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第43話「それが絶望だ」


 ぶろろろっと排気音も軽く古い4サイクルエンジンが精細なピストン運動を繰り返し、駒形橋に差し掛かった所で紀子は車体を左端へと寄せ停車する。

 エンジンを切ると、途端に冬の寒風がヘルメットを撫でる音が響きだし、無常観に似た面持ちでそれを脱ぐと、吹き抜ける風に頭髪が逆立つ様だった。口元から白い息が、吹き流しの様に闇夜にたなびいていく。それを行き交う車がかき回す。


 川は風の通り道でもある。

 僅かな湿り気を帯びたそれが吹き抜け、紀子の頬を打つ。が、その瞳は川面に浮かぶ光の乱反射をじっと見つめ、その心は遥か後方の秋葉原にある。


 今日も定時であがらされてしまった。

 妖魔退治に定時も糞もあるもんか、とも思ったが、支部長の決定は絶対だ。紀子が糞みたいな実家を出て東京で暮らせているのも支部長からのバックアップが大きかった。何しろ未成年である。自由に出来ない事の方が多い。社会の壁という奴である。それで色々と頼ってしまっている以上、あまり迷惑はかけられない。

 進展が行きづまっている今、鏡はともかく他の大人たちに混じり夜も寝ないで探索を続けたかった。


 敵対する術者が操るプレミア価格30万円の魔法少女フィギュアの出所。

 事件現場に僅かに残された美味しい香りの出所。

 変な空間に入り込んでしまう異常事態。それを知っていて管理してるらしい謎の女たち。

 そして、紀子が遭遇した猫耳尻尾の一見可愛らしい妖魔。更に現れた地獄龍と名乗った魔将の存在。


 これまで紀子が闘って来た妖魔は、山間で登山客を襲う程度の知能の低い、下級妖魔と言われる類ばかりだった。人語を解する上級妖魔と言われる化け物とは違っていた。闘ってみて判るのは、奴らは強い、という事。

 猫の様に素早い猫娘。

 生きたマグマの様な、地獄そのままの魔将。

 次に奴らと対峙した時、果たして勝てるのだろうか?

 これまでは、たまたま生き残れたに過ぎないのではないか?


 すうっと息を吸い、目を細めた。

 暗闇に奴らの姿を思い浮かべ。

 そして、紀子は心に剣を。その切っ先を奴らに向けた。

 吹き抜ける風と共に、奴らが襲う。それを迎え撃つ。切り結ぶ。ひたすらに。


 次に逢った時はその外見に誤魔化されまいと誓う。


 次に逢った時は必ずや片腕片足、その一本でも叩き切って見せると誓う。


 命に賭けてもと。


 狡猾な笑みを浮かべ、幻惑する猫娘。

 黒い仮面の奥、炎の如き眼光を爛々とさせ灼熱の炎を纏う魔将。

 それらに五体全て使い、幾千幾万の太刀筋で立ち向かう。剣を砕かれ、すり抜けられ、骨を砕かれ、手足を切り落とされ、腹をかっさばかれ、弾かれ吹き飛ばされ地を這う中、次第に太刀筋が集約されていく。

 紀子の学んだタイ捨流とは、元を辿れば、新陰流、陰流、一刀流、鹿島神明流と数多の剣士を通じ連綿と磨かれ続けた太い流れの果てにあり、その中でも二の太刀要らずとする一刀流の奥に、一の太刀というものがある。

 未熟ながらも、それに迫ろうというのか。

 強き者との出会いが、若さ青さからあらゆるものを削り落そうというのか。

 それとも、ただの気の迷いか。


 風は答えてはくれない。


「ん?」


 どれだけ時間が過ぎたのだろうか。

 不意に携帯が鳴る、振動音が胸元から。

 紀子は、ライダースーツの胸元を開き、そこから携帯電話を取り出した。


「はい。もしもし?」

『助けてのりちゃん助けてぇーっ!!(ブツッ ツーツーツー……)』

「えっ!? もしもし!? もしもし!? まなみちゃん!!? もしもーしっ!!?」


 唐突に血の気が引いた。

 慌ててこちらからかけ直しても。


『(現在、この番号は電波の届かない所にあるか、電源が入っていません。現在、この番号は──)』

「な……」


 冷え冷えとした自動音声が同じセリフを繰り返すばかりだ。

 一体、まなみに何が!?

