ、ズボンが濡れてる。
「大変、ズボン濡れてるから脱いで!」
「ちょっと、何するのーやめて!」
「だって、おしっこで濡れてるんだよ? こら、抵抗しないで、わっ! 痛っ、引っ掻かないでよ」
大変だった。
暴れると言ったって大したことないだろうと思っていたのだ。とんでもない。どこからこんな力が出るのだろうと不思議に思う。それでも濡れたままにはしておけないから、こちらも力ずくで着替えさせた。抵抗による引っ掻き傷が腕に出来ていた。
大騒ぎだったけど、十分もすればコロッと忘れるみたいで、今は部屋でおやつを食べている。
「美味しいね」
和菓子と緑茶だった。こぼすわけでもなく食べ方は綺麗だ。何が出来て、どういうことが出来ないのか、いまいちわからない。
その後は、布団に入りお昼寝をする。
私は少し離れて、眺めていた。
寝初めて少しした頃、スマホの呼び出し音が鳴った。起きるかと思ったけれど、動く様子がなかったので、襖を開け縁側へ出た。表示を見ると職場からだった。
「そっちは、どうだ?」
直属の上司には事情を話してあるので、心配してくれている。
「なんとか大丈夫そうです」
「そうか、良かったな。戻って来れそうか?」
一週間、休暇をもらっている。それまでに、なんとかなるだろうか。
「たぶん……」
「なんだ、歯切れが悪いな」
「他にもいろいろ問題が生じてまして」
兄からのお願い事をどうするべきか。
「早く戻ってきて欲しいけど、最大二週間までは休み取れるから」
「ありがとうございます」
「また、報告してくれ。それと--」
その後は、引き継いだ案件の細かな連絡事項だった。
電話を終え、スマホを見つめて思った。そろそろ雫にも連絡しなきゃな、心配してるかなぁ、そう思ったら無性に会いたくなった。あの、なんでも受け入れてくれるような笑顔に、早く会いたい。
ふと振り返り、部屋の中を見ると。
「えっ?」
寝ているはずの母の姿が見えなくなっていた。