その頃、例の店の前では……
「しくしくしく……どうして俺は……」
鏡一郎が涙をはらはらと流し、がっくりうなだれていた。
目のにある錆だらけのシャッターに手が届こうかと言う、上半身だけで宙に浮かび。
こんなところを人に見られたら、大騒ぎは必至だ。幸い、そこは少し細い路地で表通りからは遠いらしく、人通りは無かったのだが……
「はっ!?」
運命とは常に非情なもの。
軽やかな足音が鏡の耳と心臓を直撃した。
「ダ、ダメ……来ないで……」
「おっ!? お~っ!!?」
響き渡る歓喜の声。
あ~、見つかった~!
「あっ、あ~! 神様~!!」
鏡の姿を、ライトが照らし出す。かなり強力な。
咄嗟に顔を隠す鏡だが、その哀れな姿はすっかり丸見えだ。
「大変な発見じゃ! 脚の無い男が宙に浮かんでおるわ! これは、幽霊かのぅ!? それとも宇宙人!? ともかく超常的な現象が起きているに違いないの~う!! それでは、我、少しだけ近付いてみりゅぅ~!!」
それは思ったより幼い雰囲気の、弾む様な、それでいて変な語り口調だった。ところが鏡はその喋り方やイントネーションに覚えがあった。まさか!?
でも、ネットでは声も加工しているので、それだけではあの超有名な現役JDVtuberな漫画家本人とは思えなかった。何しろ超有名な人だから、口調を真似してる売れないVtuberである可能性が99%(鏡独自の比率)もあるのだ。
指と指の間から窺い見れば、左手にマグライト、右手には自撮り棒の様なものを構えた、明らかに小柄な女性と思しきシルエットが、小走りに駆けて来るのが判る。
うっきうきで。
「頼む!! 消えないでくれ!! お話をしようではないか、のう!? 幽霊くん!?」
「幽霊違います! 人間です! お願い、映さないで流さないでネットで晒さないでー!!」
「え~!!?」
明らかに残念がる声が。だが、すぐ気を取り直したらしい。
「い、いや。普通の人間なら、これはこれで大バズり間違いなしじゃ! の、のう~。モノは相談じゃが、顔にはモザイクをかけるからの。この契約書に一筆入れてくれんかのう?」
そう言って、いきなりライトを消されて目の前が真っ暗になった鏡に、ごそごそと何やら背中にリュックでも背負ってたらしく、そこから書類を一式取り出して改めてライトを点けた。
「何々、全ての権利を甲にって、これ、俺のメリットゼロやないですかーっ!!?」
「ま、まあそう声を荒げるものではないぞ。他の者に気付かれて、騒ぎが大きくなってはそなたも困るのでは無いかえ? 何も我の奴隷になれと言っておるのではないぞよ。契約書を交わせば、そなたの身元に関してはひしゅぎむとやらが生じてな、何か不都合があった場合は弁護士とやらを交えて交渉とやらが出来るらしいのじゃ。ホントじゃぞ。難しい事を言ってそなたを騙そうなどとは、これっぽっちも無いのじゃ。ほれ、我の目を見てみい」
そう言って、マグライトで顔を下から照らすものだから、実にホラーな。
「ふわわわわ!!?」
「ほれほれ。そう騒ぐでないわ。さっきまで、しくしく幽霊みたいに泣いておった癖に。ちょっとした乙女のイタズラでは無いか。男なら笑って赦すのじゃ。小さい事にくよくよしていては、大きな仕事は出来ぬというものじゃ。ほれ、拇印をここにな」
「やめてー!」
そのカラコンでオッドアイにしている猫耳をした白髪の少女は、不思議なぱわーであっという間に契約書を作成し、一枚を鏡の胸ポケットにねじ込んでしまう。
「ほほほほ、これさえあればもう大丈夫。我、法律には強いのじゃぞ。どれくらいかと言うと、超人強度一千万ぱわーくらいあるのじゃ」
「はわわわ。手が、手が勝手に……」
震える手で契約書を取り出し開いて見ると、拇印も本人のサインもしっかり入ってしまっている。その子に手を取られ、ペンを握らされ、促されたらすらすらと書いてしまったのだ。
「ではのう。早速、その下半身とのもにょもにょな部分をじっくりとの」
「はわわわ~や~め~て~、はっ!?」
見えない側に回り込むその少女に、手にした契約書を取り落しかけてまじまじと。そこには『魔女まんじ』と書かれてあり、契約書にペンネーム? と一瞬頭を過るが、まじか!!? そっちの驚きの方が大きかった。
「うわっ、これもモザイクが必要じゃの。どれ、触ってみるが、良いかの?」
