「行ってこい」
兄貴に背中を押された気がして、私は飛行機に乗った。
何度も通話ボタンを押そうとして結局押せないまま、雪のない道を歩いて向かった先は、以前と同じように『OPEN』の札がかかっていた。
懐かしいドアを開けて入った。
「いらっしゃーー」
開店時間から間がなかったため、他のお客はいなかった。マスターの出迎えの挨拶は途中で止まった。私を見て驚いたためだ。
カウンターの奥の席へ座った。
「久しぶりだね、ご注文は?」
「ごめんなさい、烏龍茶で」
バーに来てノンアルコールを最初から頼んでしまって申し訳なく思ったが、マスターは気にする様子もなく頷いた。
「何か食べる? 今の時間なら暇だから作れるよ」
「いいの? オムライスがいいな」
「了解」
出来立てのオムライスを頬張る。
ふわふわの半熟卵としっかり味の付いたチキンライスを同時に味わう。
この空間は居心地が良くて、いろんな事が思い出される。
「マスター、美味しい」
ホカホカなご飯は、胸を熱くさせる。
「お、そんな泣くほど旨いか。良かった良かった」
ゆっくりと時間をかけて食べた。
マスターは最近ハマってるドラマの話をしていた。なんでも主演の女の子が好みなんだとか。それからスポーツの話になり箱根駅伝の楽しみ方を延々と語っていた。
「マスター、ジントニック作って」
「あいよ」
もう少し、この穏やかな時間を引き伸ばしたくてカクテルを頼んだ。
ポツリポツリとお客がやってきていた。
「ねぇマスター、最近あの子来てる?」
おかわりを頼んだ時に、世間話のように聞いてみた。
マスターは、少し考えて「最近は全然見ないよ」と言った。元気にしてればいいんだけどと、気になる言い方をするから、思わずマスターを見つめた。
「そんな怖い顔するなよ、随分落ち込んでたけど頼りになる友達がいたみたいだからたぶん大丈夫だよ」
そっか。
「マスター、おかわり」
「美佐ちゃん、今日はもうやめておいた方がいい。最近は飲んでないんだろ?」
「え、なんで」
「酷い顔してる」
「お客に向かってそういうこと言う?」
確かに、この半年はお酒を飲まなくなっていたのでアルコールの吸収が良くなったのか、たった二杯で酔いがまわっている、ような気がする。この勢いで連絡しよっかな。
「もう帰った方がいいよ、それから酔いが覚めるまで連絡はしない方がいい」
「へ?」
なんでわかるの? 私喋った?
「素面で話した方が、絶対いいから」
酔いのせいで、大きくなった気持ちのまま失言することの多さよ。
バーのマスターの言葉は重いな。
忠告に従って、次の日に電話をした。
伸ばし伸ばしにしていたけれど、いい加減勇気を出さないといけない。明日には帰る予定だから。このまま帰ったら、何のために来たのかわからなくなる。
雫の番号を表示させ、通話ボタンを押す。もしかしたら、もう番号が変わっているかもしれないけれど。
呼び出し音は鳴り続ける、一旦切った。ふぅ、一度深呼吸をする。
もう一度、もう一度だけかけて通じなければ、諦めてこのまま帰ろう。
「もしもし」
あぁ、雫だ。その声だけでわかった。
私の気持ち、想いを伝えた。ただ会いたいと。
自分ではしっかり話したつもりだった。でも、相当慌てていたようで、そういえば雫が何て返事をしたか覚えてないや。
しばらくして、雫からメッセージが届いた。『どこに会いに行けばいいのか』と。
慌てて、滞在中のホテルと部屋番号を折り返した。
会えることが現実味を帯びてきて、緊張と不安が入り混じる。
半年前に連絡を断った彼女。会いたくないと言われても文句は言えないくらいなのに。
何も言わず、何も知らせずに消えたのは私。
もしも逆の立場だったと想像したら……許せないと思う。
マスターの話では、ずっと探していたというし、どれだけ傷つけたことだろう。
謝罪以外に何が出来るのだろうか。
理由を話したところで、ただの自己中な言い訳だ。
考えても考えても答えは出ない。
でも。
兄の最期の言葉が胸に刺さっていた。
本気で好きだから、当たって砕けよう。
「雫……」
想いが溢れて、一人の部屋に私の声がこだました。
その数分後、メッセージを受け取った。
『今から行きます』と。