 驚愕と焦りが胸を苛む。紀子はヘルメットを被るや即座にエンジンをかけ、車体をUターンさせた。



 ◇



 唐突にシャッターが閉まるや、店内の光が暗転し不気味な暗緑色に彩られ、音も無く談笑していた人々の動きもピタリと止んだ。


「あ、あまねさん?」

「あまねちゃん!?」


 まなみとミャオの二人は、口を開いたまま凍り付いた様に笑顔を隣の男性に向けているあまねに手を伸ばしかけ、ミャオはハッとなって手を止めさせた。


「ダメにゃ!」

「え?」


 じんわりと汗ばんだ手がまなみの手を押し戻した。


 何故? どうして? 目の前に、あまねさんが居るのに?


 ミャオはその疑問に答えるよりも、全神経を集中させる。


 シャッターの余韻がまだワンワンと唸っている。調理場からはコンロの微かなガスや換気扇の排気音が聞える。だのに、この店に居る人達からは、一切の呼吸音が聞えて来ない。

 それどころか、空気の匂いすらがらりと変貌していた。

 美味しそうだった料理の香りに混じり、何とも嫌な匂いが立ち込め、一息吸っただけで胸が悪くなりそうだった。


「下がるにゃ!」

「え? 下がるな?」

「ちゃうにゃ!」


 前に出ようとするまなみを背で押し返し、ミャオは油断無く身構えた。その時である。この店に居る客が、一斉に二人を見たのは。


 それは余りに不自然な光景だった。

 その数は二十名ほどだろうか。首がぐるりと曲がり様の無い角度に曲がり、緑色の肌はまるでファンタジーものに出て来るモンスターの様で、白濁した瞳からは生気の欠片も見出せず虚ろで、ぽっかりと開いた口からは異様な呻き声が漏れいずる。


「いやああああああああ!!?」

「ふーっ!!」


 余りの気持ち悪い光景に、髪を振り乱し悲鳴をあげるまなみ。それを庇い、壁に押し付ける様に身構えたミャオの爪がすらりと伸びた。


「ああああああああああ!!?」

「まなみちゃん!! しっかりするにゃ!!」


 ざざっと一斉に立ち上がるあまねたち。ゆらりゆらりと身体を揺らしながら、ゆっくりとその両手を前へ、まなみとミャオの方へと差し出してゆく。それをミャオの爪が払うや、指の数本がちぎれ跳び、それがぽとりぽとりと床に落ちるのを見てしまったあまねは、絶叫上げて闇雲に駆け出してしまった。


「嫌あああああああああ!!」

「まなみちゃん、ダメにゃー!!」


 ぬらり、冷たい手が腕や頬に触れ、掴んで来る。その気色悪い感触が、泣き叫ぶまなみを更に狂気へと誘った。心臓がはち切れんばかりに脈打ち、脳の血管が焼き切れてしまいそう。誰か助けて!! 助けてお母さん!! お父さん!! のりちゃん!!

 身をよじって抵抗するまなみは、あろう事か奥座敷に転がり込んでしまっていた。

 無数の腕に取り押さえられかけたその時、飛び込む様に割って入ったミャオがそいつらの腕を切り裂き、蹴り飛ばす。息もつかせぬ素早い動きで、座敷に上がり込んだ連中を叩き出す。


「しっかりするにゃ!!」

「だってだってぇ~……」

「助けを呼ぶにゃ!! 誰でも良いにゃ!!」

「ぐす……助け? ぐす……」


 肩で息するミャオの背を見上げ、よろよろと携帯を開くまなみ。

 震える手でガチャガチャと。クラスメイトや地元の友達などの名前がずらっと並び出るが、誰に助けを求めるの!?

 あいうえおかき! あっ!


『はい。もしもし?』

「助けてのりちゃん助けてぇーっ!!(ブツッ ツーツーツー……)」


 え……?


「嘘……」


 信じられなーい! 電話に出たと思ったら、切れちゃったよおっ!


 まなみは慌ててリダイヤルするのだが、繋がらない。

 ハッと画面を見れば、アンテナが一本も立ってない!?


「何で!? 何で何で何で!!? 今、繋がってたじゃないのーっ!!?」

「まなみちゃん!?」

「嫌、嫌、嫌、嫌、嫌ぁーーーーっ!!!」


 涙と鼻水でもうべちょべちょなのに、まなみは画面を食い入る様に見つめ、でたらめにボタンを押しまくった。とにかく押しまくった。そうしていなければ、もう頭がどうにかなりそうで。いや、もう既に正気を失っていたのかも知れない。


「若い娘よ。それが絶望だ」


 野太い男の声が、店内に静かに響いた。

 無感情な、冷たい声が。




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