「すぁっ!? 触ってるじゃないですか触ってるじゃないですか!? 聞く前に触ってるじゃないですかあー!? 貴方、本当にマジでまんじ先生なんすか!? 神っすか!? 俺、ファンなんです! け、契約書の裏で良いからサインくれませんか!?」
「ほほほほ、皆同じ様な事を言うのう。良いぞよ良いぞよ。我のファンならば、それなりに饗じてやろうではないか。我はファンには優しいと評判の現役JDVtuberな漫画家なのじゃからな」
それから鏡の撮影会がこの薄汚い路地裏で遂行されてしまうのだが、サインを貰った鏡は終始上機嫌でもろ肌脱いでのポーズ迄お手の物だった。
「でも、何で先生はこんな時間にお一人で?」
「ふむ。実に良い質問じゃの。因幡の白兎くん。涙の跡がまるで昭和のサイボーグじゃ。泣いた赤鬼がもう笑ったといったところかの。つまりはの、ズバリ勘じゃ。くりえいたあなる者は常にアンテナを張っておるものなのじゃ。そして我のアンテナが今宵の『あきばはら』は絶対に面白いと告げたのじゃな。うむ。故に、我はへんしゅーとの約束をすっぽかして、一人夜遊び、もとい取材に荒野へと旅立った次第じゃ。あーっはっはっはっは! ……やってもうた……」
どうやら気分転換に外出したら、時間を忘れていたらしい。
その場に膝からくずおれるまんじ先生。
「携帯は!? 携帯があるでしょ!?」
「我は携帯に縛られない女」
「何、アホな事を言ってるんすか!? あー、もう俺の下半身さえあればー!」
「ただし、締め切り。おめーは別じゃ」
「あーもう! そっちは大丈夫なんすかー!?」
「はわわわ。解放されたのじゃ。今朝、漸く一本から解放されたのじゃ。その喜びを、全身で表現したところで何が悪いと言うのかの? の?」
どうやら自虐ネタで楽しくなって来てしまった様だ。
さっさと帰ってあげないと、色んな人が大迷惑なんじゃと、鏡の癖に妙な心配をしてしまうのであった。が……
「カガーミ!」
そんなところに、長身の黒い影が。
路地で小さく丸まっていた、黒い精霊がパッと駆け寄ってはボビーの腕の中へと消えた。
今まで、あまりの恐ろしさに、震えて縮こまっていたのだ。それ程に、この路地は自然界の精霊にとって、淀んだおぞましい気配に満たされていた。
瞬間、ボビーの脳裏で紀子が二日前に遭遇したという猫耳の妖魔らしき存在と、目の前の猫耳女が重なった。鏡がピンチだ!!
「カガーミ! モンスターね!!?」
「モンスターでは無い!!」
ボビーは全身に埋め込まれた精霊たちに、彼らが宿る全身に施された入れ墨に呼びかけた。この気配。恐らく、敵は魔将クラス! 果たして鏡を人質にされた状態で、どこまで太刀打ち出来るのか。せめて、鏡から敵を引き離さなければ!
そんな緊張感みなぎるボビーに、鏡の言葉はちょっと意味が判らない。
「ワッツ!?」
「神だ!!」
ちょ、ちょっと意味が判らない。
すかさず、魔女まんじは手のマグライトを照射した。微笑みながら。
「シッツ!」
精霊の知覚を借りたボビーには、この人工の光は強力過ぎた。
のけ反る様に光から逃れようとするボビーを眺め、魔女まんじはさてどうしたものかと。
「泣き兎くん。君のお友達かの?」
「えっと、同僚です」
「あー、お仕事の」
「君の毛皮をはいだワニではない、か……」
「そーなりますね」
いや、ほんとにどうしたものか。
とにかく、魔女まんじはパチリとライトを切った。
ファンの知人を殺すというのは、例え術者だったとしても忍びない。そうは思うものの、ここまで来たという事は、そういう事。今宵辺りがいよいよとで、見届けてやろうと出て来たは良いが、最近は退魔師どもに気取られて来たからにはこういう事にもなるか。
「どうもー、現役JDVtyber漫画家の魔女まんじじゃー! お兄さんにも、ご出演願って良いかのー!? 顔出しOK? NG? OK? OK? 取材だけでもウェルカムじゃぞ?」
この数年、鍛えらて来た演技力でどうにかなるかも。
何しろ妖気は出しておらぬしな。
例えこの映像がお蔵入りになったとしても、それは人間の弁護士を挟んでの事となる。問題は無い。退魔師どもに警察権は無い。筈……我は人間の法律には強いのじゃ。
その時である。
ズドン!! と地面が跳ね上がったのは。