バタンという何かの音で目が覚めた。起き上がりキッチンへ行くと、テーブルの上にメモがあった。
『走ってきます』さーちゃん特有の、筆圧の弱い字だ。
今、出ていったところのようだ。
昨夜の事を思い出していた。
まさか、さーちゃんが私を求めるなんて思いもしなかった。行為の最中、ずっと泣いていたように思う。涙は出ていなかったけれど、そんな気がして仕方ない。私のために……ごめんね。
いつもそうだ。さーちゃんの優しさに甘えてしまう弱い私。
どうすればいいんだろう。
顔を洗って、コーヒーを淹れて考える。なのに、お腹がキュルキュルと鳴いた。
料理をするのは好きだ。
誰かのために作るのが好きだ。
何が食べたいだろう、どんな気分なんだろう、どんな顔をして食べるんだろう、想像するのが好きだ。
さーちゃんは、今日はどのくらい走ってくるのか。どれくらい疲れて帰ってくるんだろう。そんなことを考えながら、朝ごはんを作った。
ガチャリ。玄関から音がしたので、そちらを向くと。
「どうしたの? 雨降ってた?」
ずぶ濡れのさーちゃんが立っていた。
「いや、ピーカン」
「まさか、汗?」
はっ、嘘でしょ、あはっ、やばっ、ほんとに?
笑いが止まらなくなった。
そんな私を見て、つられてさーちゃんも笑った。どこかホッとしたように。
二人で散々笑った後。
「ほら、シャワー浴びてきて、ご飯できてるから」と誘導した。
「昨日はごめん、どうかしてた」
食事を終えて、落ち着いた声でさーちゃんが話し出した。
走りながらずっと反省していたと言う。それであんな汗まみれになるまで走ったのか、昔から集中すると時間を忘れるタイプだったな、さーちゃんは。
「私の方こそ、どうかしてた。さーちゃんが止めてくれなかったら、どうなってたことか」
自暴自棄って、こういう時に使うのかな。
「助けてくれてありがとう」
そう言うと、少し困った顔をした。
「お礼なんて言われたら困るよ、私だってしーちゃんの寂しさを利用して……あんなことしちゃったし、なかったことには出来ないけどーーごめん」
この前さーちゃんが、謝らなくていいって言ってた意味がようやく分かった気がした。
ごめんと謝られると、逆に傷つくこともあるんだな。
「さーちゃんは、なかったことにしたいの? 私のこと好きっていうのは嘘だったの?」
「え、そんなっ、ことはない、けど、なんだかズルい気がして--私の気持ちばっかり押し付けたから」
さーちゃんの気持ちは、あの時痛いほど分かった。いつもは冷静なのに激しい感情をぶつけてきた。それでもとっても優しくて、抱かれた時は暖かい気持ちになった。
私はどうなんだろう。
さーちゃんのことをどう思ってるのか。
その事を朝からずっと考えていた。
「私はさーちゃんのこと、今までそういうふうに見たことなかったから」
わからなかった。
近くにい過ぎて、恋愛対象として考えたことはなかったから。
「そうだよね、わかってる。一生この気持ちは言わないつもりでいたのに、ごめん」
「それはそれで、寂しいかも」
「え?」
「さーちゃんの、本当の気持ちを知らないままっていうのは寂しいと思う」
それくらい、私はさーちゃんを信頼してた。
「そうだね、しーちゃんは、いつだって本音だったね」
ハッとした。
さーちゃんが私の事を想ってくれてたとしたら、恋愛の悩みや報告を逐一報告なんかして、ずっと傷つけていたのかもしれないな。私はそういう人を思う気持ちが欠けている。身勝手だ。
「さーちゃん、ごめん」
「責めてるわけじゃないよ、私はそんなしーちゃんが羨ましくて、憧れでもあって、最後だからもう一度ちゃんと言うよ。ずっと好きだった」
「ちょっと待って、最後ってどういうこと?」
「だって、ここから出て行くんでしょ。そしたら、もう会えないよ、会わない方がいい」
さーちゃんは、いつもそうだ。自分の事より相手のことを考える。自分の欲というものを前面に出したところを見たことがない。だからきっと、これは私のためなんだろう。でも。
「やだよ、さーちゃんと会えなくなるなんて」
私はわがままだ。さーちゃんに対しては特にそうだ。甘えてるんだろう。今までがそうだったから、何でも許してくれたから。
でも、そうか。もういいかげん自立しなきゃいけないよね。もう、さーちゃんを傷つけたくはないし。
「わがまま言ってごめん、今までありがとね、荷物まとめるね」
困ったような顔をして俯いたさーちゃんに言い残して、部屋を出た。
自分のモノが増えていたような気がしていたけど、小さなものが多かったせいか、鞄に詰めたら二つで収まった。
衣服は箱に詰めて、後で取りに来るか送ってもらおう。
リビングへ行くと、さーちゃんはソファに寝転がって目を閉じていた。
早朝ランニングで疲れたのかもしれないな。
静かに近づいたのに、さーちゃんは起き上がった。目を見たら赤くなっていて、寝ていたわけじゃなかったことを知った。
「行かないで」
掠れた声で、確かにそう言った。
話を聞いてほしいと言ったので、コーヒーを淹れてソファに座った。
「私、自分が好きじゃないんだ」
さーちゃんは、そう話し始めた。
「私は愛されないって分かってる。大好きだった
子供の頃から近くにいたのに、さーちゃんがそんなふうに思ってたなんて知らなかった。
確かに口数は少なくておとなしい性格だけど、温和で誠実で、友達からも信頼されてるのに。
今にも泣きそうなさーちゃんを抱きしめた。
一瞬ビクッとしたけれど、その後は動かなかった。
「どこにも行かないよ、さーちゃんは私なんかより優しくて誰からも愛される人だよ、だから自分を好きになって」
そのまま、二人で暮らすことにした。