家に戻ると、恵さんは夕食の準備をはじめた。旅館の方は、一週間だけ休業しているようで、家族の分だけのようだ。
「手伝いますよ」と言ったが「今日はお疲れでしょうから、休んでいてください。明日からはお願いしますね」と返された。
部屋のベッドに腰を下ろすと「あぁ疲れたな」と思わず呟いた。初めて知ることが多くて、頭の中が若干混乱気味だ。
ずっと帰らず、ほとんど連絡も取らなかったのだから、自業自得と言われればそれまでだけど。
ふぁぁ、あくびが出て眠気も出てきた。考えなければならない事もあるけど、後回しにしよう。眠い時はろくな答えが出ないから。
眠気覚ましに荷物を片付けた後、トイレへ向かった。廊下を歩いていると、客室に電気がついているのが見えた。あれ、今は誰もいないはずなのになと不思議に思っていたらスッと襖が開いて、その人が出てきた。
思わず立ち止まった。条件反射で体がこわばる。その人は、こちらを向き近づいてくる。私の顔を見て微笑んだ。
「誰?」と言って。
「えっ?」
「お客さま?」首を傾げる仕草は、何故か幼い子供のように見えて、体が勝手に震えた。
「お母さん?」
その人は間違いなく母で、でも表情は私が覚えている母のものではなくて、混乱していた。
「お母さんなの? 違うよ、私のお母さんはこんなに綺麗じゃないもの」とニコニコと笑う。
これは、ただ単に私の事がわからないというだけでは……ない? かなり見当識がおかしい?
「お義母さん? 部屋にいないと思ったら、ここにいたんですか」
恵さんがやってきて、私と母の様子をうかがった。
「ごめんなさい、驚きますよね。後で話そうと思っていたんです。とりあえず、ご飯食べましょう、ね、お義母さんも」
恵さんは母の手を取って歩き出したので、私も付いて行った。あ、トイレ! まぁ後でいいか。
三人で食卓を囲んだ。
母は終始笑顔で、食べすすめていた。
「食事はしっかりとご自分で食べられるから安心なんですよ」と恵さんは私に言った。
母は食べることに夢中になっている。
食事は。という事は、その他は? と聞きたくなるけど、いくら待ってもそれ以上の話はなかった。たぶん本人の前では言いたくないのだろう。
今日一日、恵さんと接して感じたことが確証に変わる。ほんと『出来た嫁』だわ。
「一年くらい前からかな、お義母さんの物忘れが酷くなってね、しばらく様子を見ていたんだけど、やっぱりおかしいねって、病院へ行ったの。そしたら認知症かもって言われてね。検査したら原因は脳血管性のものってわかったの。お薬は飲んでいるんだけどどんどん酷くなって。美佐さんのことが分からなかったのは病気のせいだからね」
母のせいではなく、むろん私のせいでもないと言う表情をする。
食事の後、入浴を終えて母を寝かせてから、恵さんは詳しい話を聞かせてくれた。
お風呂は「どうせ掛け流しなので旅館の方を使ってください」と言われ、ありがたかった。疲れた身体に温泉が染み渡った。
私がのんびり浸かっている間に、恵さんは家の浴室の方で、母の入浴を介助していたと聞き驚いた。
「自分では入れないほど?」
「洗ったりは出来るんですけど、すぐ忘れちゃうのか同じところを何度も洗ったりして、いつまでたっても出てこないことがあって。滑りやすいから転んでも困るし」
「でも毎日のことでしょ? 大変……」
「一番大変なのは、徘徊で。あ、歩き回ることなんですけど、家の中ならまだしも、外に出られると困るので」
まだ、そういうことは一度もないらしいけど、起きている時は目が離せないのだと言う。
はぁぁ……溜息しか出なかった。
「大丈夫なんですか?」
旅館の方もあるというのに。
「夏の繁盛期には手伝いに来てくれる人がいるから、お義母さんのことは私と聡志さんとで交代で見てたんです」
それって、兄が入院したら恵さん一人ということだよね。
「恵さん、休めてますか? 私がーーお兄ちゃんの代わりにはなれないけど、手伝うくらい……明日からでも……」
「私は大丈夫、そんなことしてもらったら聡志さんに怒られちゃう」
「お兄ちゃんは、そのために私を呼んだんだと思う」
「そんなことは……」
だって、私の親なんだもん。どれだけ嫌っていようと、それは変わらない。
「とりあえず、一週間は有給取ってるから、その間は。ね?」
「あ、それじゃ。明日、ケアマネさんに会いに行くので、その間見ててもらってもいい?」
「はい、ん、けあまね?」
「ケアマネージャーさん。お義母さんの年齢だと本来は使えないんだけど、特定疾患だから介護保険を使えるらしくて、デイサービスを来月から利用しようかって話してるの。その打ち合わせでね」
「はぁ、いいですよ。私が母に付いているので、恵さんはゆっくりしてきてください」
いろんな単語が出てきて、話の半分もわからなかったけど。ついでに息抜きをしてきて欲しいと思った。
母と二人きりになる事に不安はあるものの、どうにかなると思っていたのだ、その時は。